第31話 音の鍵
春の祭り「花渡り」の午後、リリカの声は、音を拒絶してきた少年・ポルリの胸に届く。
それは共鳴ではなかったけれど、確かにひとつの“音のはじまり”だった。
森の奥、誰も足を踏み入れない小さな岩場の上に、ポルリはひとり座っていた。
眼下には、村の川の一部が曲がりくねって流れていた。ちょうど、祭りで流された花飾りたちがゆっくりと通り過ぎるのが見える場所だった。そこはかつて誰かが造った簡素な見張り台のような石積みが残っていた。
ポルリはその縁に腰をかけ、膝を抱えながら、風の音を“聞かないように”していた。耳を塞いではいない。けれど、心の奥でいつからか、何かが閉じられているのだ。
--音なんか、いらない。
そう思い込もうとしていた。
誰にも見つからず、誰にも呼ばれず、ただ名前すら風に流れていくように、ここにいる。なのに--今日は違った。
「…リリカ。」
彼女が自分の名前を呼んだ時、身体のどこかが震えた。手じゃない、胸でもない。けれど、確かに“何か”が応えた。
あれは共鳴じゃない。ただの記憶の反響だ--そう思いたかった。
それなのに、今。
川の水音の中に、ふいと異質な気配が混じった。
--シャラン。
…音の、ようだった。けれど、耳に聞こえた訳じゃない。
ポルリは反射的に立ち上がる。目を凝らすとら、流れてくる無数の花船の中に、ひとつだけ、白と薄紫の小舟があった。ポルリは知らなかったが、あの日、村の飾り作りで彼女が使っていた、あの布。
--まさか。
ポルリは川岸に下りていく。
水に手を伸ばせば、花船が指先に触れる。ポルリは花船をそっと拾い上げる。そこには何も書かれていない。ただ、布の結び目が、ほどけないように、優しく強く結ばれていた。
--届いたのか。
名前を呼ばれたことも、このての中にある音も。
彼は花船を胸元に抱いたまま、静かに空を見上げた。
雲がゆっくりと流れて行く。
音のない世界に、ほんのわずかに、亀裂が入った。
森の川辺から離れて、ポルリはいつもの隠れ場所に戻って来た。
廃屋になった石造りの小屋。屋根は半分崩れ、苔が壁を覆っている。誰も来ない、だから誰にも見つからない。
けれど今日は、胸に“音”がある。
拾った花船の布は、まだ濡れていて、リリカの指の形が残っているような気がした。それを温かな石の上にそっと置き、ポルリは壁にもたれて目を閉じる。
「…封じたはずだったんだ。」
そう呟いても、誰も答えない。けれど、こたえなくていい。
彼は思い返す。
小さい頃、誰かが子守唄を歌ってくれた記憶。けれどその声は、もう音ではなく、ただの光の粒のようにしか思い出せない。
声が消えて行ったのは、いつからだろう。
そして今、なぜ音が届いたのか。
彼は片耳にだけつけた耳飾りを触った。
「…もしかしたわ“音の鍵”ってのは…」
口に出したところ、言葉は途切れた、言葉にするには、まだ早過ぎる。でも気づいてしまった。音は、消えたんじゃない。閉じ込めたのだ。自分で。
リリカの声が、それらを揺らした。
花船が、それを溶かした。
--ならば、自分で確かめるしかない。
ポルリは立ち上がった。廃屋の奥にしまっていた、古い旅装束のようなコートを手に取る。そして、包め隠すようにリリカの花飾りと荷物を布に包み、胸に抱えた。
「音の鍵を…探す」
小さく呟いたその声は、風に流れて行った。誰にも聞かれない。けれど、それでいい。
自分の音は、自分で探す。
封じられたものを、もう一度、自分の手で響かせるために。
ポルリは森の奥へと歩き出した。リリカのいる方向とは、逆の道を。
けれど、遠回りしても、いつかまた--きっと。
祭りが終わる頃、夕暮れが空を淡い茜色に染めていた。
花飾りを流した川は、静かにその色を映しながら、村の外れへと細く細く続いていた。音はないはずのこの祭り。でもリリカの心には、静かな音が残っていた。
『…リリカ、帰ろうか』
肩に乗ったルエルが、ふっと声をかけてくれた。アクエラやフェリラ、エファリアたちも静かに頷いていた。
「今日は…すごく、いい日だったわ。」
リリカはそう言って、川に背を向けた。そして、花を見送る子供たちや村の人々に軽く手を振ってから、ひとり丘の方へと歩き出す。少し遅れて、精霊たちが風や水に乗るようについて来た。
『ねぇ、リリカ』
フェリラが声をひそめる。
『さっき、赤い糸が揺れたのは、あれ…やっぱり、ポルリだったんじゃない?』
リリカは歩を止めた。そして、ゆっくりと頷いた。
「うん。きっと、届いたんだと思う。あの花飾り…ちゃんと、彼のところに。」
『共鳴じゃなかったけど、やっぱり赤い糸は震えたんだよね』
ルエルが思い出すように言う。
「ええ。だから…あれは、“はじまりの音”だったんだと思うの。彼が、もう一度、自分の音を探そうとする…その、はじまり。」
精霊たちはしばらく黙っていた。
やがて、アクエラは小さく呟いた。
『鍵を、探しているのですね。彼自身の“音の鍵”を』
「うん…彼は“鍵を持っていない”っめ言っていた。でも、それは…まだ見つけてないだけなの。」
リリカの手首には、あの日シュエルから受け取った赤い糸が、ほんの少し光を宿していた。
「きっと、また会えるよ。今度は…共鳴するために。」
風が吹いた。リリカの白い髪がふわりと揺れ、頬を撫でて行く。振り返っても、ポルリの姿があるわけではないけれど、何かが確かに“遠くで動き始めた“ことは、胸の奥で分かっていた。
--音なない世界の中で、ひとつ音が生まれた。
それは誰にも聞こえないかもしれないけれど、間違いなく、届いた。
リリカは丘の家を目指して、もう一度歩き出した。
夕陽が遠くに沈んでいく。その光に染まる赤い屋根が、少しだけ近くに見えた気がした。
誰にも届かないと思っていた声が、たしかに誰かに触れる瞬間があります。
読んでくださって、ありがとうございました。




