90s nostalgia Ⅴ
ダイスの目は六と三を示している。スノッブが三を示したダイスを指で弾いた。ダイスは綺麗に半回転して四の目を示した。
「ぬっふっふ。完勝完勝」
ダイスは初めに先攻後攻を決めた後は――二戦目以降は敗者に先攻後攻の選択権が与えられる――勝敗を表すのに利用されていた。
最終戦績は六と四。
「空也君。見たまえよ。そして言いたまえ。勝敗を」
スノッブは汚かった。ひたすら汚かった。
スノッブのデッキは通称近代美術館と呼ばれる一人回し専用のコンボデッキだった。
一枚数万円もする希少価値の高いカードがふんだんに盛り込まれ、脅威の一ターンキル率八十パーセント越えを叩き出す。そのあまりの極悪さに、デッキのキーカードが何枚も禁止カードリストに記載されているといういわくつきの代物だ。
だが、それはあくまで公式大会においての話。
私闘にルールは無用とばかりに、スノッブは財力に任せて蹂躙の限りを尽くした。
空也の代わりにアンティークドールのローズマリーちゃん――推定五百才、お値段はスノッブの札束デッキとほぼ等価。スノッブの数あるドールコレクションのひとつ――が座っていたとしても勝敗には微塵も影響しなかったとものと思われる。
「……ジウゼロです」
悔しさに声が震える。
「あーん? 聞こえませんなぁ。もっと大きな声で言ってもらいませんと。あー、目も悪くなって良く見えん。で、何対何でしたっけ? 十回もしたからなぁ。さすがに覚えてないなぁ」
スノッブはわざとらしく耳に手をあて、目をぱちぱちと瞬かせている。
勝負の結果よりも、スノッブの策略にはめられたことのほうが何倍も悔しかった。だが結果は結果として認めなければならない。
「十対ゼロでスノッブさんの勝ちです」
「おけおけ。お互いの健闘を称えあおう。グッドゲーム」
空也が宣言すると、スノッブは凄く良い笑顔で右手を差し出してきた。
勝負の結果は認められても、スノッブの存在まで認められるかというと、それは全く別の話だった。にやにや笑いを浮かべているスノッブの存在はどちらかというと消去してやりたい。
「おーっと、姑息な手段に出るつもりかな? リムーブしてブロックすれば俺の顔は見なくてすむだろう。しかし、その瞬間、俺の記憶には負け犬の姿が記録されるのだ」
クーヤは諦めてスノッブの手を取った。せめてもの報復としてその手を力の限り握りつぶした。と、スノッブの手の中に何か硬いものが隠されていた。ちょうど手のひらに納まるサイズ。それを握らされた。
空也は訝しく思いながら手を開いた。
ゲームのロムだった。
「これは?」
「鈍いなぁ。忘れたのか? 賭けただろ。真実。それが真実だよ」
「でも、俺は負けたのに……」
勝者から敗者に譲渡されるのは屈辱であるはず。それが賭けというものだ。スノッブの意図がつかめない。
「ナズナがやってたゲーム。お前の言ったとおりだよ。俺はコンプリートしてるし、協力を惜しむつもりもない。だけどな……これ以上言わせんなよ。ま、やってみな。面白いから」
スノッブはそれだけ言うと、ヒラヒラと手を振りながら立ち去った。
屈辱。
ゲームに負けただけではなく、敵に塩まで送られてしまった。
さっさと仲直りしろ。
そう言われた気がした。
「くそっ。なんて嫌なやつなんだ」
空也はゲーム機にロムを乱暴に突っ込んだ。
冒険の始まりを予感させる明るいメロディーが流れ出した。
ユグドラシルは今日も変わらず回り続けている。
共有する認識が共通する世界を形作る。
現在では常識となった感覚だ。
しかし、断片化直後の世界ではパラダイムシフトを受け入れられた人間とそうでない人間がいて……結果、世界は断絶してしまった。
もしくは現在でも断絶は続いている。
断絶という言葉はいつしか断片化と姿を変えた。旧世界を思い起こされるというのが主だった理由だ。一方で現実の本質は何も変わらないままだ。
民族、宗教、言語、文化、価値観……コミュニティーを隔てる境界は様々であり、それは曖昧でもあり明確でもある。
世界には無数の扉が閉じられており、一人の人間が両手に持てる鍵の数には限りがある。
開けられない扉の先に存在する世界は存在していないも同じ。
食べられない葡萄を酸っぱいと断じた狐のような思考回路だ。しかし、それで満足してしまう人間がいることも事実だった。
共有キーを創造する試み。
もしくはマスターキーを流通させるたくらみ。
そうして作り上げられたのが……
ドクター、ジニアの日誌より
指の間でくるくると回るシャープペンシル。
眠気を紛らわせるために始めたはずだった。しかし、円弧を描くペン先からは睡魔が忍び寄ってくる。
