90s nostalgia ⅩⅩⅠ
ユグドラシルは脈動する。
心音がシンクロして生命の息吹を、産声を上げさせる。
鼓動がひとつ波打つたびに、新たな力が体の内側からあふれ出して、世界の色彩を変えていく。
ユグドラシルは再生する。
長い冬の時代を終えて、古い衣を脱ぎ捨てるように外郭を換装していく。
ユグドラシルは回らない。
大地にしっかりと根を伸ばし、太い幹を支えている。
それを遠くから眺めながら、スノッブはひとり祝杯を上げた。
ささやかな前祝いだ。
グラスのシャンパンがしゅわしゅわと気持ちの良い音を弾けさせる。
「どうやら賭けには勝てそうだな」
スノッブは白衣とスーツを脱ぎ捨てた。
ユグドラシルの行く末はクーヤたちに任せた。見届ける必要は無い。彼らは帰ってくるだろう。大切な彼女を引き連れて。
「高校生は食うからな。久々に腕を揮いますか」
スノッブはひとりごちると、ユグドラシルに背を向けた。
祭壇の周りをあらゆる種類の文字が入り乱れ、二重螺旋を描きながら下から上へと流れていく。無秩序に並ぶように見える文字の奔流。その中にときおり意味を持つ単語が見え隠れするように感じるのは、クーヤの意識が恣意的に並べ直した幻だろうか。
クーヤたちは紅い光に包まれた。血水晶が発する閃光。目も眩むほどの鮮やかさは小さな太陽を思わせる。それが徐々に落ち着いた色調に変化していくと、血水晶から幾筋もの光の道が伸び始めた。それらは毛細血管のように広がりながら、ユグドラシルの表面を覆いつくしていく。
ドクドクと脈打つ血水晶は文字通り、ユグドラシルの心臓部だ。
クーヤの心臓も呼応するように脈打っている。
「不思議なところですね」
ミズハナが誰とはなしに呟くと
「ええ。本当に。ここはいったい何なんですか? 実は詳しいことは知らずに来たのです」
ダメイドは小さく笑い声を漏らした。
「クーヤ、説明してあげて」
「説明って言われても……」
唯ならクーヤ以上に上手くぼかして説明できるだろうに、わざわざお鉢を回してきたのは、クーヤの反応を見て楽しむためだ。絶対そうに決まっている。クーヤがにらむと、目を合わせようとしない。クーヤは仕方なく説明役を引き受けることにした。
「それならミズハナさんは何しにきたんですか?」
「『美少女急募! 世界を救うのは君だ!』 これを見て私以上の適任者がいるとは思えませんでしたわ。それなのに、映されていたのは苦戦しているあなたたちの姿。見捨てておけますか。私にはできません」
ミズハナはアホだとクーヤは思った。
しかし、そんな彼女のおかげでユグドラシルは息を吹き返したのだ。感謝こそすれ笑う気にはなれなかった。
美少女力三千オーバーの天然美少女は、成り行きと片手間で世界を救う。
やはりミズハナは格が違った。
「外はいったいどうなっているのでしょうか」
ダメイドが言うと、それに応えるようにユグドラシルの壁面が外の様子を映し出した。
三百六十度の大パノラマ。
地上には見渡す限りの人の群れ。
「こういう時にはあの台詞を言うのが礼儀なのかな」
唯がとぼけたことを言っているが、ミズハナたちには全く意味が通じていないようだ。言いたいことはわかるが、クーヤはあえて無視することにした。
