90s nostalgia ⅩⅨ
「クーヤ! しっかりして!」
崩れ落ちそうな体を抱きとめられた。
「私には全然何がなんだかわからないけど、アイツがいけ好かないやつってことだけははっきりしたわ。三秒待つから、その間に復活して説明!」
意志のこもった強い瞳をしていた。
混乱という泥沼に浸されかけたクーヤを救い上げる理性の輝きだった。
「三秒って……短すぎないか?」
「クーヤならそれで復活できるでしょ。それ以上は待てない。時間は有限よ。というわけで説明して」
「ナズナのこと嫌いじゃないのか?」
「嫌いよ。だから何? それが何? 重要なことなの?」
矢継ぎ早に質問が飛んでくる。クーヤが答えられないでいると、唯の手がクーヤの胸に添えられた。そしてそのままわしわしと揉み始めた。
「ちょっと、唯! こんな時に何考えてるの? ちょ、やめ」
「説明してくれないんだったらやめない」
「や、やめっ! 説明するから!」
油断も隙もあったものではなかった。
「空也が女の子になってる理由だって私は聞いて無いんだから。賭けとかユグドラシルとかバブルの塔とか」
クーヤは重要と思われることだけを端折って唯に伝えた。
クーヤにも全容は見通せていないことはそれでわかってもらえたが、唯は難しそうな顔をして考え込んでいる。
「アリサってナズナさんだよね」
確認するように呟いた。
「アリサがナズナ? そんな……」
「クーヤにやたら馴れ馴れしかったし、料理の味付けが一緒だったし、数日前から休んでたし、美少女力も高かったし……何か思い当たる節はない? 腹立つけど、二人だけの思い出とか何でもいいから思い出して」
空也とナズナの思い出。
二人だけの。
クーヤはスノッブからもらったゲームを起動した。
彼女との思い出らしい思い出といえば、それしか思い当たらなかった。彼女が覚えていて欲しいと言った記念の数字。
「……9784150115319」
「何それ? ってわかった。クーヤはアレクサンドリア図書館に行って、その番号を打ち込んでみて」
「どういうことだよ」
「行けばわかるから。それにしても腹立つわ。お前ら全員死ねばいいのに」
「唯さん?」
「わかったら早く行って来い。私は私で別の用事を済ましたら、行ってあげるから」
唯は既に走り始めていた。
クーヤもわけがわからないなりに地面を蹴った。止まってしまったらそこで全てが終わってしまうような気がして走り出さずにはいられなかった。
アレクサンドリア図書館に着いた。
唯の指示通りに番号を検索すると、一冊の書籍がヒットした。
ドクター、ジニアの日誌。
地下九十五階に寄贈されていた。貸し出し件数はゼロ。とにかく読んでみないことには何もわからない。
クーヤは一心不乱に地下深くに潜っていく。年齢認証の警告が鳴っているが、どうせ誰も見ていない。そんなものは無視するに限る。
気持ちばかりが急いて考えがまとまらない。
スノッブのふざけた言動の真意が読めない。いつもふざけている印象が強い男だったが、さっきのあれは悪ふざけでは済まされないほど真剣みを帯びていた。
ナズナとスノッブが義兄妹。愛されなかった美少女は人魚姫。現の幻。バブルの塔。
……そして全ては泡になる。
そんなことは信じられないし、認められなかった。
やがてたどり着いた九十五階はガランとしていた。
書架はまばらにしか置かれておらず、それもすかすかに抜けがある状態だった。けれども、そのおかげで探す手間が大幅に省けた。目的の本はすぐに見つかった。
ドクター、ジニアの日誌。
クーヤはぱらぱらと拾い読みしていく。
そこには90s nostalgiaの成り立ちとその目的が詳細に記されていた。
断片化のせいで足場を失った人々のための地盤を改めて作ること。
体験を共有すること。
その橋渡しは美少女が行う。
90s nostalgiaの維持には莫大な美少女力を消費する。
訪れた人間たちが残していく楽しかったという思い出を糧にして美少女力は生成、供給される。
過去の残滓。
馬鹿げた計画だった。見向きもされずに打ち捨てられるはずだ。いかにも馬鹿なアイツが考えそうなことだった。
読み進めていくと、ページの隙間から封筒が抜け落ちた。
薄いピンク色をした、それでいて派手すぎない上品な封筒だった。
開いてみると、丁寧に折りたたまれた便箋が入っていた。桜の花びらが散っていた。
ナズナからだった。
