90s nostalgia Ⅰ
統計学的に述べると、美少女が現れるのは四月に多い。
さらに詳しく調べると、第一週目、すなわち学校の新学期が始まる直前の春休み。遭遇するのは高校デビューを控えた男子高校生である事例が最頻である。
美少女はほとんどの場合なんらかの問題を抱えていて、一見平凡な男子高校生には隠された未知の能力が備わっていたりする。
八月の終わりに二番目のピークが現れる。これは夏休みが終了する時期と重なっている。
八月の美少女は四月の美少女に比較して転校生であることが多い。しかし、これはそれほど大きな差異であるとは言えず誤差の範囲だ。
これらの事実は膨大なデータの蓄積から統計学的に導き出された。
膨大なデータについて。
それらはある種の偏りを避けるために多次元平行世界から無作為に抽出された。
多次元平行世界とは……。
ドクター、ジニアの日誌より
くるっと姿見の前で一回転。
空気を吸い込んだプリーツスカートが花びらのようにふわりと舞い上がり、絶対領域最終防衛ラインを賭けて危うい攻防が魅惑の生足戦場で繰り広げられる。
一度目は突破を許し、二度目は防衛網が堅固に過ぎた。
そして三回目。
防衛線は緩やかに後退を続け、危険領域ぎりぎりまで推移。だが、陥落寸前で息を吹き返し連戦連勝。オーバーニッソックスとスカートの間には秩序がもたらされた。
「よし。完璧」
クーヤは満足してひとつ肯いた。
紺色のブレザーと白いブラウスを整えて、姿見の中の自分を見つめる。
大きな黒い目をした抜群の美少女が微笑んでいる。
「うんうん。我ながらなんて可愛いらしいんだろう」
薄い唇から紡ぎだされる言葉は春のそよ風のように心地良い。
自分と他人に聞こえる声の間にはギャップが存在する。録音した自分の声を聞くと、違和感を覚える人が多いという話を聞いたことがないだろうか。これは骨伝導、つまり声の振動が骨を伝わるかどうかに由来している。
しかし、クーヤは全く違和感を覚えていない。何故ならクーヤは自分の声を録音して、何度も聞き直したことがあるからだ。あくまで不自然にならないように、それでいて最高のパフォーマンスをもたらす美声を何日も前から研究してきた。ぬかりはない。
「ふふっ。ふふふ」
思わず邪悪な忍び笑いが口から漏れた。
「はっ。これはイケナイ」
クーヤは瞬時に表情筋を自在に操り、清楚な笑みを顔面に張り付かせた。肩にかかる髪を指ですく。
「あは♪」
邪悪さの欠片も感じられない美少女が鏡に映っていた。
高校デビューを翌日に控え、クーヤは制服を試着して最終チェックを行っていた。
ぱっと着替えて、ぱっと脱いで、素早く就寝。
そう思っていたのに、気がつけば一時間近く鏡の前で自分の姿に見とれていた。
いや、正確には自分の姿ではない。これは偽りの姿だ。
美少女としてあるべき作られた姿。いわゆる擬美少女。それが自分。
だが、凡百のナチュラル美少女が束になってかかってきたところで己の敵ではないという自負がクーヤにはあった。
ダイヤの原石。
それはそれ自体が確かに価値のあるものだが、適切な加工を施さなければ美しく光り輝くことはない。
原石に興味を持つのは専門家、好事家の類で、一般人は光り輝いて見せなければ、その価値に気づくことはない。
だから……大丈夫。きっと大丈夫なはずだ。
クーヤは自分に言い聞かせるように、それが事実であることを確認するかのように、何度も心の中で繰り返す。
所詮はイミテーション。
絶対に美少女にはなれない。
そのことはクーヤ自身が誰よりも熟知している。
しかし、引けない戦いというものがある。引いてはいけない戦いというものがある。
クーヤはある男と賭けをした。
賭けの内容は、高校生活で誰からも「美少女ではない」ということに気づかれないこと。
クラスメート、教師、その他あらゆる人間から正体を隠し続けること。欺き続けること。演じ続けること。
それがクーヤに課せられた使命だ。
「スノッブの野郎。ぜってー、目にモノ見せてやるからな」
鏡の中の少女は瞳に熱い闘志をみなぎらせている。
およそ美少女らしくない。
だが、これが本来のクーヤ。クーヤらしい表情だ。
クーヤは賭けをした。
賭けるものは
世界の全てだ。
偏心分離塔ユグドラシル。
