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近代建築

作者: 府雨

「近代建築」


 意味付けることが怖くなった。入力に対する解像度を落とす。


 多くの人の語る文字面を追って、コンクリートとガラスの建物の生成を見守る。


 喰らいつく。嚥下する。古い時当たり前だった世界を。


 戦間期の鍛え抜かれた思想。


 東京駅で子供を守るのだ。我が子を。悪意を知らぬまま喰われぬように。


 説明ができないのではなく、さしてする必要を感じないだけだ。


 思い出す「あの時代」などもうない。もうないのだと、二度言う手間も惜しい。


 何年(何十年?)も前に作られた世界のものを使って、誇らしげな顔をするなよ。


 夜灯の下で泣く。誰かに少しでも見てほしくて。見られたくは、なかったけれど。


 打ち捨てられた結婚式場。何かにはなりそうだけど、人も金もない。


 というのは昔の話。金なら腐るほどある。


 今と昔の違い。


 私とあなたの孤独。


 一方は慰めるまでもなく、もうすでに十分満たされている。


 笑顔を見せることがせめてもの抵抗だった、忘れられている私の子供時代。


 隣を見れば、屈託なく笑っている二十歳の子。当たり前なのだ。


 大きな視点で見れば、僅かな誤謬。置いていかれた私。


 喪失をむしろ喜ぶ。死ぬわけではない寒さに、奪われたとすら感じなかっただろう過去。


 左肩にかけられた毛布を、組んだ右手が引き寄せる。


 私の知らない光景。


 近代建築の崩壊だった。単に、メッキが剥がれただけか。


 瓦礫を掴んだ焼け野原。戦争ではないのに、実に鬱っぽい。映像に線が走り、色は画面から消えて、光はコンクリートを映すためにある。ガラスは、あの水色を発散させて。


 いけない。いつのまにか悪意が消えていた。


 振り子のように、性善説からスイッチする。


 止まっていた時間が動き出した?