「空也がこの手紙を読んでいるということは、私の言ったことを覚えていてくれたってことだよね。あの時はこの本のことなんか全然知らなかったの。ホントだよ。たぶん神様がこうなることを見越して秘密の数字を教えてくれたんだと思う。スノッブから聞いているかもしれないけど一応言うね。私は人間じゃなかったみたい。自分でも信じられないけど、それが真実だって。嘘みたいでしょ? 笑っちゃうよね。でもどうやら本当みたいなんだ。ユグドラシルが私のお母さんで、自分の体の維持のためには私に余計なエネルギーを渡す余裕が無いみたいなの。スノッブの妹だと思っていたのも設定。空也の気を引こうとしていたのも設定。ユイさんと張り合ってたのも設定。全部、全部、嘘だったの。自分なんかどこにもいなかった。空也は気づいてた? 私も一緒に学校通ってたんだよ。そのうち誰だったかは気づくだろうから今は秘密にしておくね。私、まだ若いのに。ああ、それも設定か。ホントは半年も生きていないのか。でもいいや。若いってことにしておくね。若いのに、遺言書くことになるなんて思わなかったな。何を伝えたかったのかもわからないや。空也のことは……空也のこともみんなのことも好きだと思ったんだけど、それも全部仕組まれたことだったのか。なんか嫌になっちゃう。空也にどんな顔して会えばいいのかわからなくて、それで遺言を書くことにしたはずだったんだけど、愚痴っぽくなっちゃった。こんなことを言いたかったんじゃないはずなのに。なんでだろ。楽しかったのに。ずっと楽しかったのに。こんなはずじゃなかったって言うのは甘えかな。現実が見えていなかったってことなのかな。もっと早く気づいていればなんとかできたのかな。私には何が必要だったんだろ。全然わかんないや。理不尽が突然押し寄せてきたみたいに感じてるのは私だけ? ごめん。もう書けない。書いても書いても書き足りないもの。話したいことはいくらでもあるもの。だから……」
進むにつれて文字は乱れ、最終的には滲んでしまって読めなくなっていた。
クーヤは手紙を丁寧に折りたたむと大切にしまった。
これは遺書なんかじゃない。遺書なんかには絶対にさせない。
クーヤは薬の入った瓶を取り出し、逆さまにして、赤色のカプセルをがむしゃらに握り締めてまとめて飲み込んだ。
「うーっす。邪魔するわよ」
何重にもセキュリティをかけて引きこもっている男の元を訪れるのは、さすがの唯でも骨が折れた。最後の扉を蹴り開けたときには貯金が底をついていた。今年の誕生日プレゼントは貧相になるだろうが、空也なら許してくれるに違いない。
セ キュリティを突破している間に唯の手元には「ドクター、ジニアの日誌」のコピーが送られてきていた。ますます許せなかった。
「てめぇの世界だろ。自分で落とし前つけて、そのあとで勝手に引きこもってろよ」
スノッブは床に座ったまま答えようとしない。
思えば最初から二人のことはなんとなく気に食わなかった。
クーヤにそれとなく注意を促してみたことはあったが、もっとハッキリと言っておくべきだった。
言えなかったのは、たぶん心のどこかでわかっていたからだ。
あの女は自分より格上だ。
だから、唯のそれは半分以上八つ当たりだった。
全部奪って綺麗な思い出の中に逃げ込むなんて許せるわけがなかった。
「私はあんたみたいなのを見てると虫唾が走るの。何でもわかったふりして、諦めた振りして、未練たらたらのくせに……わかるのよ! こんなに綺麗に大切にしてきて、最後の最後で投げ出すの!?」
痛い。
ひたすら痛かった。
臆病な自分をひた隠しにして罵倒する資格なんてあるはずもない。
それがわかっていても唯は言わずにはいられない。
もしも口出ししなければ、もしかするとクーヤが自分のことだけを見てくれるようになる未来が待っているのかもしれない。
傷ついたクーヤの隣に座って、何食わぬ顔で慰めてやればいいのだ。
それがわかるだけに痛すぎた。
虚ろな目をして人形相手に一人でカードを並べていたスノッブがゆっくりと顔を上げた。
「そうは言ってもね。どうしようもないもんはどうしようもないんだよ。それにしても、空也の前とは全然違うね。そっちが本性?」
「それならそれでもいい。私は一言文句を言いに来ただけだから」
嘘だ。
偽善だ。
誰が聞いてもわかるような見え透いた嘘で誰かの心を動かせるはずがない。
だから……だから唯は腹を括った。
「私は……私は諦めないっ! いつか振り向かせて見せる。私のことなんか誰も見ていなくたって構うもんかっ! そうやって何年も隣に立ち続けてきたんだ。空也が誰のことを見ていたって関係ない。お前はそこで永遠に片思いしてろ!」
啖呵を切った。
一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、さすがに自重した。相手はほとんど素性の知れない男だ。情け無い男のように思えるが、もしものときは怖い。
「それと……アレクサンドリア図書館。アレを残してくれていたことだけは感謝してる。エスパーマミー、私も大好き。じゃあね。もう会うこともないでしょうけど」
言いたいことは出し尽くした。
これで動きださないようなら、唯が彼に対してできることは何も無い。
そして唯には唯のやるべきことがいくらでもあるのだ。
負け犬に構っている暇はなかった。
ナズナは絶対に連れ戻す。
そして土下座させてやる。
愛されなかった人魚姫は泡になる?
ふざけるな!
愛されない女には愛されない女なりの矜持があるのだ。