それは世界の中心で長大な体をもてあますように、揺れて、たわんで、震えている。
一般的に塔と言えば、先端に向けて細くなっていくものと考えがちかもしれない。ところが、ユグドラシルは反対に上に向かうほど大きく末広になっていて、素人目にもバランスが悪い。設計者は余程ねじれた性格をしていたに違いない、と空也は思う。
全体としては巨大なコップのように見えなくも無い。それが、ふらふらと酔っ払ったように傾きながら、コマのように回転している。昼も夜も関係なく回り続けている。回転速度は一定ではなく、そのことが見るものを一層不安な気持ちにさせる。
いまにも倒れそうだ。
今日こそ倒れるんじゃないか。
空也が区界90s nostalgiaに足繁く通っている理由の一つは、区界の中心で威容を誇るユグドラシルを観察するためだ。不規則に運動するユグドラシルは、見るたびにその姿を変える。日に日に傾きが大きくなってきたかと思えば、次の日には持ち直していたりもする。まるで生き物のようだ。もしかすると空也はユグドラシルの最期を看取りたいだけなのかもしれない。
ユグドラシルの回転が速くなってきた。時刻を確認する。
午後九時……三分前。
毎日、この時間になると、ユグドラシルはそれまでの不規則な動きが嘘のように、規則的な動きに変じる。一分一秒狂うことなく、時計の針のように正確に時間を遵守する。
踊るようにくるくる回りながら、回転速度を徐々に増していく。
塔の上半分、その外壁からにょきにょきといくつも砲身が伸びてきた。成人男性が入れそうなものもあれば、せいぜいこぶし大のボールくらいしか入らなさそうなものまで。大きさはマチマチだ。
砲身の位置は日によってランダムに変化している。
午後九時……三十秒前。
ユグドラシルが唸るように不気味な咆哮を上げる。全身が淡く輝いて、回転は一段と鋭さを増す。砲身は大も小も天を突かんばかりに空を指している。その姿は調和とはほど遠く、どちらかと言えばグロテスクだ。生物的な造詣がそう感じさせるのだろう。
午後九時……ジャスト。
ユグドラシルが脈動する。
根元が風船のようにぽっこりと膨らんだ。それはうねり、暴れまわりながら、塔内部を駆け上っていく。そして、瞬く間に砲身に達した。
ばひゅっ! ばひゅ! ばひゅ!
砲身が火を吹いた。
飛び出してきたのは光り輝く球体だ。大小さまざまな弾丸。それが火の玉のように激しく燃え上がり、空いっぱいに広がっていく。遠心力とコリオリの力が働き、放物線を描きながら、空也の頭上はるか遠くを飛び越えて、区界の外縁部に消えていった。
ユグドラシルはまるで歓喜に打ち震えているかのようにビクビクと痙攣している。
空には飛行機雲のような白い軌跡だけが残った。
「きみも好きだねぇ」
空也の側らに男が立っていた。
黒い細身のスーツの上に白衣を羽織って、レンズの小さなサングラスをかけている。顔には無精ひげ。
「いいだろ。べつに」
空也は男のほうを見ずに言った。
男は「くっくっ」と喉を鳴らしながら、サングラスをはずし胸ポケットに入れた。端整な顔立ちをしている。年齢は三十歳くらいに見えるが、実際はもう少し若いのかもしれない。無精ひげを剃った男の顔を空也は数えるほどしか見たことが無かった。
「まぁな。メインはこのあとだしな。行くだろ?」
「行かない。何度目だよ。このやりとり」
空也がうんざりしてため息をついても、男はニヤニヤと笑っている。身をくねらせながら「ええー」と大げさに驚いて見せた。はっきり言って気持ち悪い。
「じゃあ、何しに来てんだよ。美少女を拾いに行かないで、90s nostalgiaに来る意味あんのか?」
「スノッブには関係ないだろ」
「それを言われるとつらいなぁ」
スノッブは全然堪えた様子も無く、白衣のポケットに両手を突っ込んで、ユグドラシルを眺めている。
男は自称、天才科学者で名前は……忘れてしまった。
初めに自己紹介されたが、あまりに鬱陶しく付きまとってくるので、尊敬と侮蔑を込めてスノッブと呼んでいる。スノッブは90s nostalgiaに関する知識は人一倍持っている。空也はその点に限ってだけは密かに一目置いている。
「美少女はいいぞー。世界は美少女でできている」
「そのわりには、人いないけどな」
