第40話 命を繋ぐ音
音の欠片を追う旅のなか、森にひそむ影が姿を現す。
試されるのは、仲間を想う気持ちと、ひとつの願い。
小さな叫びが、静かに音を呼び覚ます。
遺跡の広場に重く低い咆哮が響いた。その音は、空気ごと沈めるような圧を帯びていた。木々がざわめき、森に潜んでいた何かが、目を覚ましたかのように気配を強めていく。
「…来る。」
カイは剣の柄に手を添えた。気配は、北の杜の奥--遺跡に繋がる斜面の下からだ。
風が止まり、鳥の鳴き声が消えた。ほんの一瞬、全ての音が凍りついたように静まり返る。
そして、次の瞬間--光を引き裂くように、巨大な影が姿を現した。
それは黒鉄のような鱗に覆われた熊のような獣だった。全身が煤けた煙をまとい。背には枝角のような棘が生えている。足元からは闇の瘴気が滲み、瞳は光を吸い込むように深く、光らない。
魔獣
『幻獣系…!!昔の神殿に棲みついていた、そういうタイプですの!』
アクエラが即座に魔力の流れを読み取り、警告する。
『闇と幻覚の属性…こいつ、視界を歪めるぞ!』
フレオンが叫ぶと同時に、グライモルの口から黒煙が噴き出した。周囲の空気が歪み、木々の影がぐにゃりと揺らぐ。
「リリカ!目を逸らすなよ!」
カイが叫ぶ。だが次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。
--何が本物で、何が幻か。
リリカの足元が崩れ、森が上下逆さまに見える。
『幻覚だ!リリカ、意識をはっきり!』
フェリラが横から風の渦を巻き起こし、空気を一気に吹き飛ばす。
その風が幻を散らす一方で、グライモルが巨体を地に這わせて、突進して来た。
「あぶな…っ」
リリカがとっさに後退しようとした、その瞬間だった。
--カイが飛び出し、彼女の前に立ちはだかる。
「リリカ、ふせろ!」
グライモルの爪が振り下ろされる。鈍い音、肉を裂く感触。返り血が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
「カイ…っ」
リリカが顔を上げたとき、カイは肩を押さえながら地面に片膝をついていた。
彼の肩口から、鮮血がじわりと滲んでいる。鱗の裂け目に潜む爪が、彼の肩を深く抉っていたのだ。
声が震える。胸が締め付けられる。手の中の空気が震え、ポケットのオルゴールがふるりと小さく反応する。
「…フェリラ、フレオン、アクエラ、ティリム!お願い、助けて!」
リリカの叫びと同時に、精霊たちが一斉に前に出た。
『風刃展開!行くよリリカ!』
『水の矢、連打しますわ!』
『俺の火で目眩しを仕掛ける!』
『ボクは、回避の土壁をつくるね!』
四体の精霊が魔力を放ち、連携攻撃が展開される。風が切り裂き、水が貫き、火が煙を裂いて、眩惑を誘う。
その隙を縫って、カイが立ち上がる。左腕を垂らして、右手だけで剣を構える。
「仕留める…!」
カイは剣に炎を纏わせる。剣が軌道を描き、グライモルの喉元へと迫る。炎の残光が刀身に絡み、フレオンの最後の一撃が後押しする。
--金属が鳴るような音と共に、グライモルの体が大きく揺れた。
呻くような咆哮を最後に、魔獣は倒れ込んだ。黒い煙が残響のように周囲を覆い、やがて風にさらわれていく。
リリカは地面を蹴って、カイの元に駆け寄った。
「カイ…!」
彼は片膝をついたまま、肩を押さえている。剣を振り抜いた反動で、傷がより深くなり、裂けた肩口から、血が噴き出していた。顔色は悪く、目の焦点も少しだけ遠い。
「お願い…お願い…いや…」
リリカは震える手でカイの首に触れた。言葉にならない声が、喉の奥で詰まっていく。
怖い。傷が深い。怖い。死んじゃったらどうしよう。
怖い、いやだ、治したい、助けたい--
『消毒ならわたしもできるのですけれど』
『止血なら俺も出来るけど、深いぞ、これは』
「どうにか出来ないの!助けて!」
その時だった。
空気が変わった。
風が止まり、世界が一瞬だけ静止したような感覚の中、リリカの手首の赤い糸がびくんと強く震えた。
次の瞬間、遺跡の空に--光が差し込んだ。
それは太陽ではなかった。
夕暮れのそれでも、焚き火でもない、もっと柔らかく、もっと静かで、けれど強くあたたかい--
金色の光の粒が空から降りてくる。
それは人の形を成し、やがて一人の小さな少女の姿になった。
『…その祈り、わたくしに名を』
透明な声が響く。
彼女の髪は肩で揺れ、光の糸束のように透き通っている。
瞳は白金。鏡のように澄んでいて、まっすぐにリリカだけを見つめていた。花弁のような衣がゆっくりと揺れ、背には六枚の光の羽が浮かんでいる。それは、蝶のようでも天使のようでもなく、まるで夜の帳をやさしく裂いて、光を編んで作られたような羽だった。
その存在が、そっと問いかける。
『…あなたが願った。癒しを、光を。わたくしはその呼びかけに応えて、ここに参りましたわ。』
リリカの目から、ひとすじ、涙が溢れる。声が自然に溢れてくる。まるではじめから、知っていた名前のように。
「…ルミア…あなたの名前は…ルミア…!」
光の羽が一斉に広がる。その瞬間、リリカのポケットの中でオルゴールがふるりと震え、赤い糸が揺れた。
共鳴だった。光の精霊と、リリカの心が、音で繋がった。
「お願い…カイを助けて。」
リリカが手を伸ばすと、ルミアが静かに頷いた。
『あなたの願いが、光となるわ。癒しとは、赦し。あなたの手は、誰かを救うためにあるわ。』
ルミアの掌がリリカの両手を包み込む。
すると、金色の光が、ふわりとリリカの体を巡り、そのままカイの傷口へとゆっくりと流れ込んでいった。
痛みが熱に変わり、熱がやさしさに変わって、裂けた皮膚がゆっくりと結ばれていく。
ミレイユが小さく息を呑んだ。
「…癒えてる…ちゃんと…!」
リリカの指先に、光の余韻が残っていた。カイは息をつくように目を開けた。
「…助かった。リリカ…」
ルミアは、最後にもう一度、優しく語りかけた。
『わたくしは、あなたの光…癒しの旋律は、命を繋ぐ調べですのよ--リリカ様。これからも、あなたの祈りに応えるわ。--わたくしの名を呼ぶ限り』
そう言って、彼女の身体は小さな金の光に還っていった。リリカの肩に一粒、淡く宿るその光は、彼女の新たな力の証だった。
リリカは、膝をついたまま、金糸の余韻がまだ消えない手のひらを見つめていた。ルミアの最後の言葉が、耳の奥に優しく残っている。
『わたくしは、あなたの光…癒しの旋律は、命を繋ぐ調べですのよ--リリカ様』
カイの傷はもう塞がっていた。微かに息を吐いて、彼は自分の肩に、そっと触れたまま目を閉じていた。
読んでくださって、ありがとうございました。
仲間を守りたいと願う声が、新たな光を呼びました。
次の旅も、どうか共に歩んでください。
「俺はまだ、生きてる。…お前のおかげだ、リリカ。」




