第9話 目を覚ましたものは
静かな夜の中で、初めての音が鳴った。
それは誰かの気持ちが、そっと重なった音。
響きはひとつ、でもその一音が、すべてのはじまりかもしれない。
その瞬間、部屋の空気がすうっと澄んでいった。何かが、目には見えない透明な波となって部屋を満たしていく。手首の糸がふるりと揺れた。
--音の、気配。
窓辺に、小さな光の粒が集まり始める。それはひとつ、ひとつと結ばれ、形を成していく。
そして、そこに現れたのは、光を纏った透明銀の髪。水面のように煌めく瞳。まるで水晶細工のような羽を背に持ち、半透明の衣がふわりと漂っている。微かな旋律がまとわりつくようにして、精霊はそこに立っていた。
『君の中の、音が、目を覚ましたね』
その声は、言葉というより、音そのものだった。弦が震え、空気の振動、心に沁みる波紋。
「あなたは…音の精霊?」
頷くように、精霊は微笑む。その輪郭ははっきりしているのに、どこか淡く、風の中に溶けそうだった。
『名が欲しい。君が私を呼ぶその声が、私をこの世に定着させる』
リリカは迷いながら、けれど確かな気持ちで言ったを
「…ルエル。それが…あなたの名前。」
ふっと、風が吹いた。窓は閉まっているのに、音だけが流れた。
『受け取ったよ。リリカの『真名』として、私はここに在るんだよ』
その時、オルゴールがもう一度ころん、と、鳴った。
--音の欠けら。これはそのひとつ。
私はひっそりと灯る火のようなその響きを、忘れまいと心に刻んだ。そして、オルゴールを回した。音は二音に増えていた。欠けた曲の断片のようにぽつりぽつりと鳴った。
『音はただ鳴らすだけでは『魔法』にならないよ』そうルエルは言った。
『心が震えるとき、その震えが響きになって、初めて世界に影響を与えるんだよ。『音魔法』とは、リリカの心の中の“共鳴”が力になる魔法なんだ。目を閉じてみてよ』
共鳴。私はその言葉を私はその言葉を、何度も呟いた。心が誰かと繋がるとき。感情が揺れて、言葉を伝えるとき。ルエルと向かい合いながら、私は目を閉じた。
「何も起こらない気がする…」
呟いた瞬間だった。窓の外から草の葉が風に揺れる音がした。鳥が一羽、軒先に降りてきて、控えめにさえずった。
私は耳を澄ました。風の音。木のざわめき。草がそよぎ、虫が羽ばたく。それら全てが、ひとつの“音”を形作っている。
--この世界は、音で出来ている。
私は、指先で光るオルゴールの蓋に触れた。オルゴールを巻いてみた。
「…ころん、シャラン」
音が溶けるように空気に満ちていく。ガラスの風鈴が--ひとりでに揺れた。
「風もないのに…」ミレイユが呟いた。
音が揺れたのだ。“世界を優しく鳴らす力”--それが音の精霊と共鳴した魔法だった。
『共鳴したね』ルエルが優しく微笑む。
『リリカの心が初めて“音”と重なったね。リリカの中には“音”があるんだよ。
これが《音の揺律っていう魔法だよ--リリカの心が、部屋中に響いているんだよ》』
リリカの足元から、波紋のような光が広がる。それに触れた壁の埃がふわりと浮かび、元気が無くなっていた窓辺の花がゆっくりと起き上がるように咲きはじめた。
「これは…音で癒す…?」
『音は、命に寄り添う魔法。戦うためだけじゃない。リリカはその優しさで多くを抱きしめるんだよ』
私は、その光の中に立ち上がりながら、そっと頷いた。
『音は記憶。音は感情。音はあなたの中の内に咲く花--糸に触れ、心に繋いで。音は、響く場所を探している』
ルエルの姿が、音の光の中で淡く揺れる。
『これから、リリカが出会う“音の欠けら”が増えるほどに、旋律は整っていくよ。そしていつか--“調和”が生まれる。そのとき、音は魔法ではなく、世界そのものになるよ』
ルエルの言葉はまるで、遠くの未来の歌のようだった。私は初めて自分が何を持っているのかを、少しだけ知ってきた気がした。
魔法の余韻が消えると、部屋はもとの静けさが戻った。けれど、リリカの中には、まだ音が残っていた。確かに響いた、自分だけの音。
リリカは大切なものとして、オルゴールの鍵を赤い糸に通して、首にかけた。
「音の精霊かぁ。美しかったな。音魔法、使いこなせるようにならないとね。」
「リリカ?」ミレイユが声をかけてきた。
「魔法が…少しだけ、分かった気がするの。音が糸になっている。誰かの感情が、きっと重なってるって…」
ミレイユはリリカの隣に座ると、そっと肩を寄せた。
「それってリリカのことじゃない? 音に敏感なのも、糸に触れて感じるのも…リリカの力だと思う。」
「でも--」リリカは自分の指先を見つめる。
「私の中には、欠けている音がある。音が足りないの。だから探さなきゃ、私がここにいる理由もきっと。」
ミレイユは小さく笑った。
「じゃあ、一緒に探そう。リリカの音の欠けらも、あたしの言葉も…少しずつ、繋げていこう。」
リリカの瞳がわずかに潤み、糸がそっと揺れた。まるで二人の間に、新しい旋律が生まれたかのように--
潤んだ瞳をひと撫でして、気を取り直し、リリカは言った。
「さあ、ミレイユ。着替えないと、もう人間なんだから、寝る時は着替えて。」
ミレイユは、白いシャツに茶色い短パンを履いていた。(クスッ、やっぱり猫みたい。)
リリカもミレイユも部屋着に着替えて、ベッドに入った。二人が寝るのに十分な広さだった。
ミレイユは、猫だったことを忘れまいとするかのように丸まって寝ていた。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
ようやくリリカのオルゴールから、音がこぼれましたね。
その音が誰と繋がって、どんな意味を持つのか……物語が少しずつ動き出します。
感情が魔法になるって、ちょっと素敵じゃないですか?
次回も、静かだけど大きな出会いが待っているかもしれません。どうぞお楽しみに♪