数学教師のテノールボイスはクーヤを夢の世界の入り口へと案内する。
視界が白濁してきた。いよいよダメだな、とクーヤは思う。指の隙間からシャープペンシルが脱出して、机の上を走り回っている。かろうじて転落は免れたようだ。
「クーヤさん。この問題に答えてください」
「ほぇ?」
夢の世界から強制的に引き戻される。
数学教師が怖い顔をして黒板の問題を指し示していた。
「は、ハイ!」
声が微妙に裏返っていて恥ずかしい。
元気良く返事をして立ち上がったものの、黒板には問題文が四つ書かれてあって、どれに答えたら良いのかわからない。
おそらく正解は一つだ。
数学教師はクーヤが授業中に居眠りしていることに気がついて、この難題をしかけてきたに違いなかった。立たされているのはクーヤ一人だけだ。それがいかにも怪しい。左端の問題に答えればいいのだろうか。しかし、ダミーの可能性もある。
「早く答えなさい。わからないのですか?」
数学教師は定規で測ったような絶妙な角度で黒板を指して問題を特定させない。
クーヤは助けを求めるように周囲に視線を走らせた。誰も目を合わせようとしない。みながうつむいている。
しかし窮地に立たされた空也の視線を真っ直ぐに受け止めてくれる人間がただ一人。
唯だ。
ただし、それはクーヤを助けるためではなかった。彼女は爆睡中だった。肘をついて細い両腕で頭を支えているが、両目は完全に塞がれていた。全く頼りにならない幼なじみだった。
「あのー、えー」
曖昧に言葉を濁しながら言い訳を考えるが、教師の眼光はいよいよ鋭くなってきた。とても目を合わせられない。クーヤは下を向いた。
ノートは白い。答えはおろか問題文すら書き写されていない。当然だ。クーヤは今の今まで授業を聞いていなかった。ところが、右下でアンサー&ダウンロードの文字が点滅している。
差出人はアリサ。
知らない名前だが……クーヤは藁をもつかむ気持ちで指を当てた。
一瞬でノートに数式がずらりと並ぶ。
どうやら答えで間違いなさそうだった。それも全問の解答。クーヤは急いでコピーして送信。ノート上で起こったことがそのまま黒板上で再現された。
教師は黒板に現れた答えをしばらく吟味していたが、やがて「正解です。座ってよろしい」と言った。
席についたクーヤはほっと胸を撫で下ろした。冷や汗をかかされたが、あまり注目を集めずにすんだ。目立つようなことはできるだけ避けたい。
落ち着いてくると、送信元が気になり始めた。クラスの中でクーヤのアドレスを知っているのは唯だけのはずだ。そう考えれば、目を合わせようとしなかったクラスメートたちのことを一方的には責められない。スノッブとナズナには教えてあるが、当然ながらここにはいない。
授業を聞き流しながら、クーヤは机の下でこっそりクラス名簿を呼び出した。
ユイと自分の名前しか記入されていない。クラスメートを避けるようにして学校生活を送っているクーヤにはいまだ唯以外の友達がいなかった。もし唯がいなかったら、昼休みは花のぼっち飯になっていたかもしれない。美少女が一人で食事している風景は絵にはなったとしても、本人は面白くないだろうとクーヤは思う。
アリサ。
名前からして女子だろうか。しかし、クーヤ自身の例もある。名前が女っぽいからといって、女だとは限らない。
もしかすると唯の友達かもしれない。唯は自分以外のクラスメートともそれなりにつきあいがあるように思える。唯にメールを送信する。返事は来ない。というより、お休みタイムが続行中。気づいてすらもらえない。
お礼くらいはしておこう。
クーヤは「ありがとうございます。おかげで助かりました」と、アリサにメールを送った。
クーヤは唯と二人でお弁当を広げている。
メールは送ったはずだが、唯からもアリサからも返事は無かった。
「アリサって人のこと知ってる?」
「うん。知ってるよ。有名人だもん」
唯は事も無げに言う。知っているならメールを返してくれてもいいじゃないか。クーヤは思った。
「窓際の列の一番前の席に座っている人」
言われて窓際を見ると、男子が一人。自然体に見えるようにさっぱりと切り揃えられた髪。すっと通った鼻筋。涼しげな目をしている。片手で文庫本を開いて読みふけっていた。男のクーヤから見ても文句なしの美少年だった。いかにも優等生っぽい。
「ガン見しない。気づかれるよ。かっこいいから見たいのはわかる」
クーヤの顔を唯の手が押し戻した。
「クーヤは知らないだろうけど、女子の間では相互不可侵条約が結ばれてるの。自分から半径一メートル以内に入ったら、蜂の巣にされるよ。あんまり見てると色目使ったとか、なんとか言われるから」
