第49話 静寂の奥に潜む地図
静かな本屋での出会いは、思いがけない手掛かりをもたらす。
名前と名前が交わる瞬間、見えない糸が少しずつ動き始めていた。
リリカはそのまま棚の方へと歩み寄る。ルエルが肩の上に戻り、ミレイユは後ろで、腕を組みながら本棚の背表紙を眺めている。
彼女はしばらくリリカの様子を見ていたが、ふと、何かを思い出すように声をかけた。
「…あなた、名前は?」
「リリカ。…ただのリリカよ。」
彼女の瞳が微かに揺れた。けれど、その揺らぎはすぐに深い水のように静まり返る。
「そう、リリカ…」
それは、どこかの名前だけで記憶のページをめくろうとしているような声音だった。
リリカは、さりげなく問い返す。
「あなたは?」
「ノア。…ここで、本を整理したりしているの。住まいも、ここの上にあるから。」
「本屋に住んでるの…なんだか素敵。」
ノアはほんの少しだけ微笑んだ。けれどその笑みは、どこか奥に消えていくような影を帯びていた。
「…静かな場所が、好きなの。」
その答えが、なぜかリリカの心に引っかかった。音のない都市、静かな本屋。そして、この少女の静けさ。
ノアの案内で、リリカは静かに本棚の前に立った。
棚には、分厚い革表紙の本や、草花を押し花にしたしおりが挟まれた魔法雑記、黄ばんだ羊皮紙のような巻物まで、雑多でありながら整然と並べられていた。
「…こんなにあるんだ。」
リリカは、ゆっくり指先を滑らせながら、一冊、また一冊と背表紙を読んでいく。
『魔法行使の記憶と限界について』、『精霊言語の基礎文法』、『古代術式と魔力の濃度』ーーと、どれも難しそうだが、興味は惹かれるタイトルばかりだった。
フェリラが上の段から顔を出す。
『ねえねえ、これとか面白そうだよ』
「ありがと、でもこれはたぶん…歴史書かな。」
ルエルはほんの端に指をかけ、
『この辺、音の魔法に関係してるかも』
と囁くように言った。
リリカは、二冊、三冊と気になった本を小脇に抱えていく。ノアは少し離れた場所で、静かに様子を見ていた。
やがて、四冊目に選んだ薄手の魔法理論書ーー色褪せた緑色の表紙の本をそっと開いたその時だった。
ぱさり
ページの間から、一枚の紙片が舞い落ちた。
「…?」
拾い上げてみると、それは古びた羊皮紙に描かれた、手書きの地図だった。線はかすれ、色も褪せていたが、ところどころに古い文字と印が残されている。
「…これ、何かの場所の…?」
リリカがそう呟くと、ノアが静かに歩み寄って来た。
「その本…長らく手に取られた形跡がなかったから、きっと誰かが挟んだまま忘れていったのかも。」
「読んでも、いい?」
「もちろん。本も地図もーーもし気に入ったら持って行って。ここはそういう出会いも売っているの。」
(“そういう出会いも売っている”…不思議な本屋。)
彼女は、最初に選んだ魔法解説書の他に、音魔法に関する基礎資料、精霊との共鳴記録を扱った冊子、そしてその地図が挟まっていた魔法理論書ーー合わせて四冊を手に取った。
「この本たち、ください。」
「わかりました」
ノアは帳面を開き、静かに値段を書き出していく。金額は思っていたよりもずっと良心的で、まるで知識そのものを分け与えるための価格のようだった。
支払いを済ませたリリカが荷物をまとめようとすると、ノアがふと口を開いた。
「…もし、その地図に気になる場所があったら、教えて。資料館にそれに似た記憶が残っているかもしれない。」
ノアには、リリカが連れている六人の精霊たちが見えていた。ノアは一部の精霊としか共鳴することは出来なかったが、見ることはできた。六人もの精霊を連れている人なんて、見たことがなかったので、リリカに興味を覚えた。そして、一緒に何か懐かしいものも感じていた。
ルエルと名乗った音の精霊が、静かにノアを見つめ返していた。火の精霊は少し離れて、まるで敵を見るように鋭い目をしていた。光の精霊は優しく瞬き、土の精霊は興味深そうに棚の影を覗いている。風の精霊も水の精霊も、リリカの周囲を守るようにそっと漂っていた。
(この子は、精霊たちに“選ばれている”)
「資料館…って、どこの?」
リリカの問いに、ノアは我に返った。
「“エコリスの音楽堂”って聞いたことある?昔、王立楽団が演奏していた場所。今は音楽資料館になっていて、私はそこで文書整理をしているの。地図や古い旋律の記録もあるし。…運が良ければ、何か見つかるかもしれない。」
リリカの目がわずかに見開かれる。
「…そこ、行ってみたい。私にも見せてもらえる?」
「資料室は関係者しか入れないけど…、私が一緒なら、大丈夫。明日の午前中に案内できる。」