 時間はいつも同じスピードで私たちをくるむ。


 首を振る。そんなはずない。私の空っぽの心に、それほどの時間が費やされていたなんて、承服できない。


 恨む相手は、自分しかいない。


 そういう理にかなった説明が、私はたまらなく嫌だった。


 焼け落ちる街。焼けた土の上でダンス、ダンス、ダンス。あれ? ダンスってセックスって意味だったか。ははは、あは、あちち。


 こういうふうにしか思い出せない。


 マッチの火を消すように。


 ひんやりした風が頭を冷やす。シャッフルされた記憶をカードにして。


 太く高く伸びる柱。神様が建てた。宇宙を支えている。まさか、地球から伸びているわけではない。柱。物質ということ。


 何人殺せば終わるのだろう。


 否定する仕草を取る。考えるな。今はとりあえず、差し違えてでも。


 特別な時間のために、なんとかして生きる。走る。駆り立てられる。京都御所の砂利が、焼けている。何かを守るために。


 好きな人のために。そういう記憶。


 新大阪の駅の人の焼けたにおい。火車が罪人を連れていく。


 接続する裏と表の時間。


 デザインと絵、詩と小説。


 刀を担ぐ。正邪の戦い。


 カチャンとコンテナボックスが台車に乗る。


 肉のにおいがしない。ずいぶんうまく斬るものだ。


 雨が血を流す。コンクリートに練り込まれた人骨と脂。


 人が生きることで染み込んでいく。


 柔らかい空気と交わる。肺腑が水を飲む。こぷこぷと。水位を上げていく。音を上げるまで。敵が死ぬまで。


 全身が凶器になる。まるで何かの比喩のようにでは、なく。


 想像したものが形になる。唯物的なのか唯心論的なのか、判別はつかない。


 そうか。ようやく。


 溶ける時間の甘さを味わう。夜、別れ切れなかった。


 ゾクゾクと増幅する私の細胞。死んだ人の悲しみに咽び泣きながら、目の前の敵を殺す。


 ザクザクと刺していく。スフィアに体を捕らえられる。


 どこかでご飯を作るにおいが、漂ってくる。


 肺腑に溜めた水が逆流して、嗚咽する。


 なにをやっているんだ。もうほとんど、「肉体はない」のに。だからといって、「精神がある」なんて傲慢を言って、悪ふざけを犯すことは、……できない。


 思念の相剋。高揚感の戦争。


 座が立つ季節。再会の初対面。


 懐かしさなんて肌色なものじゃない。


 想定された空間に感謝すらしやしない。


 山に竹、玲凛のオベリスク。


 囲まれて、その物質が違う心を宿す。異なる風合い。煙に色がつく。


 滑稽みのない冗談に、転げるほど。


 その構築が、細いチェーンのようにチャリチャリと。


 歩いているその場が舞台なのだ。


 床の木目を追う時間をくれるなら、読み切って見せるのに。


 論理をズタズタに切り裂き、喰らい尽くす。消化できなくてもいい。それが知ることだと。


 刃を飲むような怖さ。怖いとは、その時は思わずに。


 なぞることだけは、決してしまいと。


 私が帰る道を、逆に往く人がいる。


 背中で城が燃えている。人がそれを囲んでいる。棺は夜、火の粉を散らし、朝にはまた、何事もなかったかのように脱皮する。焼けた後も残さずに、人を閉じ込めている。


 柱に埋め込まれている、人。あと付属的な思い出とか。


 レストランでの席の配置に、過剰に反応してしまう。私は中心からほんの少しずれている。


 声が反響する。意味がだんだん脱色して、笑うか泣くかしかない。哄笑と落涙。まるで天気雨の空模様。


 ピシリといかづちが走り、境界の摩擦を明らかにする。


 三条商店街で、絵を見ていた。逆巻くような達磨の怒りを買う。


 でも私は、達磨の言葉を知らない。


 別に行くところがないわけじゃない。悪びれもせずに新幹線に乗る。


 雨を置いていくスピードで、私はまた東京駅にいた。ハイヒールが地割れを起こすのかと紛う。


 二度左右を見て、そういえば、怖くないと思った。


 寝転がった体に眼差しを向ける。


 黒墨の肌触り、鉄のスマイル。


 概念が充足していない単語。


 少し前の本を、少しも面白くないのに読んでしまう。


 あなたと同時代に生きられて幸せだ。


 歩くと汗をかく。大地と呼応する。


 入ったハンバーガーチェーンで充電する。


 そしてまた喰らい、太り尽くす。


 体の脂肪が水分を含み膨張する。


 異性を肉体として見る。砂糖のように甘い唾液。


 悪魔にしばられる。硬直する私は、奴隷だった。


 私の好意は、商店街のように、昔からあなたとともにある。あなたが悪魔でも、神であっても。


 天球を満たして支える私の体液。藍色に光っている。


 悪魔は私の体液を求めない。私の心を一方向に引きつける。馬乗りになって、私の胸に爪を突き立てる。


 夜は精神のジュースで満たされている。


 天球は、形を保つ。喉は潰れ、喘ぐとガ、グガと喉が唸る。響きもしない。静かだ。


 主導権なんか明け渡したっていい。ゲームに負けたって変わらない。


「神様なんだよ?」


 だからどうだっていうのだ。私は神様でも何でもない。いっそあなたが悪魔であれば、いくぶんか救われたのに。


 そういうのは、何歳からだっけ。


 私は何歳から人になったんだ。


 私以外の人が、人である事実は、どう確かめればいいんだっけ。


 とりあえず喰えばいいか。


 私は高鬼だから、どんなに臆病に見えても、いくら隣でにこにこしているからって、最後には喰って満足する。


 餅に歯を通すみたいに、さくりと。中の餡を味わうこともしない。歯触りだけで十分だ。


 柔らかい。薄桃の肉を、さくりと。


 あなたが私から搾るから、その分だけ私は喰らうのだ。もう何年も嚥下していない。気持ち悪くなるから。


 水と香りだけの飲みもの。伽羅の香木のように、気高く香るのだ。あなたの香気が移ったからだ。こんなに遠くから。


 もう少し、疑ってもいいんじゃないか。とはよく言われる。


 疑うほど他人に期待していないから、私はいつも優しい。人間関係の「結構」がいちいち装飾的だ。


 コミュニケーションは皮膚の交わりなのだから、それくらいいいじゃないか。


 結局言葉は鼓膜を揺らすだけで、肉にまで届くことなどない。


 だから。だからそれでいいのか。


 交歓すらも皮膚の悦びとして。


 特別視するに値しないのだったら、なぜそういうふうに振る舞うのか。


 でも、何かを、それがたとえ沈黙でも、不快感でも、表さなければ、むしろそれこそが表明で。


 無言を切り取られるのが怖いから、私は空間に線を入れ、自身像を構築する。


 空間を切るのだ。細い線で。線で引かれた口を上下に広げ、引きずり出す。石油のような価値ある物質を。


 空間に埋蔵する私の栄養を。


 不愉快を浮かべられる人は、実に健康だ。払わなければいけない対価を持っている富裕。奪われてもいいとは、微塵も思っていないだろうけれど。


 それでも、私はにこにこしている。因果応報的では全くないのだ。くれてやるというほどもったいぶることもない。ことは簡単なのだ。私は潤沢だから。


 他人のことが実にどうでもいいのだ。興味の範囲は私に限られている。


 どうやって孤独を彩るか。孤独に祝祭を見出すために、私は手段を選ばない。


 矛盾なんてものは介在しない。現実にある。


 手の込んでいない音楽。単純すぎて不安になるけれど、音が潰れているよりよっぽどいいか。悪いけど侮ってしまうな。


 身につかない教養。一向に進まない読書。血だけが搾られていく。


 見覚えのない部屋の配置。組み変わっていく。


