90s nostalgia Ⅱ
「ふむふむ。なるほどねー。私の知らないところでそんなことを」
白い瀟洒なテーブルには純白のレース。
二つのグラスにはコバルトブルーとエメラルドグリーンの液体。
細い指が海色のグラスに添えられ、白桃のような唇がストローに触れる。
「そうなんだよ」
空也もグラスを手にとって、少しだけ喉を潤した。
少女は物憂げに目を伏せて頬杖をついた。グラスの中身をストローでひと回しすると、重なり合った大粒の氷がぶつかり合ってカランと音を立てた。
「そっかー。そうかー。なるほどねー」
限界まで溶け込んだ炭酸が気泡となって大気中に逃げ出していくのにも構わず、少女はグラスの中身を攪拌し続けている。
「あの……ナズナ、さん? もしかして怒ってらっしゃる?」
「べっつにー」
そうは言うものの、ナズナは視線をグラスに落としたまま、焦点の定まらない目をして氷を溶かす作業をやめるつもりはないようだ。薄い笑みを浮かべているのが、空也にはたまらなく恐ろしい。
「ソーダ。炭酸抜けると、おいしくないと思うよ」
おそるおそる、あくまで逆鱗に触れないように当たり障りのないことを言うと、ナズナは満面の笑顔。空也もつられて笑いそうになる。しかし、ナズナは何を思ったのかグラスを両手で抱え上げると、そのままぐいっと一気飲み。ドンっとテーブルにグラスを置く。
「おいしいよ?」
ナズナの完璧に整った笑顔を前にして悲鳴を漏らさなかった自分を誉めてあげたいと空也は思った。
「ソウデスカ」
彫像のように固まりはしたが、人間に理解可能な発声を成し遂げたのもまた偉業と言えるかもしれない。
「一言くらい相談してくれてもいいんじゃないかなって思うの。男の約束だか何だか知らないけど」
ちなみに空也がナズナに説明したのは表向きの理由だけだ。
90s nostalgiaの領土権を賭けてスノッブと勝負する。
高校生活を通して美少女を演じ続けられれば勝ち。誰かに見破られれば負け。
それだけを伝えたのだが、そのことがナズナには不満に感じられて仕方がないようだ。
どこかに不自然さがあったのかもしれない。隠し事をしている後ろめたさをなんとなく嗅ぎ取られてしまったのかもしれないが、だからと言ってナズナにありのままを伝える勇気を空也は持ち合わせていなかった。
「仲間ハズレにされて悲しい。この悲しみはちょっとやそっとじゃ癒せないわ。ああ、心が痛い。張り裂けそう。死ぬー」
大げさに片手を胸に当てて、空いた手を宙に飛ばしてナズナがうめいた。
それで空也は安心した。ナズナは怒っていない。
「私のお茶会がー。徹夜で衣装作ってきたのにー」
「そうなの? この衣装」
ナズナは白い丸襟ブラウスに黒いジャンパースカート。頭にはヘッドドレスを装備してゴスロリ風の姿を装っている。
空也はナズナに言われるままに黒い燕尾服を着てシルクハットを被っていた。
不思議の国のナズナとイカレ帽子屋というシチュエーションを再現しているらしい。
「そんなわけないじゃない。こんなの作れないって」
ナズナはペロっと舌を出した。
「でも、楽しみにはしてたの。スノッブとの賭けなんてどうでも良いから、まずは感想を聞きたかったかな」
ナズナは立ち上がってスカートの裾をつかんで見せた。
「どうかな?」
恥ずかしそうに肩を寄せる。
女の子は……ナズナはずるいと空也は思う。
空也は何度かナズナのコスプレパーティーに付き合っているが、一度だってナズナの顔をまともに見られた試しはなかった。
普段はそうでもないが、意識させられると恥ずかしくなってしまうのだった。
「いいと思う」
だから、いつもお決まりの台詞を言うしかない。
「ホント? 本気で言ってる?」
息がかかるほど近くからナズナの声がする。空也の目の前にナズナがいる。
肌理の細やかな白い肌や、ほんのりと色づいた柔らかそうな頬に目を奪われる。睫毛は驚くほど長く、目が合いそうになって空也はうつむくしかないというのに、ナズナは全然気にした様子が無い。
それは、ナズナが空也のことを特別に思ってはくれていないということ。
だから、空也も何でもないという風に装わなくてはならない。
「顔、近いって」
無理だ。心臓がバクバクする。
「近くで見ないとわからなくない?」
「そんなことないから」