ユグドラシルの外観はいまや悠久の時を過ごした大樹のように変化していた。
瑞々しく生い茂る枝の先には、色とりどりの果実がぶら下がり、収穫の時を待ちわびていた。
突然クーヤの目の前に十一桁の数字が浮かび上がった。忘れたくても忘れられない数字だ。続けてあるポイントが指し示された。覚えのある場所だった。
ユグドラシルに笑われているような気がしてくる。みんなの手前、自分だけ抜け出すのは気が引けるクーヤだった。けれども、そんなクーヤの気持ちを見透かすように、ユグドラシルはカウントダウンまで示し始めた。
「クーヤ、行ってくれば? 全部そのためだったんでしょ」
「それは……」
「なんだかよくわかりませんが、行ってくるといいですわ。あなたがいなくても、私がいれば全然問題なくてよ」
「実際、お嬢さまのおっしゃるとおりなので、私としても反論できません」
それぞれに向かって言いたいことはあったが、それはぐっと飲み込んで、クーヤは大人しく甘えることにした。
「じゃあ任せた」
返事は待たずにクーヤは祭壇をあとにした。
ユグドラシルから抜け出したクーヤを人々の歓声と野次が出迎えた。
空に浮かんだ特大スクリーンにはクーヤの姿が大写しになっている。
ご丁寧にこれまでの経緯をダイジェストで参照できるようにリンクまで張られていた。
自分の一挙手一投足が注目を集めている。そんな中で彼女を迎えにいかなければならないとは酷い羞恥プレイだ。
けれども、心強い仲間たちが送り出してくれたのだ。止まるわけにはいかなかった。
出口からは進路を示すように紅い絨毯が敷かれていた。
ひたすら恥ずかしい。
ショートカットして一気に目的地に到着することもできたが、実質そんな手段を選ぶことはできなかった。集まってくれた人たちの期待を裏切ることになる。誰一人欠けてもこの結末には至らなかった。 クーヤはひたすら感謝の気持ちでいっぱいだった。
クーヤは駆け出した。
声援が飛んでくる。野次が飛んでくる。お祝いのメッセージが次から次へと送られてくる。最初は律儀に答えていたクーヤだったが、とても返事が追いつかない。
「ごめん! みんなありがとう!」
立ち止まり空に向かって叫ぶと、ひと際大きく歓声が上がった。
そして再び走り出す。
進路上に立ち塞がる障害は何も無い。
こんな時に妨害するのは余程の身の程知らずかバカだけだ。
そして、身の程知らずが絨毯の先で待ち構えていた。
モブオだった。
「クーヤさん、好きだーーーーーっ!」
「お前、そんなキャラじゃないだろ!」
抱擁しようと両腕を広げて待っていたモブオを慣性に任せたラリアットでどつき倒した。仰向けに倒されながら、モブオは親指を立てて嬉しそうに笑っていた。
どっとわく観衆を置き去りにしてクーヤは走る。
しかし、いくらも行かないうちに再び障害が立ちふさがった。
特大級のバカのお出ましだ。
純白のタキシードで身を固めた男が両手の指に挟んだカードを投げ飛ばしてきた。
回転しながら飛来するそれをクーヤは指の先で受け止めた。
ジョーカーとハートのクイーンの二枚だった。
クーヤの服装が見る間に変化していく。
フリルとレースで飾り立てられた純白のドレスだった。しかも白いベールのおまけつき。
スノッブにエスコートされるなんてまっぴらごめんだ!
