§6§
森の中はふわりふわりと霧が立ちこめて、淡い紫色が占めている。
目を凝らしても数メートル先すらおぼつかない視界の中で、しかし確実に魔力の流れが方角を示してくれた。魔源はより濃ゆい魔源のある方へと集束する法則性をもつ。そして、もしそこに魔源を帯びる「主体」があるとすれば、今度はそこから【魔力】が放散されることになる。魔源の流れを追い風に、魔力の放たれる方向へ進んでゆけば、いずれ必ず発生源に辿りつくはずだ。
ばしゃ、ばしゃと葉をかき分け、足元の確認に一つ一つ杖をつきながらマウリンは一歩ずつ森を奥へと進んだ。茂る植物はどれもたいそう育ったもので、枝は太く、葉はまるで壁のよう。もとより、精霊族たちですら閉ざしてきた未踏の土地にヒトの進むべき道などないのだ。
この森は、あまりにも魔源が濃すぎる。
魔源とはすなわち、不思議を顕現する魔力のエナジーである。と同時に、精霊族にとって生命の維持に欠かせない重要な養分でもある。その組成分は環境によって異なり、数ある精霊族のうち四大と呼ばれるフェアリーやウンディーネ、ノームたちはそれぞれ風、水、土と異なった性質の魔源を己らの領分としていた。今でこそ人間支配が大半に及んでいるものの、ここ、ラカ大陸がまだ精霊族のものであった時代には、水属性の精は湖や海に、風は山や谷に、土は洞窟や地底湖にと、各属性に適した精たちが魔源の湧現場所を郷里としていたものだ。戦争が起こる以前には、マウリンも幾度かノーム(小人)たちの洞穴に厄介となったことがある。もてなされた泥スープの一種芸術を帯びた味に、シワの寄る苦酸っぱい思い出がある。
比較的明るい記憶をたどりながら、マウリンは改めて周囲の魔源を調べた。手のひらを伸ばし、空気中にある魔源の色合いを探る。
「濃い負の魔源の中に、わずかにじゃが熱が混じっておる……近いのう」
ぼそぼそとつぶやくと、マウリンは件の魔力のある方を辿った。意識すべき魔源の属性は、決まっている。
精霊族の中でも、人間と特に縁遠い存在であったドラゴンが、その命の源としていた魔源の属性は「炎」である。灼熱の火山でも居眠りができると伝わる肉体の内部では、常に血液が煮だっているという。
太古から変わらぬその容姿は、威厳と壮麗に満ちている。巨躯で強靭な肉体は大天上の頂きを舞い、ありとあらゆる生物の頂点に君臨し続けてきた。たとえ知に優れた人間たちであっても、その標的外とは決してなりえない。
四足に尾、背からはコウモリのような翼を生やす形態。生半可な魔力ではビクともしない真赤のウロコに鋼鉄のような体表面から生える無数のツノ。骨ごと肉を引き千切る太いキバ。岩すらえぐり出す鋭いカギヅメ。そして「炎」を司る強大な魔力。優に三十メートルを超す双翼は地に大きな影をおとし、威圧する右翼と左翼は、対峙する者たちに恐怖と恍惚とを思わせしなに飲み殺す。空気に含まれる魔源を肺に吸い込めば竜はそれだけで、密度が臨界に達した魔源を暴発させ、超高熱の魔力=火炎弾をぶっ吐き出すことができる。
かつて竜王が「天空を焼いた」凄まじき威力を、マウリンは今でも鮮烈に覚えている。大地に轟く咆哮の一ページが脳裏に蘇れば、ふと、熱い魔力が現実の肌にもぴたりと触れた。
葉の壁をかき分ければ、光がこぼれだす。
「――おったか」
聖域の最奥とも呼べる森の深部には一つ、拓けた空間が在った。空高い巨木たちがつくる葉の天上も、ここだけは大きな穴を開けて月光を差しこんでいる。まるで自然が作り出す神秘的なステージ。照らし出されるのは寄り添う竜の親子だった。
母は子に、ゆっくりと口を近づけた。
口元から赤みを灯した焔がながれてゆき、子の体内へと淡い緑を灯して移っていく。
魔力の一端を分けあたえ、傷ついた肉体を癒そうとする行為だが明らかに限界とみえた。
竜の子は致死に至る量の体液を、すでに垂れ流し、失っている。両の肩口からあふれ滴る先の血だまりに、もう湯気はのぼっていない。ましてブッヒーニから猛攻をうけて傷だらけなのは、母親のほうだ。与えられる魔力そのものにも限りがあるはず。
月明かりに髭面をさらしながら、ステージに上ったマウリンは、竜へと近づいていった。
杖を両手にもちかえ前に突き出し、ゆっくりと詠唱を開始する。
あたりにふうと魔源が寄りそい、術者を取り巻くようにして風が起こり始める。央都であればこれほどの魔力を生成することは叶わない。場所が場所だけに、体の奥底から溢れんばかりのエネルギーが漲ってくる。