別れ
空は晴天で空気が澄んでいる。
窓下からは小麦の匂いが流れてくる。
ラウルの街は今日も変わらず動いていた。
石畳を踏む靴音が重なり人々が行き交う。
冒険者風の男はくたびれた様子で酒場へ向かう。
商人は帳簿を片手に声を張る。
子どもたちは路地で走り回り、衛兵は横目にため息をついていた。
どこにでもある、ありふれた街の風景だ。
騒がしくも雑多で、人が生きている気配に満ちている。
ライカと毎日見てきた景色でもある。
ここならライカは生きていける。
危険もあるが、居場所もある。
誰かに手を引かれなくても、歩ける道がある。
そう分かっているはずなのに。
胸の奥が重くなる。俺のことではないのに。
無意識に拳を握っては開くを繰り返す。
そのことに気づき、そっと手を下ろす。
離れる方が正しいと分かっている。
けれど、視線はいつも部屋の内側へ戻ってしまう。
理屈はちゃんと前を向いてるっつうのに。
感情だけが後ろにしがみついて離れない。
俺はまだ覚悟が足りていないのだろう。
守るために距離を取る。
それが正しいと分かっている。
なんだが割り切れない自分がいてさ。
街は何も変わらない。
変わってしまったのは俺の方だ。
けれど、決めたことをもう先延ばしにはしない。
俺はライカの泊まる部屋の前へと向かった。
扉の前に立つと、足が止まる。
ほんの数歩先だというのに距離がある。
いつもなら何気なくノックする手が伸びない。
ここから先は、戻れない。
そう分かっているからこそか。
戻れないのは、言葉を口にした後だ。
小さく深呼吸をし、拳を作る。
少し痛むが、そのまま扉を叩いた。
「……ライカ」
中から足音がこちらへ向かってくる。
扉が開き、ライカが顔を出した。
「エレウス、おはよう」
昨日はよく眠れたのか。
顔色は良く、元気そうだ。
それが余計に胸に来る。
「エレウス……どうしたの?」
俺は一瞬だけ視線を逸らした。
部屋の中はいつも通りだ。
簡素な机、畳まれた寝具。壁際に立て掛けられた双竜。
ライカの生きる匂いがする部屋だ。
「少し……話がある」
それだけ言うと、ライカは頷いた。
「……うん、中どうぞ」
部屋の中へと入る。
扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
今まではこんなに緊張したことなかったのにな。
沈黙が落ちる。
ライカはベッドに腰掛け、こちらを見ている。
いつも通りの目で俺を見る。見ているんだ。
俺は窓の方へ歩き、外を一度だけ見た。
街は変わらず動いている。
ここでいい。ラウルがライカの住む街だ。
ここなら、こいつは充分生きていける。
何度も自分に言い聞かせ、ライカに語りかけた。
「ライカ、俺がお前を冒険者に誘った時のこと覚えてるか?」
ライカは不思議そうにしながらも返答する。
「忘れるわけない。初めてエレウスと会った日」
「だな。次の日に冒険者になって、世界樹の中に行って」
「クラーケン丼、美味しかった!!」
ライカは思い出したかのように「いひひっ」と笑う。
ここでもう話をやめてしまいたかった。
「依頼をこなしてよ。魔物を倒せるようになった。ダンジョンもいっぱい行けたな」
ライカを頭を縦に振り、手を広げる。
「それに、クライズ、ロイン、サガルフ。いっぱい仲間も増えた。私、ずっと1人だったから、エレウスのおかげ。毎日、楽しいよ」
そう言って、ライカは少しだけ胸を張った。
褒めてほしいわけじゃない。
ただ事実を並べただけ。そんな顔だ。
俺は喉の奥が詰まるのを感じた。
窓の外に向けていた視線をゆっくりとライカへ向き直す。
「……そうだな」
それだけを言うのに、長く時間がかかった。
「最初は、短剣もまともに持てなかった」
「うん」
「文字も読めなかった。金の使い方もよく分かっていなかった」
「……うん」
一つずつ、確認するように言葉を重ねる。
それはライカに向けた言葉であり、同時に自分自身への確認でもあった。
「今はどうだ」
「……投げれるし、刺せる。前よりも読めるようになった。計算も一人でできる」
「一人で依頼も受けられる、な?」
「うん、だけど……」
そこで、ライカは少しだけ首を傾げた。
「それがどうしたの?」
その問いが、胸に刺さる。
分かっていない。
いや、分かっていないふりをしているだけかもしれない。
俺は一歩、ライカに近づいた。