 細胞が膨れるというような話ではない。私の内部が私をくるむ。学びというのが、そんな気持ちが悪いものなら、いっそ切り離してしまおうか。


 私の頭の中を、私は微塵も把握していない。


 無意識は、鍛錬できないから、存在を信じていないんだ。


 浮かんでこない。自己に釘付けされた言葉を忌避している。これは私ではなかった。


 私。とは。


 肩が凝るなとかか。違和感は常に付きまとう。


 一つのアイデアを形にする。他のことは行き当たりばったりで。少しずつ複数化する、アイデアが地図を作る。


 コントロール不可能に散った絵の具を、芸術だと言い張って。本当は、才能が欲しかった。


 空腹は、絵にならない。言葉にもならない。本当の意味で、食べたことなどない。


 私のことを私は世界から隠すことができない。


 矮小化するか、肥大化するかして、世界と等しくなることは、誰の夢だったんだろう。


 それを目指すことで、一体何をやりたかったんだ。


 今、どこにいるかわからないと、心細いけれど。それでも何の問題もない。


 わからないのも、たまに悪くない時があるから。


 目的があるといいかもしれない。心を燃焼させるには。


 カレンダーを壁にかける。時がある。それに完全に同期することはできない。


 祈る。私が喫茶店で過ごす時間が、私のものであることを。友達が隣にいることが、幻想でないことを。


 懐かしさも、夢も、眼前の窓ガラスに薄く擦られている。現在は透明なのに。


 メタファーの三次元性。ぐにぐにとした触感。夜7時の駅の蛍光灯の光の、くまなさ。


 映像を見る時間に、強化される私とあなたの境界。


 ノックの音がすることはない。全てのことは始まらないまま。


 未達の手紙の返信を空想する。無限の可能性こそが不十全の具体例。忘れることだけが、許された解決方法。私がいなければあなたはいない。存在の抹消する。


 哲学に少し席を譲るなら、私がすぐさまその席に座る。仮に私というものがあるならの話だけど。


 体温のない機械で切られた。「それも私だろう」と、私の鼻をあかす。死に、一人称は与えられない。そもそも、それが死なのかは、私にはわからない。


 帽子。軽く押さえる手。洒落。わかられたものは一瞬で、消えるまでに一秒もかからない。


 何かを伝えようとしているのに、不十分なのは語彙ではなく。


 木の葉が地面のプロックタイルの上で踊る。与え続けなくてはならない。過剰な方が、足りないよりはいいだろう。


 反応が正式な方が、対応としてはまともだろう。同害復讐も悪くはないとはいえ。


 あなたが行かないなら、私が行く。


 野蛮の誤読。


 晴天の午後三時。私のところでは、雪は降らない。


 電車が、ガタガタと走り去っていき、今度は、あの宗教的な天球が残される。


 木材でできた半跏思惟像をいくら壊したところで、箱庭から出ることはできない。


 叫んでも酸欠になるだけだ。


 プラスチックのように、のっぺりとした、人の顔。私を笑っている。と、それは、私の妄想でしかない。


 厚み。縦横に走る線。空隙を埋める音。


 鬼がいる場所で、そこではわたしもまた、鬼だった。


 転げ落ちるように、鬼から人になり、でもまだ私は、鬼であるような気がしていた。


 縮こまっていてはダメだと思い、またそういう百鬼夜行を担ぐのかと。


 ニコニコしているのが最高で、誰かを守るなんてわけもない。バカな。耳目を集めてどうするんだ。


 情けない。酒ごときで。


 あんなふうに簡単に嘘をついて、それでいいのかよ。辻斬りをする時にしか使えないのに。


 力を行使するのは、楽しい。ふふ、楽しいに決まってますよ。


 殺しきらない。刃も向けない。平伏させるには笑顔で事足りる。タバコなんか吸ってる時間なんてない。


 不安になる。珍しく電話があって、それを取った。


 音はしない。ただ、生きていることがわかる。そういえば電話の相手が、生きている人だと確信したことはなかった。


 接続する海面下に、とぷんと。裏側からは月がくらげだった。


 まるで体にまとわりつく水が、術師のように私の意のままなんて。


 意のままなんて、なんて意味のない。


 私はそのまま沈んで、浮上することなく、空気に喘ぐこともなく。


 果敢に生きる。何かを怖がるのではなく。


 潰されてしまうことがあっても、生きることは権利なのだから。


 特別に長い午後の電車旅。


 本を読み、チャットを返し、時には目をつむって眠る。陽光が差し込むガラスの透明は、世界を少しだけずらしていた。


 だんだんと、夜が近づいてくる。私の乗っている電車は、東へと進路を取って。


 私は振り返る。なんだっけかと、思い出しながら。振り返る。世界が遠ざかっていく。


 もう一度前を向いて。とはいっても、前がどちらかはわからない。


 彗星の落ちる方へ、走り出した。


 ただただ、夜。ただの朝。髪を切る音。


 矢継ぎ早に来るオーダー。美味しいベトナム料理。


 普請中の我が家。もうすぐ小さな家が建つ。


 手を伸ばす。空へと。多摩川がまるで海みたいに青く波を揺らしている。


 長閑な祝日の火曜日。


 絶望のためではない。どちらかというと健康のために、私は空を掴み、水をさらう。空想をする。


 電車に乗ることは得意だ。実際には何もできない。


 雪が舞う、冬の。山々は紺色を深く湛えている。螺旋の楔が、私をはりつけにしようとする。えぐり取られる肉の痛みで、気が狂いそうだ。


 寒さが襲う。今日は映画を観る。新聞で水を包む。


 冷血のはずだった。そんなふうに、孤独を愉しむはずだった。


 笑顔を振りまいて、気がつくと、もう帰れなくなっていた。大切なものは多い。


 目が死んでいるとか、死んだように生きているとか、振る舞いの話は気にならない。


 要は嘘をついているかどうかだ。本気かどうかだ。全ての本当のために、世界を徹底的に欺く。


 好きなものがあり、好きな人がいる。生活が根付かなくても、好きは好きなのだ。


 自分の笑い声が思い出せない。


 毎日見ている自分の容貌が、本当はどうであるのか。


 別にわからなくてもいい。なんてそんなわけない。私は誰だ。昔はずっと疑っていたのに。哲学的な操作で、覆るはずもないのに。


 弦をふるわす。


 なんか変な感じだった。白くて。風景が焼きついている。私は俯いて、あなたから目を逸らした。噛み合わない時間。


 怖かったのは覚えているけれど、矛盾しないようにうまく埋め立てられている。


 少し休めるのに、心は少しも休まらない。


 大好きなチャイを、飲む気にもならないし、なぜか食事は戻してしまった。


 微熱を孕んだ。緊張を生む。関係のなさが、ひどくアジア的で、情熱がなかった。


 欠け落ちたコミュニケーション。こぼれた情報。


 空想で会話する。自分から引き剥がされる。こわばる。首を絞められる。唇を噛まれる。


 望むがままに訪れ、訪れた時には不在にしている。


 単純な尺度。都合のいい解釈。


 暗闇の中眠る。


 繰り返し流れる音楽。夜の部屋。


 当たり前の混乱。混乱がないことの混乱もある。


 一面的な理解を拒否する。単純化を避ける。曖昧な物事を、曖昧なまま受け入れる。


 不在を受容する。空洞というボールを抱えている。


 空白に文字を書く。空隙に無音。と。


 美しく文字を書いても、もう意味がない。


「明日が来るのが怖いんだよね」


 私は、まどろみを覚えない。


 着地さえすれば、恐れなんてもう、名残すらないのに。


 選択と自発の。小さい時はどうやって学校に行っていたのか。


 楽譜には音を垂らす。楽器は音を鳴らす。


