第5話 風を編む家
少しずつ、この不思議な家の仕組みが明らかになっていきます。
風に導かれたリリカが出会ったのは、“織りの民”を名乗る青年・シュエル。
そして、この家にはまだ多くの秘密が眠っているようです。
「私はシュエル。この土地に生きる“織りの民”のひとり。君のことは、風が知らせてくれた。」
「織りの民って?」
「織りの民は、古代より風と共に生きて、言葉や記憶を『糸』に変えて、織り込むことで伝承を残してきた一族のことなんだ。今は私一人になってしまったけど。
君が来ることも『風』を聞いて風向きの変化と布の様子で分かっていたんだ。」
「…風が?」
「ああ、風は“還るべき者”の香りを運ぶ。君は“この地に再び降りる”と決まっていた人だから。」
リリカはその言葉に目を瞬かせた。
「…それって、どういう…?」
口から、緊張と安堵が混じったような言葉がこぼれた。
「あなたが、あの封筒を?」
「封筒?」
シュエルは静かに笑い、歩み寄ってくる。衣の裾から草の露がこぼれた。
「この世界は『音のない世界』とも言われるけど、本当の名前は“シレンツェア”--私たちの言葉で“重なられた布のように、幾重にも世界がある”という意味。君は、その重なりを超えてここへ来た者。」
「私が…異世界に来たってことですか?」
「言葉にすれば、そうなるだろう。けれど、君がここに来たのは偶然ではない。君自身が、深く願ったことなのだ。」
「願った?」
「“孤独”の中で」
その言葉に花音の胸が痛んだ。誰にも言ったことのない孤独を、なぜかこの人は知っているようだった。
「お茶を淹れて来よう」と言って、シュエルは奥に行った。
シュエルが淹れてくれた『風の葉茶』は、すっと身体に染み込むような優しい味だった。
「ここは君の家。」
「え、じゃあ、私の…。」
「そう、“選ばれた居場所”。」
シュエルの言葉は決して押し付けがましくなかった。ただ「あなたは、いていい」と、そっと告げているだけだった。
あの夕陽が映える部屋以外に居場所が出来るなんて、思ってもみなかった。
「この家は、君を迎える準備をしていた。」
「準備って…誰がしていたんですか?」
「風だよ。そして、君自身。まだ気づいてないだけだけど。」
リリカは小さく眉をひそめた。そんなふうに言われても、何も思い出せない。ただ、ここに来る前の自分が、酷く疲れていたことだけは、確かだった。
シュエルの案内で、玄関とは反対側の裏ドアから外に出て、畑を通り過ぎ、その先にある小さな草屋根の小屋に来た。中には機織り機が置かれ、繊細な糸が張られている。
壁には布の見本がいくつもかけられていて、それぞれ風の色を纏っていた。
「これは、私たちの織り。風の記憶を編み込む布。」
リリカは布に触れてみた。さらさらとした感触。どこか懐かしいような、それでいて胸の奥をくすぐるような揺らぎ。
「君の風も…」
シュエルが言った言葉に、胸がきゅっと痛んだを
いつも学校から帰り、部屋の窓辺に座って、湯気の立つカップを抱えていた花音の耳に、誰かが囁くような声がしていたことを思い出した。
--あなたは、ここで何を恐れているの?
誰もいない部屋でミルクティーの入ったカップを両手で握りしめていた。
--あれは風の声だったの?