無意識に昔と同じ距離を取ろうとする。
そう思ったら、途中で足が止まる。
「ライカ」
名を呼ぶと、ライカは真っ直ぐこちらを見た。
淀んでいた目はすっかりと澄んでいる。
いつの間にこんな目をするようになっていたのか。
「お前、成長したな」
しばらくの沈黙。
そして、少し照れたように頬を緩める。
「えへへっ。私、頑張った」
その一言が、どうしようもなく嬉しくて。
同時に、胸の奥をぐちゃぐちゃにかき回される。
「……ああ。よく、頑張った」
そこまでは言えた。
だが、その先が続かない。
言葉が、どうしても喉の奥で引っかかる。
ここで言わなきゃいけない。
分かっている。今しかない。
ここを逃したら、きっと一生言えやしない。
「お前は……」
一度、口を閉じる。
息を吸い直す。
ライカが、不安そうに眉を寄せた。
「エレウス?」
その声で、覚悟が決まった。
ライカは俺の言葉を待っている。
「……ここに残れ」
言い切った瞬間。
部屋の空気が止まった。
「……話は……終わりだ」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
胸の奥で何かがひび割れたのが分かった。
言葉を引き戻すことはしなかった。
そんなもん、できやしなかった。
そのまま部屋を出る。
扉を閉める音がやけに大きく響く。
背中に声が飛んでくる。
呼び止める声だ。震えた声だ。
分かってる。
分かってるからこそ。
振り返れやしない。
一度でも振り返ったら。
一歩でも立ち止まったら。
きっと、全部が無駄になる。
廊下を歩く。
気づけば足が早まっていた。
歩いているというより、走っている。
いんや、これは逃げているに近い。
だが、止まれない。
立ち止まる資格が、今の俺にはない。
建物を出ると、街の音が一気に流れ込んできた。
人々は行き交い、声が重なる。
荷車の軋む音や店主の呼び声が耳に入る。
誰も俺を見ていない。
誰も俺の胸の中なんて知らない。
酷く澄んだ青だけが俺を見下ろしていた。
それが、少しだけ救いだった。
冒険者ギルドへ向かう。
理由はある。用事もある。
けれど、本当の理由はもっと単純だ。
一人になりたかった。それだけ。
誰にも見られず、誰にも聞かれず。
この感情を、そのまま抱えるしかなく。
耐えきれないから、何かする他ない。
冒険者ギルドの建物が見えてくる。
足を止めず、そのまま向かう。
今日は、ここまででいい。
これ以上は考えない。
考えたらきっと戻ってしまう。
そう決めたはず。そう決めたのにさ。
頭の中から消えてくれない。
こびりついて、離れてくれない。
最後に見たライカの顔を。
一瞬、何が起きたのか分からないような目。
それから、ゆっくりと歪んでいく表情。
顔をクシャクシャにして、声を堪えようとして。
それでも溢れてしまった、あの顔が。
離してくれねぇんだ。
歩いても歩いても。
視界の端に残り続ける。
何度も何度も。
俺の心に問いかけてくる。
これで良かったのかってよ。
本当の別れってのは、こんなにも辛いもんなのか。
胸の奥が痛む。
鈍く、重く、呼吸のたびに締め付けてくる。
苦しくて仕方ねぇよ。何だよ、これは。
そうか。分かったよ。
認めたくなんてなかったけどもよ。
ああ、俺はそうだったのか。
ライカと離れたくなかったんだな。
危険だとか、正しいとか。理屈よりもずっと前に。
一緒にいる時間を。当たり前に過ごす日々が。
ただ楽しかったんだ。
本当は一緒にダンジョンに潜ってさ。
生きて帰って、飯を食って、次の依頼の話をして。
そんな日々の暮らしがたまらなく。
思っていた以上に楽しかったんだ。
やっと、素直になれた。遅い。
遅いんだ。もう、遅いんだよ。
俺はライカに生きて欲しい。
もっと幸せに生きて欲しい。
そう願ってしまっていた。
強くなくてもいい。立派じゃなくてもいい。
ここで出来た仲間たちと仲良くする。
ちゃんと飯を食って、人並みの生活をする。
そんな風に生きていてくれればいい。
あの時、ライカを冒険者に誘ったのは俺だ。
その責任を果たそうとしている。
そう思わなきゃさ。
俺は、俺は……俺はさ。
このまま前に進めない。
だから、俺は歩くしかない。
胸が痛くても、後悔が残っていても。
これが俺の選んだ答え……だ。
そして、腰の辺りに細く白い腕が見えた。