「ここを通りたければ俺を倒してからにすることだな。しかし、俺もかつては……って聞けよ! ラスボスの横を素通りするやつがあるか!」
「お前はどちらかというと三下だろ。あとでまた遊んでやるからそれまで我慢しろよ。そのときはナズナも一緒だ」
クーヤが振り向きながら声をかけると、スノッブはやれやれと肩をすくめて見せた。
これでもう本当に進路上には誰もいなくなった。
永遠に続くかと思われた絨毯も終わりが見えてきた。
ここが終着点。そして始まりの場所だ。
クーヤは立ち止まるとユグドラシルを振り返った。
ここで全てが始まりを告げた。
もしも運命の出会いがあるというなら、あれがそうだったのだろう。
コスプレ好きの変な女とマッドサイエンティストを気取ったダメなおっさんが、たった二人で守り続けてきた大切な場所に自分は立っている。いや、立たせてもらっている。
けれども、彼女だけがここにはいない。
彼女が夢見た未来にクーヤは立っている。
たとえ彼女が現の幻だったとしても、クーヤの気持ちまでもが幻だったわけではない。そしてそれは彼女も同じはずだ。そう信じている。
夜の帳が下りるように、周囲の明かりが落ちていく。
ユグドラシルが淡い光を放ち始めた。
それは雪の結晶のように舞い遊びながら、辺りにゆらゆらと降り注ぐ。
一瞬の静寂。
誰もが固唾を呑んで見守る中を、その静けさを引き裂くように轟音が鳴り響き、光が世界を満たした。
それは祝砲だった。
魂の奥深くを震撼させ、畏敬の念さえ抱かせる産声だ。
外縁に向かって、何度も何度も途切れることなく打ち上げられるその一つ一つが、宝石のように煌めいていた。
そしてひと際大きな祝砲が打ち鳴らされた。
眩いばかりに光り輝く球体がユグドラシルから飛び出した。
それは放物線を描きながら、寸分のずれもなくクーヤの元へ向かってくる。光は徐々に薄れ、実体が明らかになってきた。
懐かしい姿勢で飛んでくる。あの時と全く同じだ。このままクーヤが何もしなければ脳天に直撃コースだ。何故かクーヤと同じく純白のドレスに身を包んでいるが、空気抵抗を受けて花のように広がったスカートのせいで、クーヤの位置からは大事なところが丸見えだった。そんなところまで忠実に再現してくれなくてもいいのに、とクーヤは笑ってしまう。
少しだけ身を引いて彼女の到着に備えた。
クーヤの頭より少し高い場所で彼女は減速して、ゆっくりと天使のように舞い降りてきた。
クーヤは抱きかかえるようにしながら彼女を地面に降ろした。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「パンツ見た?」
「勝負下着だったね」
「一世一代の大勝負だった。そのつもりだったのに……こんなに簡単に帰ってきちゃうなんて恥ずかしい」
「手紙読んだよ」
「あーあーあー。やめて。黒歴史だから。なんであんなこと書いちゃったんだろ。忘れて。全部忘れて一からやり直しましょう」
「それは……無理かな。女の子になっちゃったし」
「ウェディングドレス似合ってるね」
「スノッブの趣味だよ、これ」
「……最悪」
顔を見合わせて笑いあう。
そうしてひとしきり笑い終えると、腰を引き寄せられて抱きつかれた。背の高さはほとんど同じ。だから彼女の顔が目の前にあって、二人は微笑みながら見つめあう。けれどもクーヤはあまり緊張していなかった。
「ねぇ、名前呼んでくれる?」
「ナズナ、それともアリサ?」
「もう! ナズナに決まってるでしょ」
「ナズナ、おかえり。ほんとに良かった」
「良かったのかなぁ」
「良かったんだから離れろっ!」
ナズナとの間に小柄な少女が割り込んできた。クーヤをナズナから引き剥がすと、守るようにナズナの前に立ち塞がった。
「仕方ないから協力してやったけどクーヤは私のだから! それは変わらないから」
威嚇するように敵意丸出しの視線を送っている。
「結局、私たちは何のために呼ばれたのでしょうか? 説明していただいてもいいと思うのですけど」
「下々の者の考えることはわかりかねます」
いつの間にかミズハナとダメイドの二人もそばに来ていた。
「それは俺の口から説明しよう! 食事の準備はできている! みんな来てくれるよな!」
振られたはずの新郎が仕切りなおそうとしゃしゃり出てきた。
「俺も行っていいですか?」
「男は帰れ、と言いたいところだが、今日は無礼講だ。特別に許可しよう」
スノッブは一呼吸置くと、声高らかに宣言した。
「さぁ、パーティーの始まりだ!」