90s nostalgia Ⅲ
世界は断片化してしまった。
それは二十一世紀に発生した。
それはカップラーメンがお湯を注いで三分で出来上がるくらいには確からしい歴史上の事実で、五分で出来上がったとしても、伸びきってしまったとしても、個人の主観的にはそれほど大した問題ではなかった。
だから、正確には二十一世紀ではなかったのかもしれない。
だが、何はともあれ世界は断片化してしまった。それだけは確かだ。
原因は世界に情報が氾濫し、その処理限界を超えてしまったことにある、らしい。
高次元宇宙からの侵略だという説もある。
四次元、五次元、六次元……もしくはさらに高次元の世界が相手だったのかもしれない。
この説はある程度の支持を得ている。
というよりは、三次元から他次元への移動が個人の裁量で行われているから、経験則として受け入れられている。
これが本当のソーシャルダンピング、などという馬鹿げたジョークが一時期流行ったそうだ。
世界は錯綜している。
世界は並行的で、どこへ行くのも個人の自由だ。
そして僕らは生活の基盤を失い……
地に足がつかないまま、日々を過ごしている。
ドクター、ジニアの日誌より
入学式が終わり、クラスでの自己紹介もつつがなく終えて休み時間。クーヤはひとまず安堵していた。
男の体から女の体へ乗り換えるのは、意識の持ち方を変更するだけで誰にでも可能だ。断片化以降可能になった。
しかし、空也の無意識は自分を男だと認識しているので、クーヤの体を絶えず男の体に戻そうとする。つまり意識していなければ、自然と男の体に戻ってしまうということだ。
わざわざ精神に緊張を強いてまで、自分の本来の性別と異なった肉体を纏おうとする人間は稀だ。
異性の肉体への興味?
無意識の強烈な揺り戻しによって、体は本来の性別に戻ってしまう。
つまりエロいことはできない。
何人もの先人が挑戦しては挫折を味わった。現在も挑戦するものはあとを絶たない。
空也も例に漏れず、男子高校生の思春期真っ盛り。何度挑戦しても、煩悩に負けて上手く変身できなかった。あまりの酷さに見かねたスノッブから錠剤がいっぱいに詰まった小瓶を渡された。
赤と青のコントラスト。
赤色の中に青色が混じっている。
赤い薬を飲めば女になって、反対に青い薬を飲めば男に戻れる。
薬の効き目は約六時間。個人差がある。
スノッブが出し渋ったのは、薬を乱用するといざという時に戻れなくなるから、ということらしい。
クーヤは自分の胸元を見下ろした。
丸く膨らんだ双丘がブラウスを押し上げている。
股間に男性のシンボルは無い。
そのことを意識すると顔が火照ってくるが、同時に体は男性に戻ろうとし始める。薬はあくまで補助剤。結局は意思の問題だ。
クーヤはぶんぶんと頭を振って邪な雑念を追い払った。
「クーヤさん。どこか具合でも悪い? 気分でも優れない?」
「大丈夫です。心配してくれてありがとう」
話しかけてきた女子に笑顔を向ける。
実は良く見知った顔で、目下のところ一番の懸念材料だったりする。
「クーヤさんって、私の知り合いと同じ名前なんだ」
「そうですか。珍しいこともあるものですね」
まさか同じクラスに彼女がいるとは夢にも思わなかった。それに緊張していて周りが全く見えていなかった。自己紹介の前にもっと凝った名前を考えておくべきだった。クーヤは後悔しきりだった。
「女の子でクーヤって珍しい名前だよね」
クーヤの思惑とは反対にむしろ積極的と言ってかまわないほど話しかけてくる。
彼女にその気が無いのはわかっているが、まるで尋問されているような気分だ。許されるなら今すぐにでも話を切り上げたい。しかしそれはいくらなんでも怪しすぎる。自分から不審者です、と名乗りを上げるようなものだ。当たり障りの無い会話を続ける以外の選択肢が取れない。
「本名は女の子らしい名前なんです。だからSNは男っぽい名前にしようと思って」
ちなみに個人情報保護の観点から学校では匿名を使うことが推奨されている。
