第33話 幸せの音
春の朝。
静けさの中に広がる、新しい気配とやさしい時間。
朝の日差しが、丘の家のカーテンの隙間から差し込み、リビングをやさしく照らしていた。ピアノのそばでは、白い犬--フィンがすやすやと寝息を立てていた。
その静けさを破ったのは、階段を駆け下りてきた足音だった。
「んー…ふぁあぁ…リリカ、おはよう。あたし、すっごく…」
ミレイユがぼさぼさのポニーテールを揺らしながらリビングに現れた。まだ寝ぼけて眼のまま、大きなあくびをひとつ。
--その直後だった。
「…え?」
目の前に広がる、でっかくて、もふもふしていて、堂々と寝そべる“白いなにか”。ミレイユの動きがぴたりと止まり、目がぱっちりと覚めた。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと!なんで家に!!なんで犬が!!」
「おはよう、ミレイユ。この子、昨日ピアノを弾いてたら来たの。フィンって名付けたの。」
「フィンって!名前の問題じゃないってば!ピアノを弾いてて?召喚したの?このサイズ⁈絶対あたしよりでかい!!あたしだけ、知らないって訳?」
そう言いながら、ミレイユはソファの後ろにぴょいと隠れた。尻尾のようなポニーテールが、ぴょこぴょこと覗いている。
その気配に気づいたのか、フィンはのっそり顔を上げ、くるんと尻尾を一度だけ揺らす。まるで「…ああ、君か」というような穏やかな反応。
しかし、ミレイユはそれを「警告」と受け取ったらしい。
「ううっ…威嚇してる…絶対してたよ、今!尻尾が脅してきた!リリカ、あたしやっぱり猫なんだってば!犬は…!」
「フィンは優しい子よ。リビングにちゃんと馴染んでるし、朝までおとなしく寝てたの。」
「おとなしく寝てたって…それ、百獣の王タイプの寝方じゃない⁈お腹見せて寝てないの⁈」
フィンは、そんな騒ぎもどこ吹く風で、のそのそと立ち上がり、ゆっくりとミレイユの方へ一歩、また一歩…。
「ちょっ…ちょ、来ないで⁈あたし、今は野生に戻れないから!」
最後はソファの上にひらりと飛び乗り、尻尾のような髪を逆立てたまま、「威嚇」のポーズ。
--がおー。
リリカは、笑いをこらえきれず、くすくすと笑った。
「ミレイユ…かわいい」
「かわいくないっ!真剣なの!命懸けの防御だからね、これ!」
「でも、フィン、もうお座りしてるよ?」
見るとフィンは静かにその場に腰を下ろし、前足を揃えて待っている。金色の目は、どこかやさしくて、「また吠えるかな?」と面白がっているような、知性すら感じさせる。
「う…うぅぅ…ずるい、そういう顔…なによ、ちょっとだけ可愛いじゃん…っ」
ミレイユは最後まで抵抗するフリをしていたけれど、尻尾のように揺れるポニーテールがゆっくりと静まっていた。
朝の光が少しずつ高くなって来た頃、リリカはフィンと共に丘の庭をゆっくり歩いていた。白い犬の歩調は大きいが、リリカに合わせるように、静かに歩を進める。尻尾がゆったりと揺れて、足音はまるで風が草を撫でるようにやさしい。
家の裏手にある、古いリンゴの木のそばに来た時、フィンはすっと立ち止まり、木の根元に鼻を近づけた。それ以上は行かない。
「これは、いったいどういうことなんだろう?」
リリカが呟いたそのとき、背後からふわりと風が吹き、軽い足音と共に、シュエルの声が聞こえた。
「フィンは賢いね。ちゃんと“張られている音”を感じている。」
振り向くと、いつの間にかシュエルが近くに立っていた。朝の光を浴びて、どこか少し儚げな笑みを浮かべている。
「シュエル、これはどういうこと?」
「結界がある。私が張ったからね。」
「え?結界?シュエルが?」
「うん。正確には、君が来る少し前…。“誰かが戻って来られるように”音の反響を保った結界をね。」
「音の…反響?」
「この家には“音が還る”性質がある。だから、精霊も、人も、そしてきっと君も、ここに来た。でもそれを維持するには、外の静寂と混ざり合わないように、境界を“音で編む”必要があったんだ。」
シュエルはそう言いながら、足元の草をひとつ摘み取った。その草を指でこすり合わせると、微かに…とおん…という音が鳴った。
「これは結界の“音の縁”誰かがこの音に触れて侵入しようとすれば、音が揺らぎ、内側の者に知らせが届く。」
「…フィンも、それを感じているのね。」
「ああ、彼は結界に逆らわない。というより…“自分の居場所”を知っているんだろうね。ここにいることに意味があるって、ちゃんと分かっている顔をしている。」
リリカはフィンの頭を撫でた。フィンは静かに目を細め、リリカの足元にペタリと伏せた。
「じゃあ…、結界の範囲なら、散歩できるんだね。」
「もちろん。庭の裏手、北の畑、小道の途中のベンチまでは結界の内側だよ。音を閉じ込めず、でも“失われない”ように設計したある。…君のために。」
リリカは少しだけ目を見開き、それから静かに笑った。
「ありがとう、シュエル。」
「どういたしまして。…でも、本当は君自身が“音の結界”そのものみたいなものだけどね。」
そう言って、いつものように肩をすくめ、飄々と去っていった。
フィンは再び立ち上がり、ゆったりと庭の奥へと歩いていく。リリカもそれに着いていきながら、足元に生えた花々の中に、昨日の飾りの名残りを見つけた。
「ねぇ、フィン。今日はベンチまで、行ってみようか。」
フィンはそれに応えるように、尻尾を一度、ふわりと揺らした。
「こうして歩くのを日課にしようね、フィン。」独り言のように呟くと、ファンはまるで聞いていたかのように一度だけ振り返り、静かに目を細めた。
リリカの胸の奥に、ふわりとあたたかいものが広がる。不思議だった。ピアノの音と共に現れた犬のフィン。もう日常の中に溶け込んでいる。
「ねぇ、フィン。…こういうのって、幸せって言うんだよね。」
フィンは答えず、けれど代わりに尻尾を柔らかく一度、ふわんと揺らした。
その動きに合わせて、どこかで鳥が一声鳴いた。リリカは小さく笑い、もう一度だけフィンに寄り添った。
朝露がきらきらと光りながら、ふたりの足音をそっと包んでいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
騒がしさも静けさも、どちらも大切な朝。
またひとつ、心がほどけるような瞬間が描けていたら嬉しいです