 スマホのキーボードに言葉を打っていくのは、自発的な選択で、自動的であり、意識的なものだ。


 人間の高度な情報処理。一つの、手芸だ。


 芸術というと皆笑うだろう。眠るのが怖い人の打つ文字が、芸術になんてなりようがない。そもそも私は起きたくない。


 肉体と会話なんてしたくない。


 シーツの洗濯をする間隔が、少しずつ延びていく。


 辞書を引いて。なぜか、一時間かけて、二ページしか進まないけれど、楽しいと思う。


 綺麗だ。音も、香りも。見えないから、綺麗だとわかる。布団に染み込んでいる。


 何千字も何万字も、何十何百万字かけても、私は克明には素描されない。


 私は多様だし、私は不確かだ。


 語り得る方途は無限だが、私は有限だ。いくつかの手がかりを残す。私がいつ、死んでもいいように。


 無意味な文字の羅列に、何か意味を刻むことができたら。それこそ、が、私の人生なんだ。


 無意味な、文字の羅列を。


 座標を指し示すように、並べて。


 それが私だったと、後でわかるように。


 当然、ただ私の黄ばんだ歯のことを、示唆するものは、何もない。だったらそれが、私でないというのか。


 名前なんか覚えていられない。でも、好きな人を思い浮かべる時、私は名前で呼ぶだろう。動的平衡の残滓であるあの体を指して。


 純粋なのは、不可知の世界があることを、想定できないからだ。


 ことわりを外れたことわりを、うまく納得するしかない。


 私は、名前を呼ぶ。音楽が心を震わせるように、私は、名前を呼ぶ。


 さりげなく。気づかないように。


 特に、挫折したことはない。そもそも、成功したこともない。ただ、日々を過ごすだけだ。


 苦しかったことは、石膏のように固めて置いてきた。


 嫌なことは、一度ぐるりと回って見た。


 笑顔も、実は覚えていない。


 感情は、忘れ去るためのトリガーのようなものだ。


 言葉にすることは、抱えきれない感情のはけ口で。


 記憶はガラクタの山。成れの果て。


 私ではない。私は、あなたを好きだという気持ちなのだから。


 笑ってしまう。忘れてもいいことなんだと。


 揺るがされる心許ない歯茎のようだ。お飾りの歯列。


 思い出しながら。


 脈絡なく、思いつきで記憶を象る。


 商店街を歩く。見たものと見ていないもの。見ていないのにわかるもの。見てもわからないもの。私と、あなた。


 何年経っても、私は変わらない。


 変わることなんか、できないほど、流れから遠ざかっている。


 何もかもをなくした後で。


 またちまちま積み上げて。


 変な確信だけがある。


 実感のない生が、影のように縫いつけられている。


 あるとしか言えない。


 不在を確約できない。


 私の実体に重ねられている。


 冠のような自意識。私ではなく、私の行為が、そのまま冠を戴いている。


 寂しさでしかない。


 寂しさでしか私を癒せない。


 命を懸けていないから、何も言う資格がないなんて、思ったこともない。


 死に様で美を誇ろうなんて、考えたこともない。


 抜け殻。で何が悪い。


 何かを持っていることの何が、偉いというんだろう。


 綺麗事ばかりだ。どこにも生活がない。


 自分の肉を切り出さなくては、我慢ならないとでもいうように。せめてもの自信でさえも、とろとろとこぼして。溜まらない。


 私の語彙。私という肉体から、祝福されて出てくる。


 単純か複雑かではなく屈曲した倫理。すなわち人の顔をなぞった線のように。


 不連続なのだと。誰が。何が。不連続だっていうのか。


 ちりりと血液が垂れる。雨が降る。濡れて、雨は、不連続なのか。そうかもしれない。


 雨傘が落ちていた。傘が一番濡れている。


「寒かった? 雨は、冷たかっただろうね。そこで寝ていたら、車に轢かれて」


 家族が暖房を入れて、部屋を温めていた。


 肉と埃のにおいが混ざる。赤白く部屋が焼けている。


 カタカタと骨組みが天に昇る。どんどん形を明らかにする近代建築。


 屋根が出来上がり、私を守る。


 あれほど(とはどれほどか)憎々しいと叫んだ構造物に、私は守られている。


 近代建築は、自らの傷も厭わない父の痛みだった。


 窓の外を見ると、駐車場があった。最初からそこにあった。


 私の世界は部屋であり、窓だった。与えられたもの。


 四角く切り取る箱は、不完全な創造主。


 術語では語らない。


 箱の中を彩る。決して外ではなく。


 雨垂れの後からカルシウムが流出している。綺麗なコンクリート。


 空っぽだが空っぽではない。それだけで厳かで、意味の気配を漂わせている。


 部屋の中にはたくさんの喜びがあった。ただそれを、私は感じることができなかった。


 ポツポツとものを置いて、私の世界を作る。せめてもの、私の生きた証として。


 普通のことなのに誇らしい。


 当たり障りのない表現が、本当の気持ちを隠している。本心は、雪や雨のように、冷たいものだ。


 かと言って、何かの現象というわけでもない。


 イメージのように観念するものでもない。ある種のメタファーが受肉する。木の板のようなものだ。その上に焼き印が押されている。


 私の中の雨と、町に降る雨が重なる時、高まる感受性が私を幸せに導いてくれる。


 それが私だと。幸せが私だというのは、傲慢だろうか。


 素朴な感情が表出しない。いつも感情が絡まり合っている。


 カレーが美味しい。身近なものが、私を取り巻いている。身近とは言えないあなたのことが、私はずっと好きだった。


 忘れるとしたら真っ先にあなたのこと。あなたが嫌いだからじゃない。とは思うけど。


 行く場所は決まっているし、買うものもわかっている。


 落ちぶれた時、目的を見失った時に、忘れなかったもの。


 撤退して縮こまっての、最小単位。


 まさか、私が自分のことを自覚するなんて、あるはずない。そんなはずだった。


 投影としての私ばかり見て。たぶん今でも自我なんてないけど。


 自分に確信が持てるなんて、少し羨ましい。その確信を、なぜか疑ってしまう。


 仮に私が東京じゃない場所で育ったとしたら、こういうふうにはなっていなかったのかな。


 油圧でできた近代建築。電車が支える人の流れ。その中の一人になる。


 ものを作ったことはない。自然を素材にしたこともない。


 何のかたちもない。私とて何のかたちもない。どこに縫いつけられているのかわからない。でも特に、不安というわけではない。


 哲学に頼るか、文学に頼るか。それは、多くの人にとって究極の選択になる。


 文学が無意味な具象なら、哲学は虚構のお遊びだ。


 それらを架橋するものはない。


 脈絡がない文学でも、芸術になるかもしれない。


 論理が破綻した綱渡りも、哲学になるかもしれない。


 哲学は文学の婢女ではない。と言ったら、哲学者はどんな顔をするだろう。


 冗長と稠密。先回りすると、崖崩れの起きた斜面の山肌だ。


 理論はついには行き止まりになり、世間話は共感以上の何も、生むことはない。


 どちらにせよ飽き飽きしている。


 面白いか、そうでないか。だとすると責任は私だけに偏るはずがない。あなたが、私と同じであるか否かが問題だ。


 あなたがどれだけ私のことを知っているか。それだけが、主題として立ち上がる全てだと思う。


 同じだけ、私のことを知らない人のことを、憎むのだろうか。


 あなたが、まだ見知らぬ人だったら、それに恋することは果たしてできるのだろうか。不在への恋情は、仮構の。だとしたらなぜ、あなたを知った時、私はあなたをそれと知ったのだろう。


