#10
「…――バート・ホジキンソンじゃない? 男前が上がっているのはどうしてかしら?」
女の語り口は軽妙で、いっそ馴れ馴れしかった。
庶民の女性の多くが着る〝長袖のチュニック〟に〝折り返しの長衣〟という出で立ちで、腰の辺りで洒落た飾り紐――これだけは上質の物だった――を締めていた。もう〝子供〟でない年齢でありながら長い黒髪を晒している。
……そのことからも〝堅気〟の女などでないことは知れる。
が、その器量は〝上玉〟の部類だった。……勝気だが〝男好きのする顔〟というやつだ。
しかしバートには、そういう女の魅力は発揮されることはなかった。
バートは、声が耳に入ってきた瞬間には、自分の顔の筋肉が強張るのを感じていた。
徐に向けた視線の先に立った人影が自分の知った人物であるのを確認するや、いよいよ表情を険しくして詰め寄って、いまにもその長衣の胸ぐらを掴まんとしていた。
「(……お前っ!)」
なぜか声を潜めるふうになっているのは、それが彼女との関係性だからなのだろう。
女はバートの剣幕にも全く動ぜず、胸ぐらに伸びてきた腕を、するり、色っぽい所作で躱し、クスと笑うように言った。
「怖い顔。……少しは〝世界を見てきた〟かしら?」
「…………」
しな垂れかかってきた女の細い身体にバートは具合悪そうに身動いで、一歩距離をとった。
女は小さく口を尖らすと、悪戯っぽく目を細めて見上げてきた。
「…………」
女の名前は知っている――…ターラだ。
自称〝旅の女芸人〟で〝流れの女博徒〟……なのだが、よく知っているかといえば、それほど知っているわけではない。……ただ、この女に関わってひどい目に遭った事実は、間違いのないことである。
そもそもバートがシャイトンバラの南の街道で〝優歩〟をする羽目になった切っ掛けは、彼女との出会いであった。
街道沿いのヴィルトハウス(宿屋兼食堂)の卓上で〝サイコロ遊び〟に興じていた彼女と意気投合し、気付けば街道を塞いでいた強盗騎士に勝負を挑んで柵を超えようということとなっていた。
その結果は、バートだけが身包みを剥がされた挙句に柵を超えられず、彼女はバートを残して柵を超え、北へと抜けて行った、というものであった。
何のことはない。強盗騎士を賭けに引き込む出しに使われただけのことだったのだ。
どうしてくれよう――と、自称〝旅の女芸人〟の目を睨み返したバートだったが、結局、彼女の屈託の無さに息を呑んでいた。
持ち前の愛嬌と機転とで、どうやらこの砦でもよろしくやっているらしい。
ふと考えが浮かんだ。
彼女は砦の中を比較的自由に動けるらしい。
なら彼女に、あの水辺の少女――レイディ・エステルと呼ばれていたか…――の居場所を探らせられまいか。
おそらく、この後、ナットを救い出す手立てを講じたとしても、あの娘を置いていくことを少年は承知しないだろう、そうバートは踏んでいる。
経験上、あの手合いは、皆そうだ。
だから、最悪、脱出の際にはあの娘も助け出さねばならないだろう。
問題は、何で釣ってやれば、ターラを動かすことが出来るか、である…――。
♠ ♡ ♦ ♧
その頃には、ナットは、眠りともいえぬ浅い微睡の中、夢を見ていた。
灰金髪の痩せっぽちな少女が、荒野に立っている。
向かい風を受け、ほつれた髪が暴れている。
風の強さに臆することなく、少女は昂然と顔を上げ、風上の方を見据えていた。
――…ああ……あの娘が俺の運命らしい……。
微睡のなかでも、奇妙な確信があった。
たぶんそれは、この窮地のなか、自分がそう思いたいだけなんだろう。
でもそれでいいと思う。
騎士なんて、皆そんなものなんだろう。……俺は、あの娘の力になりたい。
♠ ♡ ♦ ♧
エステルは東の別棟の軟禁先の部屋に戻るや、真夜中にも関わらず、すぐさま湯浴みの準備をさせた。
様々な雑務から解放され、ようやく床に着けた侍女たちのことなど何も考えていないような振る舞いだったが、エステルは、敢えてそうした。
ダライアスがエイジャーの家から連れてきた侍女たちだ。……元からのグロシン家中の娘たちは遠ざけられていた。
どうせ昼のうちも仕事らしい仕事はしていないのだから、このくらいの〝嫌がらせ〟をしてやったところで、正義たる黄光に照らされようと何ら恥じ入ることはない(……と、思う)。
そもそも、なぜこのようなことになっているのかといえば、アシュトン・アンヴィルの野心と、それに踊らされているダライアス・エイジャーの浅薄で破廉恥な営為と為人が原因なのだから――。
浴槽に納まったエステルは、北部とグロシン家を見舞った奇禍を思い返した。
〈アンヴィル家〉は北部総督〈ウェッバー家〉 の配下でも有力な麾手家であった。それがアシュトンが家督を継ぐや、公然と主家の総督の座を狙うようになる。
