§3§
狂気に染まったブッヒーニは、運命を変えると謳われる剣を思いきり引き抜いた。拍子に品のいい金属音が鳴り、ふわりとした風がとおる。刀身から溢れる紫色の魔力が、周囲へ生暖かい空気をおしつけて直後、ブッヒーニの鋭利な瞳が煌めく。
張り付けにした「竜」の子供へ向けて、空間を切り裂く音が轟いた。子とはいえ硬い鱗を持っているはずの竜の体を、剣はいとも簡単にぶち貫く。あり余る威力は肩口から先の腕を跳ね飛ばし、血を吹かせた。
痛みにもがき、逃げようとする子竜の頭蓋を、ブッヒーニは思いきり板に押し付ける。
「もっとだ足りない。もっと苦しめ。叫べ。命を請え。助けを求めろ」
荒ぶる剣士の異常な腕力に、マウリンは確かに魔器の力を感じた。
竜の残党がまだ生きていたという事それ自体、かつての戦争で前線にいたマウリンには驚きだ。だがそれにもまして、戦争時代を知っているはずのブッヒーニがまったく怖気なく精霊族を相手にすることもまた仰天事だった。魔源を用いて魔法を発現させる人間と違って「魔力」そのものを司る精霊族は、古来より高等の生物として畏れられている。戦時中にラカへと赴いていたはずのブッヒーニもその例外ではないはずだ。
膝が上がると一気に下ろされ、子竜の顔面を踏みつけた足が「ぶふぃ!」と鳴いた。音とは釣り合わず、凄まじい圧力が地面を介しこちらの足元にまで届く。
だが静かになった竜は、気絶したかと思いきや自らの意志で口をつぐんでいた。
「……くそ生意気な奴め」
「もうよかろう。今日は来なんだ。あたりも暗くもなってきておる、時限じゃ」
「いいやまだだ! まだ足りない! コイツは私を舐めてる!」
わめいた口からツバがとんだ。パープルソードが頭上に振り上げられると、ブッヒーニの狂気もいよいよ上り詰めたように思えた。瞳の中には黒い光が宿り、視点もおかしい。
マウリンは杖を構えた。
カアァ――――ン!
刃と杖、その一点が拮抗するとそこから光がほとばしった。本来ならば容易く受け止められるはずの物理的な一撃でも、これがブッヒーニとパープルソードを併せた破壊力なのか、さすがのマウリンも歯を食いしばった。ぴしっ、と杖にひびが入る。
「もうよいと言うておる」
「――邪魔するなマウリン! もう魔源郷はそこにあるのだ、すぐそこに!」
「落ち着け。もう夜も間近じゃ」
これ以上やれば子竜は死ぬ。残党の精霊族をおびき寄せる手はずが、ただ嬲り殺しになるだけだ。剣を手にするだけでこれほど自我のブレる男とは知らなんだが、やらせるわけにはいかない。もとより統制会から精霊族との係りあいを避けるよう命じられている。それを魔源郷の調査のためとはいえ犯しているのだ。いくら四天王とはいえ荷が重すぎる。
舌うちすると、ブッヒーニは下がった。
鋭利な眼つきは相変わらずだが、理性は取り戻したとみえる。しかし。
ブッヒーニが剣を鞘にいれ、収めきろうとしたその時だった。
まるで大地の底から湧き上がるような『咆哮』が世界を揺らした。
すぐさま全隊員が武器を構えるが、周囲を見渡す限り何も見えない。暗がりの森には全方位から魔力が発せられているだけで方向性は掴めなかった。
改めて自分の身を置く状況に、マウリンは嘆息した。
「なんという魔力じゃ」
肌に感じる強力なエネルギーに、老いた手が微かに震えた。
懐から取り出した魔源の原水を腕に射しながら唱詠を開始する。エメラルドに光る液体は体内に入ってもしばらく発光を続け、やがて瞳に宿る。人間が発現できる魔法のレベルは環境によってずいぶんと変わる。たとい高位の呪文を唱えたとしても、魔源が無ければすかしっ屁のように終わってしまう。さらに魔源はより強力で濃い魔源のある方へと流れてゆく性質もつため、強力な魔力をつかさどる精霊族が相手では一層歯がたたなくなる。
その対策として血中に魔源を注ぎこむのだ。
「マウリン、アンタは引っ込んでいても構わない。私一人でも十分だ」
一度は収まろうとしていた剣をすっと抜きだし、ブッヒーニは瞳を煌めかせた。
「侮るなと言うたはずじゃ。相手は精霊族、その最強の種族じゃ」
紫色の光を放ち始める剣を見つめ、ブッヒーニが鼻をならした。
空の一点を見つめ、青年は笑った。
「一匹だ! 期待して損したな! すぐに終わらせてやる」
無駄口を叩いているうちに突然、森が赤みを帯びはじめた。隊員がざわめき、熱っ気が辺り一帯を支配しはじめてやっと気づく。
「皆伏せるのじゃ!」
轟音をつれて、天上から巨大な火炎弾が降り注いだとき、隊の反応は三様だった。一人はその場から「ぶふぃ!」の音を残して消え、一人は防壁の呪文を発動し、他は固まっているしかなかった。