 あなたと別の人をどうしてすぐに比べられたのだろう。あなたをいささかも知らないのに。


 知ることは究極ではなく、知らないことも同様に理由にはならない。


 何も理由にならないのかというと、そうでもないようだ。


 唯一の組み合わせとしか、私は出会わない。


 与えられた条件で、それ以上もそれ以下も私に渡されることはない。


 常に。


 天を恨むことはない。比較する必要がない唯一の例だ。個人として生きるなら。それで十分だ。


 あんまり面白くない物語を書いて、記録のように取っておく。そこからどこまで遠くに行けるかが、勝負のような気もする。


 考えていることはそんなに変わらない。でも自分に課す技術的制約は、時に応じて変化する。名前がないからといって、私が何者でもないわけでは、もちろんない。


 文学的に跳躍したから、私があなたに会えるわけでもない。


 壊れてから何年経つだろう。続きを書くことをやめて、またやり直して、無駄足を踏んだ。


 壊れたことを、悔やんだことはない。壊れたらどうなるだろうと、ずっと思っていたから。


 壊れてみると、案外悪くない。浅い呼吸で、喘ぐのも、実は結構楽しい。


 命の湖面に触れて、水紋を生み出すように、その液面からしか、汲み出せない何かがある。


 湖面は暗く、指先はなまぬるい。運び出すその液体が何であるのかは知らない。家族の手も借りず、一人でそれを、どこか別の場所に。


 水脈というほど劇的なものではない。


 鉱脈というほど経済的なものでもない。


 その液体を飲むと、不都合が生じるかと聞かれたら、私はどう答えるだろう。


 足りなくなったら汲みに行く。でも、湖面にたどり着けるかどうかは運だ。


 そういう体調じゃない日もある。


 運んでいてこぼすこともあるし、気化するのか、目減りすることも多い。


 でも湖からその液体が枯渇することは原理的にあり得ない。それだけはわかっている。


 壊れた私を繋ぎ合わせる膠が、何かを書き表すことなのは、不思議でも何でもない。


 自分を拡張したものだけが、私を覆い、外部から守ってくれる。


 液体は内側から染み出して、私の継ぎ目を修復する。


 体系的ではない、場当たり的な文字の羅列が、真実を構成する。だから、嘘ですら真実たり得る。


 体系は数多の素材がなければ、その位置を定められない上澄みで。


 もし何かが体系的であるなら、それは単に場数を踏んでいるという、記憶力の誇示にすぎない。


 私は、体系から合理性を選び取る。


 合理的でないものがほとんどだと私は思うのだけれど。手に取るものは過剰に洗練化されているから、勘違いしがちだ。


 部分的に当てはまる事実を、信用することはないだろう。


 全てが真実か、全てが虚構かだ。


 合理性はどちらかというと虚構の技術的な産物で、不完全性は真実に近い。


 説明できないことが一番、私の位置を正確に告げてくれる。


 何をわかっていないかということは、わかっている他のすべてのことより雄弁に語り、私を奮い立たせてくれる。


 なぜそんなことで奮起するのか。それは私にはわからない。


 そういうものだと設定しただけかもしれない。哲学に関する本を読んで、納得したからかもしれない。


 名前がつけられないことの方が、名前がつけられたものより数が多いことの証明を、自明と結論づけた人のことを信じたのかもしれない。


 まず名詞は信じるに値しない。


 形容詞は簡素すぎる。


 動詞は嘘くさい。


 信じてもいいのは助詞くらいだ。


 記号的な言語の働きを、私はそこまで追究しない。


 分析する趣味は特にない。それらの学問上の出来事を、暗記する気にはならない。


 全てを知っていなくてはならないと、一体誰が決めたのか。全てなんて全てと言うだけで事足りる。


 私は、私の言葉をほとんど覚えていない。つまり、事実より手続きの方が、壊れた私の身にとっては重要だということかもしれない。


 全てを一から論証することを考えるのは、能天気と言わざるを得ない。


 それに、不完全でいいなら、人間という知性がたどり着く境地は、実質無限であり、それは、全てを優に超えている。わかりきったことだ。私は、私を信じないけれど、人間一般のポテンシャルは、無条件に肯定できる。