「ありがとう、ノア」
「…いいの。私も…なんとなく、気になるから。」
音のない世界で、音を纏った誰かに出会ったーーそんな予感が、ノアの胸に静かに息づいていた。
西の空に、淡い茜色が滲み始めていた。リフレナの転移の風が抜けて、リリカは丘の家の玄関に降り立った。
「ただいま」
扉を開けると、ほのかに草の香りが漂って来た。初夏の風が家の中を通り抜け、カーテンを揺らしている。薪ストーブがない気節、家はすっかり夏の空気に包まれていた。
「おかえり」
シュエルの声が、奥から穏やかに届いた。
リビングでは、窓が大きく開け放たれ、シュエルがテーブルの上で糸巻きと針を手にしていた。淡い布の端に、刺繍のような模様が浮かび上がっている。
リリカは荷物を椅子のそばに置いて、シュエルの向かいに腰を下ろした。
「今日ね、シュエルが言っていた、ソノリスの本屋に行って来たの。静かな通りの、古い建物。すごい落ち着いた雰囲気だった。」
「うん、君が好きそうな場所だ。」
「うん、それでね、その本屋の上に住んでいる子がいて。名前はノアっていうの。静かで、でも優しい人だった。精霊の本を探してたら、たまたま地図の挟まった本を見つけて…それをノアが見て、少し気にしてたみたい。」
シュエルは手を止め、静かにリリカを見つめた。
「ノア、か…。それは君と同じ、外から来た子だった?」
リリカは首を横に振った。
「分からない。カイの他にも、こちらに来ている人がいるってこと?でも…話していて、どこか懐かしい感じがした。もしかしたら…そういうこともあるかもしれないのね?」
風が、テーブルの上の布端をそっと揺らした。
「それで、もう一つ。ノアは“エコリスの音楽堂”って場所に出入りできるんだって。今は資料館になっているらしくて、明日、案内してくれることになったの。」
シュエルの目がわずかに細くなる。
「エコリス…王立楽団の名残だね。音を愛した者たちの最後の場所。」
夕暮れの空が薄紫に染まる頃、丘の家のキッチンでは、リリカが「そろそろ出来る頃ね」と言うと、鍋の火がちょうどいい加減で落ち、パンがふっくらと焼き上がる。丘の家のキッチンは、かつてこの家にいた誰かの“音”を覚えていて、今もその記憶で料理してくれるのだった。
「便利過ぎて、私の出番がないわね。」
とミレイユがソファから伸びをしながら立ち上がった。
「でも、盛り付けだけは、ちゃんとやるのよ。」
と、リリカが言うと、ミレイユはおどけたように
「はいはい」
と答える。
ダイニングテーブルには、精霊たちが自然と集まり始めていた。
「ねぇ、ノアってどう思った?」
とリリカが問いかけると、椅子の背にとまっていたフェリラがふわっと舞って答えた。
『あの子、風と静かに話ししていたよ』
『ノア、静かなひと、だったの。ボク、声はきかなかったけど、あたたかかった…』
ティリムはスープの湯気に鼻を近づけながら、呟いた。
アクエラは水の杯を揺らして言った。
『あの人、水音がよく通るの。…悲しみを静かに抱えている。けど、凍らせてはいない』
『…ノア…、優しい人』
ルエルがピアノの上からそっと言った。
『ぼく、ほんの少しだけ、音を聞いてもらえた気がしたんだ。あの子、精霊が見えているよ』
リリカは驚きに目を見開いた。
「なんで、黙っていたの?」
『だって、君に先に、気づいてもらいたかったからさ』
とルエルが悪戯っぽく笑う。
ミレイユはほんの一瞬、声を潜める。
「言葉にしない音を持っている子だった。あの子、たぶん特別。」
そこへエファリアがテーブルの上のナプキンを整えながら、近づいて来た。
『みんな落ち着いて。ほら、ちゃんと並べるなの。…それにノアという子のことは、私、まだ知らないなの』
『君が会ってたら、きっと縫い物の針まで貸してそうだしね』
とフェリラがくすくす笑う。
その様子をシュエルは肘掛けに肘をついて、静かに見ていた。
「それで、その子が何か鍵を持っていると?」
「まだ分からないの。ミレイユが言うには、あの子…言葉にしない“音”を持っているらしいの。」
リリカは静かに手首の赤い糸を見つめた。今日はあの子の前で何度もわずかに震えた。それが共鳴なのかどうかは、まだ分からない。ただーー音のない世界で“誰かの音”を聞いた気がしていた。
やがて、テーブルにはスープとパン、サラダと果実酒が並び、精霊たちはそれぞれの席へと落ち着いた。
何気ない一枚の地図が、明日への道を描き出す。
その静けさの中に潜む音が、どこへ導くのかはまだ誰も知らない。
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