無自覚拷問人の称号をナズナに授けよう。と、馬鹿なことを考えて気を紛らわせるくらいしか、空也には取れる術が無い。
「そんなもんか」
ナズナは満足したのか、席に戻っていった。
「しかし女装とは、また……」
ナズナはしめつめらしい顔をして、空也の全身を上から下までなめ回すように見ている。
「女装するつもりはないよ。そんなことする必要ないだろ。そこまで無謀じゃない。ちゃんと女の子になっていくつもりさ。あ、女の子じゃないや。美少女だった」
「簡単そうに言ってくれるじゃない。美少女のプライドが傷つくわ」
ナズナはおどけたように言って首を振る。
「自分で言うかー」
「自分だから言うの。人から言われたら、バカにされてるっぽい」
そうなのだろうか。空也は試してみることにした。
「ナズナは美少女だよね」
「……なんだか変でしょ、それ」
ナズナは肩をすくめた。
遡ることおよそ一ヶ月前。
高校受験を終えた空也は、合格発表を待つだけになって、特にやるべきこともなくて、中学生と高校生の間で宙に浮いてしまった身を持て余して、世界を漂泊していた。
誰も訪れたことの無い秘境を探して、自分だけのパーソナルスペースが欲しくて、人がいない方へ。ひたすらいない方へ。
そうやってたどり着いた先は廃墟だった。
小さな遊園地ほどもある広大な敷地の中心で明らかに管理されていない巨大な塔が不安定に不規則に鳴動していた。
明らかにリソースの無駄使いだった。
世界に存在するのは無骨な巨塔と自分だけだ。
空也はひと目で魅了された。
理由なんて存在しない。考えられない。完全なひと目惚れだった。
ずっと見ていたいと思った。
巨塔が震えた。
光球がいくつもいくつも射出された。
巣立つ雛鳥のようだ。
放物線を描いて、白い筋を残して飛んでいく。
そして空也は激突した。
光球だと思ったものは体を丸めた人間で、それが高速回転しながら自分に接近していると気づいたときには、既に何もかもが手遅れだった。
少女は両手を翼のように広げ、両足をピンと伸ばし、空也の脳天にドロップキックをかまして
「いったーい」
と、叫び声を上げた。
スカートの奥の逆三角形は空色縞々ストライプ。
「なんで着地地点に人間がいるのよ。おかしいじゃない」
土煙を上げて地べたを転がり、仰向けに倒れた空也に向かって毒づいた。
少女自身は空也の頭を踏み台にして、空中で姿勢を制御。華麗な着地を遂げていた。
「あのー。生きてますかー」
物理的に死ぬことのない世界だということは空也もわかっている。だが、あんまりと言えばあんまりな物言いに空也は死んだふりをすることにした。
「パンツ見てたの知ってますよー。女の子のパンツは命よりも重いんですよー」
頭のおかしな女とは関わり合いになるな。
空也の理性が冷静に告げていた。
死んだふりを続けるのが得策だと思った。
「運命的な出会いのあとは……え、マジで? ありえなくない?」
しかし、ぶつぶつと呟く独り言の内容が気になって空也は薄目を開けた。開けてしまった。
心臓が止まるかと思った。
空也の目と鼻の先に女の子の顔があった。それもとびっきりの美少女だった。
「はわっ」
鼻腔から変な息が漏れた。
「あ。やっぱり死んでなかった。あー、良かった。ファーストキスの責任なんて重過ぎ」
少女は起き上がり、片手に持った本をぱたりと閉じて放り投げた。本は地面に落ちる前に空間に吸い込まれて消えた。
「ようこそ。90s nostalgiaへ!」
少女が差し出した右手を空也は取ろうとしたが、その手は宙を切った。
「なんてね。そんなキャラでもないのよね」
「お前……友達いないだろ」
空也は立ち上がって、体についた埃を払った。
「初対面の人に向かって放つ第一声がそれ?」
「初対面の人に向かって、ドロップキックはどーなんだよ」
「パンツとドロップキックで相殺でしょ」
「色気の無い縞パンなんかに興味ねーです」
空也が何気なく言うと、少女はばっとスカートを抑えて数歩あとずさった。心なしか顔が赤くなっている。
「な、なんで知ってるのよ」
「なんでって……パンツとドロップキックで、水色ストライプで……」
「思い出さなくていーから」
少女は顔を両手で隠して耳まで赤くなっている。
可愛い女の子だった。しかし、着ている服が独特だった。デザインは一見普通の学生服のように見えるが、色がおかしい。上は薄いピンク色でスカートは紅色をしている。校則の緩い私立学校の生徒なのだろうか。