 雑誌をめくる音がする。親指がページの端をパチパチと鳴らす。


 二月の風は、どんよりとした雲を背負って来た。


 脛にヤスリを当てるような寒さ。


 バスの中であなたと話したことを思い出す。勉強の話だ。私はそのころ受験をしていて、あなたはそれをもうすでに終えていた。


 高校生が何も持たないのは万国共通で、私はいつも何か期待していた。


 家に誘われた時は怖くて、うなずかなかったけれど、ご飯は背伸びしてレストランに行った。


 誰も、助けてくれないはずだった。実際、助けてくれる人は現れなかった。でも、救われはした。


 私の根底に、私の手が届かない以上、誰も私の心奥を推し量ることはできない。


 そばにいてくれたことを、私はすごく感謝している。


 手紙はどうしたんだろう。


 何通かしたためて、何通か受け取った。あの手紙は、どうしたんだろう。


 あなたに何もしてあげられかった。もらうばかりで申し訳ない。


 別の人を見つけてやり直すのか。わからない。何の理由もなく好きだったから。また何の理由もなく、別の人を好きになるのだろうか。


 いい本を読むたびにあなたを思い出す。


 かけ離れるほど時間の流れは違う。


 置いていかれた。私は何も持たない。平凡とまで言われたら、後ろは残っていない。


 堕ちても、誰も笑わないくらいには惨めだ。いい子でいるのも疲れる。いい子でいるのも疲れるよ。ハハ。


 どうすればよかったんだろう。


 不完全であることに耐えられるのに、不完全であることに耐えられない。


 あなたに近づく方途がない。


 遠ざかるしかない。眠るしかない。裏腹に、あなたのことばかり考えている。


 行き止まりだ。思考はその先には進まない。必要な変化が起きていない。


 答えは出せない。私だけの問題ではない。そして、あなたは、想像上の人物でしかない。置いてけぼりになった時間は、十年じゃきかない。私はまだ十代のようにナイーブだ。


 解釈が可能なのは、一部のことだけだ。


 私の連想には脈絡を見出せない。


 分析は可能だと思う。何の分析をするかにもよるけれど。


 無意識の問題ではないし、仮構の出来事でもない。


 私は最初から現実の出来事を語っている。


 現実はその淵源を明らかにしていない。だから、全て現実のことだ。


 明晰な嘘以外、私が嘘をつくことはない。


 私は何かを解決するつもりなどない。


 私にも限界はあるのだから。


 いくつか、本が並んでいる。本自体の同一性は、タイトルによって束ねられまとめられている。


 書棚には本が並んでいる。


 判別する脈絡ほど無意識から遠いものはない。


 並べられた本のように、並べた言葉を、私はまとめる名前を知らない。


 整わない文体だけ、結構気に入っている。


 矢継ぎ早に私に言葉がかけられる。


 じゃあね、と手を振る人がいる。


 置いてかれるわけには行かない。たとえどれだけ遅れていようと。私はあなたに追いつきたい。


 諦めたことなんて一度もない。


 好きでゆっくりしているわけじゃない。


 すべてのことができないわけじゃない。


 私だって、誰かを好きになることができたのだから。


 まだ一度も、愛していると、言ったことはなくても。


 浅草の大橋を渡り、まだ完成途上だったスカイツリーを見上げた。


 ただ高い鉄塔を目標にするだけの散歩。


 何も象徴しない。


 なぜかはわからない。建築が、昔よりシステマチックにできるからかもしれない。容易にと、言い換えていいなら。


 でも、私は好きだった。


 さっぱりとした雰囲気も、洒脱なデザインも。私は好きだった。


 何かに囚われていない。何にも縛られていない。


 建築一つで、その世界は一変する。人が入れ替わり、仕事が生まれる。


 あなたが言っていた。町おこしには、シンボルを作るのがいい。


 低層建築でも、木造建築でも、魅力的な建物であれば、人はそこに集まって、新しいことをなす。


 祈りの象徴としての近代建築は、心の拠り所かもしれない。涙や悲しみを見届けて、声をかけてあげることもできない神社の神様のようなものだ。


 現代建築は祈りを具現化する。神様は、私のすぐ隣で、かつて笑いかけてくれていたのだから。


 私の投影ではない、あなたが。


 そこここに点在する私を、置き換えていく。


 最後には、私とあなたが残る。ひとりぼっちの私と、私の心を取り囲むあなたが。


 誰かを好きになるなんて、物語じみたことを。


 結果を求めるなら、すぐさま翻せばいい。


 結果がほしいわけじゃない。ただ生きていたいだけだ。


 図書館で、蛍光灯を交換する。


 誇らしいとも惨めとも違う。


 時間を費やすのには、悪くない仕事だ。


 必要なのは、時間が過ぎること。


 一人でもいい。


 冷たくてもいい。


 色がついていないものだらけなのだから。


 こことは違うルールが働く空間を想像する。


 友達のような人のことを思い浮かべてみる。


 どうでもいいから優しくする。私は、持っているから。与えることを手控えることがない。惜しむ間が、もったいないとすら思う。


 家族の顔が思い出せない。


 故郷があるのが当たり前で、それが東京だと言うと、父は笑った。かわいそうに。それは故郷ではないよ。と。


 嘘くさい建前で覆い隠されたひととなりが、嫌だったのに。


 今、私の口をついて出てくる言葉は、何もかもが建前でしかない。


 本心というものは、存在しないに違いない。


 結局言語とは、精神現象の直訳でしかないのだ。


 ただ偽こそが芸術の真骨頂だという人には、笑みとともにナイフを突きつけてみたい。


 私はあとどれくらいで、芸術ができるようになるのかと、問うてみたい。


 これも同様に、真と偽を、架橋するものなどないということ。


 葬式で泣かないなんて、そんな当たり前のことを言われましても。


 親が死んだら悲しいなんて、そんな当たり前のこと言われましても。


 最後の最後までお荷物でしたと。そう言うのは内輪でならまだ、間に合ってるでしょうか。


 愛してもらったことは、よく覚えています。手元には五百円しかなかったから、それでお菓子をプレゼントするべきでしたか。


 笑顔を見せるだけで、よかったとか。先に言ってほしかった。


 涙が出るのは、成熟の証?