それがスクールネームだ。
「へー。私のSNは本名まんまなんだよ。もっと色々考えたら良かった」
「そうなんですか? 唯さんって素敵な名前だと思いますよ」
「あれ? 私の名前言ったかな?」
唯が怪訝そうな顔をする。
クーヤは顔に出さないように努めているが内心はひやひやものだ。唯は昔から妙に勘が鋭いところがあった。
昔、まだ二人が小さかったころのお話。
空也は誕生日のプレゼントとして唯におもちゃの指輪を贈ったことがあった。ところがどこで嗅ぎつけたのか。空也よりも唯のほうがそわそわしていて非常に渡しづらかった。
そのくせ自分は誕生日にプレゼントを用意していることなどおくびにも出さない。そのうえ渡されるものは欲しいものだったりするから余計に驚かされる。毎年のように繰り返されるのでさすがにここ数年は慣れた空也だったが、子供のころは不思議で仕方なかった。
「あはは。クラス全員自己紹介したじゃないですか。やだなぁ、もう」
「あー。うん。そうだった。そうだった」
唯は納得していない。顔は笑っているが、心から笑っているかどうかくらい長年の付き合いから推し量れる。笑って誤魔化せられる相手なら苦労はしない。
空也と唯は三歳の時からのお付き合い。
クーヤとユイは三分前からのお付き合い。
男と女。女と女。
「唯一の唯なんて、ホントに素敵」
自己紹介なんてろくに聞いていなかったが、唯とならなんとか話を合わせられる。それを考えれば、むしろ話しかけてきたのが幼なじみで良かったのかもしれない。
「うーん」
唯は首を捻っていたかと思うと、
「私はカタカナでユイって自己紹介したと思うんだけど」
しれっと爆弾発言をかましてくれた。
クーヤの背中を冷や汗が駆け下りていった。
「あ、あれ。そうだったかしら。勘違いしてたかも」
慌てて取り繕うが、唯の疑念はかえって強まってしまったらしく、じーっと半眼で見つめてくる。
「ユイと聞いてぱっと出てくるのが唯一の唯だったからかも」
顔色をうかがいながら苦しい言い訳。
「そうなのかなぁ。何か隠そうとしてない?」
「してない。してないって。隠すも何も、私はユイさんと初対面だし、隠すことなんて全然ありませんよ」
「そうなんだけど……なんか引っかかるんだよねぇ。知り合いが私に隠し事してる時の雰囲気とそっくりなの。それだけじゃないよ。なんとなくなんだけど、纏っている空気? 似てる気がする」
似ているも何もあなたが頭に思い浮かべている人物と目の前にいる女の子は同一人物です。とクーヤは心の中で独白した。
唯のつま先はグレーゾーンを越えそうになっている。ブラックゾーンに踏み込まれる前になんとかして方向転換させなければ。それができなければ、スノッブとの賭けは空也の惨敗だ。一日すらもたずに看破されたとあっては末代までの恥。
クーヤはがしっと唯の手を取った。
「え? え、なに?」
「実は隠し事してるんです。クラスに知ってる人、一人もいなくて。それで緊張しすぎて具合悪くなってたの。だからユイさんが話しかけてくれて嬉しかったんです」
さも重大な秘密を打ち明けるように、唯だけに聞こえるように囁いた。
内心の動揺も手の震えとなって伝わっているはずだ。動揺している理由は唯本人のせいだが、この際それはどうでも良い。
「そんな大げさだよ」
幼なじみの性格の良さを利用するようで後ろめたくもないが、そんなことは言っていられない。とどめの一押しをする。
「ユイって呼んでもいい? 私のことはクーヤって呼んで」
捨てられた子犬のような目をして唯を見つめる。
「……クーヤ」
唯はクーヤの手を優しく握り返した。
「うん。クーヤ。最初に友達になれたのがユイで良かった」
「ともだち」
クーヤが微笑みかけると、唯はぽーっと熱に浮かされたような顔をした。
予鈴が鳴る。
「私、席に戻るね」
唯は名残惜しそうにしながら、自分の席に戻っていった。
美少女クーヤの魅力の虜になったのは誰の目にも明らかだった。
チョロいぜ!
と思ったクーヤだった。