「お取り込み中のところスミマセンが、自己紹介しませんか?」
空也が声をかけると、少女はまじまじと凝視してきた。天地神明に誓って後ろ暗いところはないと断言できるが、なんとなく居心地が悪い。
「俺は空也。君は?」
「……ナズナ」
それが二人の出会いだった。
「おーい。何トリップしちゃってんの? 男がニヤニヤ思い出し笑いとか、はっきり言ってきもいよ」
ナズナがジト目で空也をにらんでいた。
空也は誤魔化すようにジュースを口に含んだ。
「どうせパンツのことでも考えてたんでしょ。何なら見せたげよっか?」
食道を下るはずの水流が分岐点で迷走して気管のほうへ向かった。
直訳するとむせた。
「うわっ。ばっちぃ。まさかホントに考えてたの?」
ナズナは若干引いているが、ハンカチを差し出してくれた。空也は受けとって口元を拭う。
「使用済みだから、それ。未使用より価値があるはずだよ」
意味ありげに笑っているナズナを見て、空也は嫌な予感がした。丁寧にたたまれたままのハンカチを広げてみる。見事な逆三角形。純白、シルク、レースつき。
パンツだった。
パシャっとシャッター音がした。
ナズナがカメラを片手に爆笑していた。
「あっはっは! いまの顔サイコーだったよ。空也君は毎回リアクションが良いから、仕込みがいがあるなぁ」
「……そうですか。洗って返すね」
「もー。怒らないでよ。ごめんごめん。未使用の新品。いい匂いするでしょ。香水つけてみたんだ。匂ってみてよ」
「匂ってみてって……」
空也は改めて両手でパンツを広げてみた。
白い。
顔を近づけて鼻をくんくんとさせている自分を想像してみる。
犯罪の匂いがした。
「どこからこういう発想が出てくるの?」
「漫画とかアニメ、かな? あとはラノベとか? 図書館にいくらでも蔵書があるじゃん」
空也はパンツをテーブルの上に置いて、丁寧に四つ折りにした。少し迷ったが、ポケットに突っ込んだ。
「あー、持って帰っちゃうか。そうかー」
「どうしろってんだよ! どうして欲しいの!?」
しみじみと呟いていたナズナの目が丸くなった。
「あ……なんか、ごめん」
「ううん。そんなことないよ。私もちょっと調子に乗りすぎた。ほら、もう少しで学校始まるじゃない?そうしたら会えなくなるのかなって。そう思ったら、なんか記念になるものでもあげたほうがいいのかなって」
「それで……パンツ?」
ナズナと白い布を交互に見て、空也はためらいながら発音した。
「なんだか考えてるうちにわけわかんなくなっちゃって。それ……勝負下着」
ナズナの声は最終的に聞こえないくらいまで小さくなってしまったが、空也の耳はその単語を正確に拾った。
ナズナは横を向いて決まり悪そうにしている。
脳みそが煮沸された。
「しょうぶしたぎ?」
咄嗟に漢字変換できない。
「そうよ。悪い?」
試すようなナズナの視線に、空也は首を振って答えた。
「それは……ごちそうさまです」
「いいえ。おそまつさまでした」
二人でお辞儀しあってしまった。
ナズナは顔の横でぱたぱたと手を振って風を送っている。
「調子狂うなぁ。計画通りにはいかないもんね。体を張ったギャグって難しい」
「ギャクだったの?」
空也は椅子からずり落ちそうになった。
「どっちでもいいじゃない。新生活、応援してる。せいぜい女の子頑張ってね」
ナズナはそう言うと、空間に溶けるようにして姿を消した。
「わっかんねー」
椅子にもたれかかって空を仰ぐ。
「お前はアホか……」
声につられてテーブルに視線を戻すと、ナズナの席にスノッブが座っていた。
「なんだ。いたのか」
「これだから若いやつらはヤだねー。二人の邪魔をしないように、こっそり陰から見守っていたっていうのに。ナズナ、最近冷たいんだよね。どうしたら昔みたいに懐いてくれるのかな。どう思う?」
指で「の」の字を書きながらいじけているスノッブ。ひたすらうざい。
空也は視界からリムーブすることに決めた。スノッブの姿が薄くなっていく。
「あ! てめぇ。何しやがるっ!」
「うっせーよ。消えろ消えろ」
空也はスノッブからの干渉を一切受け付けないようにブロックすることにした。声も聞こえなくなった。
干渉されたくなければ、接触を絶てば良い。
それが可能な時代に空也は生きていた。