 現象は、それ以上の意味を付与すると、はちきれやしないか。


 深く礼をするのは、正当な恭順の証であり、内心の軽蔑なんか、及びもつかない。


 本当を追求するのは、よほど暇だからなんだろう。


 敢えて、じゃあ何が本当なのか。


 拙い字でノートに書いたこと。


 ねじれて伝えられなかった感謝。


 疲労で冷淡になった反応。


 未完の醜悪だけが、本当なのだと思う。そこには続きがあるから。


 スマホで撮った映画のようだ。


 どうやったら冷え切れる。純粋な観念こそが人間だと。にわかには信じがたい。怒りは対象ではない。内面だという嘘は、私につけるのか。


 ただ、知覚できないのも、悪くはないと。


 聴こえない音を排除する姿勢。


 わかる範囲だけでやっていく。人間を積極的に受け入れているのだから、悪いはずがない。


 とはいえ啓かれていないと。説明責任を果たせない。そこで私は私ではない。


 理由を言えないことは、ここでは犯罪なのだから。たとえ多くのことに、理由なんかなくとも。


 理由が、多くの人に共有されるものであることは、なぜかもはや前提で、不可解なまでに、認識は共有されないのに、言語は共通だと、思い込んでいる人がいる。


 簡単なことは言うまでもなく、複雑なことは言葉にできない。


 食べたいものを食べることができるのは、私が大人になったからだろうか。


 行きたいところに行けるようになったのは、私がもうこの世に慣れたからだろうか。


 現実とあまりにもかけ離れた言説。


 私を取り巻く制約的条件。


 どうでもいいことには、熱心になれるものだ。私心が挟まれない。


 バスに乗っている景色が、私には見えていなかった。湖みたいな緑色の暗闇が、私の顔を当てる。無機質な空間の空気が、澱む音がする。こぼすような音。


 大陸の乾いた道路がぬめる。泥を巻き取る河川みたいだ。


 蛍光灯が明滅する。


 若い青年の笑い声。受け応える哄笑。不愉快そうに耐える女の顔が、私は一番気に食わない。バスは走り続ける。決して止まることがないという意味で。


 原初に帰る。精神と言語が不可分だった時代に、私は帰る。全てを置いて。


 そのまま、連れていってくれはしないか。


 回送無人のバスの中で、にぎやかに。


 どこへとは、うまく言えないけれど、どこへでもいいわけじゃない。


「降りてください」


 どうやら、連れていってくれるわけでは、ないようだ。自分の足で。自分の、足で。


 今を活写する。


 逸脱することは、なかなか難しい。


 人じゃなくなることも。難しい。


 私の中から優しさはなくならない。


 音が、きらきらと降ってくる。幻影に最初は惑わされた。特別なことだと、思い込んだ。


 ありふれたことではない。光に包まれることも。絶妙なタイミングで、示唆されることも。


 特別ではない。それは、私が特別なのではない。音は、単に近くにいた私に降りてきただけだ。啓示でもなんでもない。


 宗教心に目覚めるなら、音を降らす側に回ったほうがいくらかマシだ。


 統計を取るほど有意義なことでもあるまいが、まあ、3%とか。


 論理の裏側を見たからといって、何か誇ることでもあるのだろうか。


 百人中三人が経験しているような、大して特異でもない現象に、なんでアイデンティティを見出さなくてはならないのか。


 表があるなら裏がある。現実に織り込まれた裏側に、ただ触れられるというだけのことで、何をそんなにいきがっている。


 触れられるだけだ。暗闇になることはできない。


 光をまとった王のように、闇に接続したから夜叉になれるなんて、漫画の見過ぎだ。


 精神は、人から離れられない。変容もしない。ひととなりというのは、わずかな誤差でしかない。


 狂うというのも実に典型的で、なんの意味もない。褒め称えられることでも、軽蔑されることでもない。


 他の人と違うことで称賛されるとか、蔑視されるとか、ありえない。私は必ず私以外の人と異なっているのだから。


 簡単なことの積み重ねで、私はできている。入力がわずかでも異なれば、完成形も異なる。


 私は私でしかないし、違う人間のことを考える余裕もない。


 同じチャート式でも、持つ人が異なれば、違う参考書だ。


 私という差異。本質的な個人性。


 ここから離れたい。


 ここにいたくないと、ずっと思い続けるのだろうか。


 どこかに行ったら満足するなんて、想像もつかない。


 記憶力を使わない場所がいい。


 面倒なことがない場所がいい。


 単純で孤独なシステムに巻き込まれたくない。


 そのためには、全ての負の側面を受け入れる。逆に面倒なことを仕事にしたほうが、かえって良かったりする。


 ここにいたいと、思うためには、痛めつけられなくてはならない。


 甘やかされたら、ここから逃げたいと思うものさ。こんな簡単なことをやる人生なんて、大嫌いだと、飛び出して。


 本すら読まない逃避行。


 北京で雨宿りする。


 雨降る国の姫探し。


 躁鬱の作った穴に捨てられた、たくさんの言葉。空費された炭化水素。


 なんのために、というせりふが意味を失った季節。


 大切なものがたくさんドブに捨てられて、後でキッチンで泣いた。


 水道水を飲み、グラスをすすぐ。


 洗剤をつけるまでもない。


 窓には雨粒が当たり、水の筋が走る。


 子供の時は大きく感じられた家が、徐々に小さくなっていく。静かだった部屋が、私の声で賑やかになっていく。


 受験のことも忘れてしまうんだ。新聞紙に書かれたセンター試験の解答を、後生大事に残しておくのも、いつのまにかやめた。


 ずっと「鳥の詩」を聴いていた時間が、全てではなかったのか。


 貪るように漫画を読んで、それで人生が終わるのだと、私は本気で思っていた。


 仕事ができるとか、できないとか、そんなものどうでもよかった。


 中学時代に置き去りにしたものを、今もずっと、心に残している。


 早いクライマックス。間延びする時間。


 自分の体には、名残のかけらも残っていないのに、時間の刻まれ方が、歌になっている。


 逃げただけか。


「あなたは逃げていないわ。立ち向かっただけよ」


 何から逃げたのだろう。


「自分からは逃げられない。ついて回る影と、あなたはずいぶんうまくやっていた。だからあなたの周りは、笑顔であふれている」


 神様の時代だ。


 バスの中で、後部座席に隣り合って座りながら。


 ダイヤモンドのように、話したことが、輝いている。


 コンクリートでできた壁を、ずっと眺めていた。生身だという事実から目を逸らす。


 粉々になったのは、コンクリートの方だった。


 理解できないものを、在ると考えて、仮置きする。


 生み出す力を欲する。ないものを在ると。ねじ曲げる強引さ。


 帰属意識なんてものは、存在しないのさ。意識なんて存在しないのさ。


 素読する。世界を読み込む。


 最初は、何もかも分からなくたっていい。


 天才になりたかった神と、神になりたかった天才が、お互いの存在を知らないまま、高らかに笑って諦めている。


 神が十全なのと同じように、天才は重力に縛られていかることに、殊更に強く文句を垂れる。


 不完全なところが可愛いのに、と、神は自分の完全性を嘆く。


 天才がその天才性を看破されるのは、往々にしてその欠陥としての異常性で。


 この世に生を受けた神は、他者として、想像の中で凌辱される。


 誰もあなたが神だと信じないように、私はあなたを神だと決めつけている。


 そういう方法でしか、神の存在を看破することができない。


 笑ってしまう。あなたが本当は何であるかなんて、実はどうでもいいことなのに。


 疑う、の反対は、信じる。


 その二つに本質的に優劣はない。


 疑うだけ疑う?


 信じるだけ信じる?


 結論は変わらない?


 事実は不変?


 あなたを信じるのは、知りたくないということなのか。


 あなたを疑うのは、私にとって都合の悪い事実の判明可能性を、回避するためなのか。


 そもそも他者を考えるのは、自分にとって都合のいい事実を、他者からひねり出すためなのか。


 優しさは、時折私に反駁する。


 冷たさは、時に私を愛撫する。


 何にしても自分勝手だ。


 形容詞が形容詞であるための、唯一の尺度。


 日常にヒビが入る。


 最初からなかったはずの自我が、なぜだか崩れていく音がする。


 嘘ばかりついていたからか。優しすぎたか。


 誰も周りにいない。いても私を知らない。当然ながら、私も、私という存在を知覚することはできない。


 くたりとしなった小松菜のように、バスの座席に寄りかかる。


 さらさらと風に流れていけばいいのに。体は、ずっと私のままだ。


 都合が良すぎるか。


 気取るほど、ロマンがあるわけでもない。


 役割という言葉では片付けられない、尊い行為。


 嘘という概念を、少し疑う。自分を承認するための疑念。


 気づきにくさ。


 並び立てられる楔が、私から何かを切り出して進む。私のことを置き去りにして。


 私から独立して。


 言語は進む。


 庭ができた。多くのことを、庭は含んでいる。事実としてどういうものを含むのか、私は知らない。庭の豊穣の香りは、事実以上のものを含んでいる。


 私は区画しただけなのに。庭、外部にある小さな世界。


 緊張して当たり前なのだよな。


 私だけではないのだよな。


 私への言及をいくら重ねたところで。


 それはそれだと、指し示すことしかできない。


 それは一体、どこにあるのだ。


 曖昧な保存の仕方。揺らぎの中に、それは存在する。


 あやふやなのは、自己同定ではない。固定的な意味がなくなってしまう、厚みだとしたら。


 不在。は、無ではない。と言いかける哲学臭。


 定義ができないと、言い張るのも、何だか違う。それは、存在していないわけでもないから。


 他者を感じ取れないのと同じレベルで、自分のことを感じ取ることは、できない。


 重なる不可能性。私。


 誰かに強く欲されることもなく。


 それに、なりきれない、私の憂愁。意識の構築する世界。


 私がそれだったら、きっとあなたは特別じゃないだろうとか、安いことは言わない。言わないであげてやる。


 それなんて、綺麗な言葉で、私はかたどれない。


 それと言ってしまっていいものは、あんまり見つからないけれども。


 私が不定なのは、あなたが不定だからだ。


 私が不定であることは、あなたになりうる誰もが、私にとって不定だからだ。


 私が私である瞬間は、唯一、あなたと一緒にいる時だけだ。


 一人では何もわからない。昔からそうだ。


 引っ張られていく。間延びしていく。


 多くの歌がそうであるように、音と音の間、歌詞と歌詞の間には、誰にもわからないこだわりが詰まっている。


 新しいか、新しくないかではない。


 ズタズタに刻まれた素材。


 私の喉が、開いている。


 うまく、世界に触れられなかったのは、私のせいだった。


 映像が切り取る、エフェクトをふんだんに使った夜のように、私は、手でスマホをいじっている。


 メッセージを送り、誰かと繋がるためというのが、相場だろう。


 音楽を聴きながら、電気スタンドの下で。


 王様でも、皇女でも、それは変わらない。


 映像に刻印された、私の姿。傾く太陽に、唇を引き結ぶ。


 指が文字を打ち出す。適当な挨拶と、気持ちのこもらないせりふを、吐き出すたびに壊れそうになりながら。


 それでも、眠るよりはいくらかましだろうと。


 ひどい顔をしている。ひどいくらいなら、まだいいけれど。


 簡単な想像力で、全てを片づける。想像力が働くなったら。


 今の時間がわからなくなる。今いる場所が定かでない。感覚が混濁している。


 まあ、なんとかなる、くらいのことが、私にはもうわからない。


 友達のことが心配で、夜、新幹線に乗った。そういう気分でお酒を飲んだ。


 もう私の方が元気がない。


 気づいたら東京駅にいた。


 新幹線に乗って、乗って乗って、狂い果てて。


 新大阪の、焼ける鉄の改札で、刻印を押された。


 ずいぶんと、悪いことをした。


 もっといいことをすればよかった。


 牛丼を食べて、ホテルで、ぐっすりと眠った。こうでもしなければ、眠れなかった。


 明日?