「もしかして、文武両道だったりして」
「よくわかったね。そうなの。だから凄い人気。でも、そうか。クーヤも女の子だったんだ。全然男の子の話しないから興味ないのかと思った」
唯は全然見当違いのことを言っているが、あえてクーヤは乗ってみることにした。
「そ、そんなんじゃないって。もう、やだなぁ。たださっきの時間助けてもらったから。それだけ」
「さっきの時間? 何かあった?」
がっぷり食いついてきた唯にクーヤは軽く説明した。
「へー。そんなことが。いいなぁ」
「何が良かったの?」
夢見るように呟いた唯の声に答えたのはクーヤではない。声はクーヤの後ろからした。
振り向くと、アリサその人が立っていた。
「お昼一緒にしても?」
二人が答える前にアリサは近くの席の女子に頼んで、席を貸してもらっていた。断られるとは露ほども思っていないらしい。自然過ぎて少し嫌味だ。
「ええ。どうぞ。ちょうど話をしていたんですよ。先ほどはありがとうございました」
爽やか過ぎるアリサに負けないくらい魅力的な笑顔でクーヤは彼を迎え撃つことにした。同性だからわかる。こいつは男の敵で、引いては女の敵だ。
「なんか困ってるみたいだったから。余計なことかもしれないって思ったけど、放っておけなくて」
「寝てるやつが悪いんで」
自分のことは棚に上げて、唯が横から茶々を入れる。
「自分だって寝てたくせに。どの口が言うか」
「わざわざ寝てる人を当てなくてもいいのにね。気がついて良かったよ」
爽やかな笑顔を崩さないアリサを見ていると、クーヤは鳥肌が立ちそうになってきた。笑顔が引きつりそうになる。何が悲しくて男相手に愛嬌を振りまかなければならないのか。美少女の道はかくも厳しいものなのか。
「どうしたの? 黙り込んじゃって。いつもはもっとしゃべるのに」
唯は唯でキラーパスをガンガン蹴り込んでくる。シュートして見事ゴールを決めて見せろということなのだろうか。それはつまり、アリサを篭絡する。考えただけで気持ち悪くなってきた。
「ところで、アリサって女の子みたいな名前ですよね。由来とかあったりするんですか?」
内心はどうあれ、あくまで笑顔を保ったままでクーヤは質問を投げかけた。
「ああ、うん。好きな花の名前から取ったんだ。花言葉は……あーごめん。興味ないよね」
「そんなことないです」
クーヤは感心していた。実際クーヤは全く話題に興味が持てなかったからだ。だが、目の前の女の本性まではさすがのアリサでも抜けないらしい。クーヤが微笑みかけると照れていた。
「私も好きですよ。プレゼントに花束って定番ですけど、もらえたら嬉しいだろうなって」
「あー。わかる、わかる」
「そうかな」
女子二人から同意を得られたアリサは嬉しそうだ。
「そうだ。花束をプレゼントするのは無理だけど、変わりにこれなんてどうかな?」
アリサは中空から何かを取り出して、机の上に置いた。
クーヤは心臓が口から飛び出しそうだった。
それはクーヤの睡眠不足の原因で、スノッブから押し付けられた屈辱で、ナズナを怒らせるきっかけにもなったあのゲームロムだったからだ。
「何だろ。何だかいわくつきの品みたい。古そうだけど……」
何も知るはずのない唯が手にとってしげしげと眺めている。
「いわくなんてあるはずないよ。おかしなこと言わないで。ただのゲームロムだって」
「そうそう。それにしても良くわかったね。何十年も前の骨董品だよ、それ」
アリサの感心した口ぶりにクーヤは目が泳ぎそうになった。対照的に唯の瞳には疑念の炎がいまにも灯りそうだ。
「実は持ってたりして。すごい偶然ですね」
下手に隠していると、余計泥沼にはまりそうだ。クーヤは観念してゲームロムを取り出した。
「え!? どうして!?」
アリサが声を上げた。あまりにも大きな声だったので、一瞬クラス中の視線が集まった。唯も目を丸くしている。
「ごめんごめん。なんでもないから」
アリサは照れ笑いを浮かべながら、誰とはなしに弁解した。それで、あからさまな視線は散った。しかし、いったん集めてしまった興味までは逸らせなかったらしい。真綿に包まれているような居心地の悪さが残った。
「あやしいんだ。まぁ良いけど。いらないことに巻き込まれたくないし」
唯は手の中で弄んでいたゲームロムをアリサに返した。
「なんかごめんね。嬉しくてつい。また一緒にお昼してもいいかな?」
「ええ。喜んで」
逃げるようにしてアリサは席を離れた。
笑顔で見送りながらクーヤは内心ほっとしていた。糸がほつれるようにぼろが出てもおかしくはなかった。逃げ出したいのはクーヤも同じだった。
そして、クーヤは心の中でアリサを第一級危険人物に指定した。