思い出さないようにしていた記憶が、少しずつ滲み出てくる。暗い部屋。誰もこちらを見ようとしなかった家族の食卓。笑っているのに、どこか自分の居場所がないと感じたあの日。
声をかけても帰ってこなかった夜。(私なんていない方がいい)そう思っていた自分が確かにいた。
「リリカ」
名前を呼ばれて、現実に引き戻された。シュエルが、そっと何かを差し出す。織りかけの布だった。赤の芯が、やわらかに空へ向かって淡い光を帯びている。
「君の風も、もうここにある。まだ始まりだけれど、君がここにいる証拠だ。君の居場所は、風が知っている。」
リリカは、布を抱えたまま、視線を上げた。この空の下で、私は始まろうとしている。
それがどんな意味を持つのかは、まだ分からない。でも、少なくとも今、だれかと繋がったような気がする。家の中で、風鈴のような音がした。
シュエルが「赤い布」を差し出して来た。
「これが君の風。」
織りの糸の中には、小さな煌めきが走る。
その布は、ハンカチよりやや大きくて、スカーフより小さい位の布だった。絹のようにしっとりとした質感で、光を柔らかに反射する美しい布だった。
「これは“縫い繋がれる記憶”。誰かの想いを繋ぐ布だ。きっと、君には必要になる。君のため織られた物だ。君の手に渡るようにずっと持っていた布だよ。魔力の繊維で編まれている。」
そう言ったシュエルの横顔は、やはり掴みきれない風のようで、でも安心を与えるものだった。
リリカは布を受け取る。(赤い色って、私のトレードカラーだ。なんで分かったんだろう。)
小さな畑には、青葉とまだ背の低い芽も、青々としたいくつもの野菜がなっていた。
リリカは庭に戻った。丘の家の庭に出ると、春の陽差しが庭の草花を明るく照らしていた。リリカは一歩、裸足のままで地に足をつけた。
冷たくも温かい--そんな矛盾した感触に包まれた土。しゃがんで指先で土をすくうと、そこには小さな青い粒が転がっていた。
「…?」
粒だと思ったそれが、不意にくるりと舞った。まるで水の滴りが風に乗ったように。
ふわり、青い光がリリカの指先にまとわりつく、小さな羽、小さな腕、小さな瞳。
『こんにちは、ここは、音の記憶が眠る庭』
声というより、心の奥に直接染み入る響きだった。だが、次の瞬間にはもういなかった。気づけば、ただの水滴が葉に残っているだけを
「見間違い…じゃ、ないよね。」
ぽつりと呟いたリリカの隣で、茶トラの猫、ナナが「ニャ」と鳴いた。
庭には沢山の花が咲いていた。知らない花も沢山あった。春の陽に花が揺れていた。薔薇、ラナンキュラス、ヒヤシンス、水仙、チューリップ、スミレ、パンジー、レンギョウ、木蓮の木や桜の木も。
沢山の種類のハーブも植えられていた。日本で見た花壇にどこか似ていて、けれど少しだけ違っていた。
--ここには、音がないという。でも風がある。
リリカは微笑んだ。風と共に小さな声が、スミレの茂みから聞こえてくるような気がした。
シュエルがやって来て、
「知らない花もあるだろう。」と言った。
「これは、ルミノ花『夜が明ける音を聴いている』」。淡く光る白い花。夜明けの光に共鳴して、花弁が一瞬だけで、透明になるそうだ。
「風咲きクロッカス、『花の中心に精霊が宿ると信じているんだ』、こっちのはルノアの花『失われた音を聴く花』と言われていて、村の年寄り達が、“願いを預ける”対象にしているんだ。」
水仙の花の隙間から、ベージュ色をした小さなものが顔を出した気がした。
シュエルがいくつかの花を手折っていく。「リビングに飾ろうと思ってね。リリカも部屋に飾るといいよ。リリカの部屋は二階の南東の角だよ。好きに使ったらいい。
書斎もリリカのための物だから、調べ物をするといいよりここは『必要なものが揃う』家なんだよ。
シュエルの言葉に甘えて、何本か花を手折った。やっぱり好きな色の赤いチューリップと薔薇を中心に摘んだ。
読んでくださってありがとうございます。
今回は、リリカの「居場所」が少しずつ形になっていくお話でした。
風に導かれた出会い、名前を知る誰か、そして初めて自分のために織られた布。
異世界での第一歩が、彼女にとって「ただ生きていていい」という実感に繋がっていくような回になればと思います。