〈グロシン家〉は代々、ウェッバー家と〝戦機による軍役提供の盟約〟を交わすことで所領を安堵されてきた家柄であった。
小なりといえノルスタリー王朝への貢納の義務はなく、他の北部の小豪族のように長子を里子(実質は〝人質〟)として北部の宮廷(=総督府)に差し出すことのない〝誇り高き家〟である。一説に、〝先に辿り着きし人々〟の末裔であるばかりか〈高原地方〉を越え辿り着いた〈北方民族〉の血を伝えるともいう。
そのグロシン家の本拠である〈グロシン砦〉は、高原へと繋がる北部辺境への上り口を押さえ、同地に散らばる辺境諸家へ睨みを利かせる要衝でもある。
――エステルは、女ながらグロシン家のただ一人の嫡子であり、父サイラスの薫陶から、これらのことを正しく理解していた。
果たして、やはりアシュトン・アンヴィルは北部でことを起こすにあたり、ここグロシン砦の重要性に目を付けていた。
だから父サイラスが狩場で急逝したとき、いち早くグロシン家の縁者であるダライアスを通して弔問に参じ、それに託けて砦に兵を入れてしまうということをしてみせた。
ダライアス・エイジャーは、自身、騎士ではなかったが〝騎士の家〟の出自の人間で、グロシン家とは母アリスがサイラスの妹という血続き――つまりエステルの叔母…――なのであった。
この男はアシュトンのお気に入りのひとりで、年齢も近く、アンヴィル卿の新たな近習衆ということになっている。
……尤も、それはグロシン砦を手中に収めるための手蔓に使われただけであろうとエステルは判じていた。
アシュトン・アンヴィルがその野心を露わにするに辺り、北部での挙兵に先立って、戦費に充てる財貨を領民から収奪するために講じた手段は周到で、怒りを覚えるものだった。
アシュトンは、まず北部辺境の諸領に水を供給しているベーベ川の上流に人知れずダムを築いて水を堰き止めた。そしてそれを上流の住民らの仕業だとの飛語を広めさせた。
用水を止められた下流の住民らが折衝に人を送り出してくれば、片端からそれらを捕らえ、上流住民の仕業に見せかけて痛めつけは下流へと送り返す。
そうして上流の住民の非道な振る舞いを信じた下流の住民が、愈々耐えきれなくなって暴発、大規模な衝突が発生するのを待って、それを鎮圧、不逞の者らの取り締まりと称して一帯の村々を略奪して回ったのだ。
なんという卑劣。貴族として決して許されぬ所業だとエステルは思う。
そしてダライアスはその尖兵として喜々と非道な行いに加担してみせた。……グロシンの家と砦とを継がせようというアンヴィルの甘言に、張り切って踊った結果である。
エステルがどうしても赦せないのは、その非道の行いにグロシンの手下を使ったことだ。
確かにダライアスには、叔母アリスを介してグロシンの血が流れてはいたが、麾手家にも伍する古い家のグロシンの麾を、新興の家柄でしかないエイジャーの者が振ろうとは……。
それにこれではグロシンの家名は領民にとって怨嗟の対象となってしまう!
剰え、家名を相続するために、サイラスの一人娘でグロシンの唯一の相続人であるわたしとの婚姻を進めている。
従兄妹同士という濃い血の交わり(※)を承知の上で、だ。……どんなことをしてでも、グロシンの家名と砦が欲しいのだろう。
エステルは「邪は黄光に灼かれ給え」と〝不正を糺す〈五芒の印〉(※※)を切った。
(※ ロージアンでの〈いとこ婚〉は、近親婚であるとして忌避の対象となっている。)
(※※〈黄光〉は『五芒正教』の云う〈五芒の光〉の中で〝父性〟を表す。父性は正義を表し裁きを司るものとされ、黄光の印は、不正を糺す、という呪となる。)
少しもリラックスすることのできない浴槽の中で、心中に湧いた嫌悪の情を振り払うようにエステルは想いをあらためた。
つぎはどうやって逃げ出してやろうか、と。
また捕まって連れ戻されるだけかもしれないけれど、それはそれで構わない。
エイジャーの者らの手を煩わせてやれると思えば、少しは愉悦を覚えるというものだ。
が…――そんなふうに思う自分に、結局、エステルは溜め息を吐く。
本当なら一刻も早くここを出て、北部総督の許にこの事実を訴え出なければならないのに。……実際には、こんな愚にもつかない思いに唇を尖らせているだけだ。
知らずエステルは、唇を牽き結んでいた。
そんな湯浴みを終え、暖炉に火の入った部屋で新しい寝間着に着替えて髪を乾かす段になって、エステルは、髪を梳くのを手伝ってくれているこの夜の侍女が初めて見る顔なのに気付いた。
侍女はエステルの表情を読み取ったふうな表情になり、耳元にそっと囁くように言った。
「――…ここからお逃げになりたいのですね?」
その侍女は、髪をきちんと纏めてはいたが、そう、やはりターラであった。