 来た時に考える。


 何で、あんなに笑わせてくれたのに、私は、うまく笑えなかったんだろう。あなたのことが好きだったのに、それでも笑えなかったんだ。何でだろう。


 あなただから、笑えなかった。正直に見つめてしまった。


 描きたい。いつかの間に、記憶したことを、目の前に、描き表したい。


 ほのぼのとあかる焚き木の映る、昼間の電車の、ガラス窓に、声が残る。


 まだ明るい。まだ間に合う。間に合うか? 間に合う。もう暗い。まだ。まだ全然明るい。重なる。まだ生きている。


 焼けていく。私の体が、燃えている。ぼろぼろと朽ちた先から。


 雪雲が、海に立ち込める。


 河口は大荒れで、光るものが何かもわからない。


 たぶん漁火なのだろう。わからないけれど。


 車内はあくまでも静かで、泣くわけにもいかない。


 十年も二十年も前に、子供だった時に、やはり泣きはしなかったと思う。


 電車の車輪が声を輪切りにする。いくつかの言葉が断片的に聞こえる。


 昔は哄笑だけだと思っていた。


 嗚咽する。喉が出す音に、驚く。


 収拾をつけようと、喉をひっくり返してして。むせて、咳き込む。こぽこぽと喉からこぼれる。透明な唾液。


 できるなら、軽く。大したことないと。


 壊れていくのも、できれば。


 壊れたくない。気がする。


 お腹減った。昼はあんなに食べる気がしなかったのに。


 さっさと帰るに限るな。


 さっきお腹いっぱいになった。後は帰るだけだ。途中で、挫けそうになっても、帰ったら家族がいる。


 この箱の中の人がどうかはわからない。渋面を作って、それでも幸せかもしれない。


 焼ける箱。外界から閉ざされて。新宿からははち切れそうで、とぼとぼと駅に降りると、夢から覚めたかのような心地。


 酸素に喘ぐ。ドアが開いた冷たい空気を吸い込むとすぐ、ドアは閉まり、まだ夢は続く。


 眠るのとは違う。急行でもこんなに遅い。もう少し、夢を。


 結露するガラス。外は雪が降っている。どちらが夢でも文句はない。


 外は寒いのだ。


 むせかえるようだった列車、もう人もまばらで。


 冷気が入ってくると、やはり夢は夢だと。


 夢よりまし。と思わないでは、やっていられないと、笑う。


 骸骨が、カタカタと。私を運んでいる。


 あれほど、頻繁に襲ってきた吐き気も、体の震えも、孤独の寒さも、音楽に支配された自律神経も。全部骸骨がひっくるめて持っていってくれた。


 その代わり私は一つトークンを置く。


 お腹いっぱいにしてくれてありがとうのマーク。


 今まで使われたことのない言葉を使うためには、本を、読んでいなくてはならない。


 本当だろうか。


 新しいというのは、知っているということだ。


 そんなこと、あっていいのかよ、と。


 詩を書くというのは、本当に文学的営為といえるのかな。


 本当は、文学なんてものはなくて、単純に、言葉だけが転がっていて。


 単なる確率の問題でしかないのかもしれない。


 組み合わせは、有限なのに、どうして、文学なんてあるんだよ。


 文学がなければ、よほど簡単だったじゃないかって、思わないではいられない。


 その箱はもう、言葉でいっぱいだ、見ていられない。見ていられないんだよ。


 引用なんか、してる暇ないんだよ。


 読んでいる時間もない。


 そうやって衰弱していくのは、私だ。


 問題意識がないんだ。新しくなくてもいいんだ。書くことが、私には重要なんだ。


 そうやって人生を誤魔化すことで、実に真面目に。


 スマホに打ちつける文字が。


 私ではないように。


 それなのに、私小説めいて見えるのは。


 私が、アニメを観ていたことが、確かな事実だから。


 違うふうに書く癖は、少し並行移動すれば、事実と重なる。


 事実を書くことはできない。そんなことをできる文学者を、私は文学者とは呼ばない。


 並行移動して、ねじって、数値を変えて、私を安心させる。


 これは本当のことではないと思いなす。


 私小説と呼ばれることを、怖がるから。純文学の最大の瑕疵だと恐れるから。


 他者を扱うのは、だから、簡単だと思う。何も恐れない。ぞんざいに扱っても、非難されない。


 純粋な他者は、いないけれど。世界は、役割のみによって成立しているわけではあり得ないから。


 他者に触れたことがない。


 私は、それでいいと思う。しょうがない。


 作るのは、それによって他者たる自分に触れるため。


 私に距離は推し量れない。


 どこかで水をこぼしたか、目かたが減って、少し悔しい。


 春の匂いは嫌いだ。


 私の人生は、紙の匂いであふれている。


 揮発するインクの、こすれた油の様な香りが、水分を吸った紙から、溶け出していく。


 人の言われた通りにやる。悪くないだけで、好きではない。


 練られた言葉と乱雑な言葉は、丁寧な態度と雑な態度ぐらい異なっている。。


 桜の花びらが、アスファルトの上に落ちる。まるで藍や紺の輪郭がつけられた様に、くっきりと桜色で、鮮やかに浮かび上がる。


 怖いのは覚えていないから。恐怖は、記憶力の裏側にくっついている。


 思い出せないのではない。忘れている気がするだけで、むしろ、忘れていた方がよっぽどいい。


 計りかねる。針小棒大の焦燥。自分への懐疑心。もう一声で、それらと、眠りとともにくるまって。


 朝が来る。


 怖いくらいが、ちょうどいいのだから。


 私が覚えているか覚えていないかなんて、もう私には、わからない。もう一度会ってみて、それで初めてわかる。私が十七だった時のことを、検証することはできないし、それは十年以上前の、記憶の言葉の連鎖としての、仮構の物語にすぎない。現在までの私の人生だ。

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