「酷いや。そんなこと言う子はおしおきしちゃうぞ」
「キメェよ。なんなの? そのキャラ。地なの?」
「地です。諦めてください」
スノッブはうそ臭い笑みを浮かべている。スノッブ本人をいくら貶しても効果は薄そうだ。空也は攻め方を変えることにした。
「美少女たって、どうせ劣化コピーの産業廃棄物が埋まってるだけだろ。いまどき美少女なんて流行らねーんだよ」
「れ、劣化コピー。さ、産廃……」
スノッブ絶句。顔面が引きつけを起こしている。
「そ。劣化コピーで産廃。当たってるだろ? 最初の頃は、物珍しさもあって美少女拾いに行ってたけどさ。もう飽きちゃったんだよね。なんていうかテンプレ? 特定の行動に対しては決まった反応が返ってきて……よーするにつまんないんだよ」
畳みかけると、スノッブは額に手を当ててよろめいた。
「スノッブだってわかってんだろ。見ようぜ、現実をさ」
「……今日はいい天気だなー」
背中を向けて千鳥足で逃げようとするスノッブの前に空也は回りこんだ。
「だーかーらー。現実を見ようぜ。げんじつを」
「なんだよー。俺は知ってんだぞ。空也が毎日来てる理由」
口を尖らせてスノッブが言った。
「はあ? ユグドラシル見に来てんだよ、俺は」
空也にはやましいところなど無いし、あったとしてもスノッブに知られているわけがない。そう思っていた。
「……ナズナ」
だからぼそりと呟かれた単語に、一瞬胸がドキッとした。
「な、ナズナは関係ねーよ」
「劣化コピーってことは、オリジナルがあるんだろ。ナズナに告げ口しちゃおうかなー。空也はナズナに会いたくないって」
スノッブはある種の確信を持っているらしい。だからと言って認めるわけにはいかない。認めたら最後、どんな嫌がらせをしてくるかわかったものではないからだ。
「会いたくないなんて誰も言ってないだろ」
「うん? 図星? 青いねー」
スノッブは白い歯を見せてニカっとした。
「劣化コピーは言葉のあやだって。オリジナルはもっと別。……例えばファイとか」
内心の動揺を押し隠すように言葉を並べる。
「ファイ、か。確かに昔から人気だけど……お前の趣味そんなだったっけ?」
スノッブの切れ長の瞳が空也を値踏みするように見ている。
空也は目を逸らした。
「ま。いいか。それならそれで」
スノッブは頭の後ろで手を組んで空を見上げた。
追求の魔の手が伸びてこなかったので、空也はほっと息をついた。
「劣化コピーで、産廃……ね。そこまで言うならお前さ。ひとつ美少女やってみろよ。飽きるほど美少女を見てきたなら簡単だろ?」
「なんで俺が……」
空也の質問を無視してスノッブは話を続ける。
「もし三年間の高校生活で完璧に美少女を演じきれたら、世界の半分なんてケチくさいことは言わずに全部お前にやるよ」
「何を?」
空也は乗せられているとわかっていても聞き返さずにはいられない。スノッブが持ってくる話は大体いつも面白いからだ。その難のある性格にさえ目をつぶれば、スノッブは概ね付き合いやすい男だった。
「ここを。90s nostalgiaを」
「ハッ! 何を言い出すかと思えば。ここは誰のものでもないし」
空也が鼻で笑っても、スノッブは意外と真剣な目をしている。
「実際には、俺とお前とナズナの三人しか利用していないんだ。俺がいなくなれば、あとは二人で好き放題できるぜ」
「それは……」
魅力的な提案だ。
言葉には出さなかったが、空也の心は傾いていた。
「賭けようぜ。お前が誰にも男だとばれずに三年間高校生活を過ごせればお前の勝ち。途中でばれるようなことがあれば俺の勝ち。負けたほうはここから出て行く。わかりやすいだろ?」
「わかりやすいけど……なんか裏がありそうだな」
「裏? ナズナと二人っきりの時間を邪魔されたくないのはお前だけじゃないってことだ」
賭けに乗ることは、認めることと同義だ。
だから……だからこそ空也は迷わなかった。
スノッブにだけは負けられない。
「受けて立つぜ」
空也は静かに右手を差し出した。
「男と男の約束だ」
スノッブは空也の手を取って、固く握り締めた。
あとから冷静になって思い返せば、その賭けは空也にとってはリスクが大きい反面、スノッブにとってはほぼリスクがないのだった。
スノッブ許すまじ。