第30話 欠けた音に触れる日
春の祭り「花渡り」を前に、リリカは森で不思議な少年と出会う。
名前を呼ばれることに怯え、音の外側に立つその少年の言葉は、彼女の胸に残ることになる。
--そこは、村の喧騒がまるで届かない、しん…とした空気の中だった、木々の間に風がすり抜け、小鳥の声すら遠ざかっている。
ふと、誰かの気配を感じて立ち止まった。視線の先、木漏れ日の中に、ひとりの少年がいた。
ボロのフード付きの上着を羽織り、土で汚れた靴を履いている。年齢は十四、五歳に見えた。髪は灰がかった茶色で、目元はどこか獣のように鋭い。
少年はリリカに気づいても、逃げるでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。
風が枝を揺らし、少年のフードがわずかにめくれる。そこに見えたのは、獣のような耳--
その耳には片方だけ耳飾りが見えた。
「…あなた、名前は?」
リリカは静かに問いかけると、少年は少しだけ唇を動かした。
「…ポルリ。…別にここにいて悪いわけじゃないだろ。」
その声音には、少し棘があった。でも、それは怒りではなく、ずっと誰にも名前を呼ばれれなかったような、寂しさの形をしていた。
「ううん、怒ってないよ。ポルリ。私はリリカというの。」
リリカがその名を呼ぶと、ポルリは一瞬だけ目を見開き、それからふっと視線をそらした。
「…変な奴。」
そう言ったきり、ポルリはもう何も言わず、視線を森の奥へと戻していた。リリカはその横顔をしばらく黙って見つめていた。彼の周囲だけ、季節の色が少しだけ滲んで見える。孤独が、時間の皮膚に影を落としているようだった。
「ここ、よく来るの?」
ポルリは眉をひそめることなく、ただ静かに首を横に振った。
「…たまたまだ。今日だけ。昨日も明日も、ここにはいない。」
「それじゃあ…今日、ポルリにここで会ったのも、偶然?」
その問いかけに、ポルリはわずかに唇の端を吊り上げた。それは笑いというより、自己を嘲っているようだった。
「…あんた、名前なんて簡単に呼ぶんだな。」
「うん。だって、教えてくれたから。」
「名前ってのは、呼ばれるたびに消えるんだ。残るのは、呼ばれた記憶だけ。」
リリカは、その言葉に一瞬言葉を失った。けれど、胸の奥で何が共鳴したように感じた。
「…でも、呼ばれなかったなら、その記憶さえなくなっちゃう。だから私は呼ぶよ。ポルリって。」
その声を受け取るように、風が葉を揺らした。ポルリは、まるで何かを確かめるようにリリカを見つめ返した。その瞳の奥に、言葉にできないような迷いが見えた。
「…あんた、なんでこんな森に来た?」
「お祭りの準備を手伝っていて…少し、ひとりになりたかったの。風の音が聞きたくて。」
「風か…音か…」
ポルリはぽつりと繰り返した。手元の石を拾い上げて、地面にひとつ、ことりと落とすを
「…オレは、音が聞こえない。ずっと前から。多分、聞こえちゃいけないんだ。」
「それは…」
問いかけようとした瞬間だった。
--さらさらっ
森の風が、ざわめきとは違う形で葉を鳴らした。フェリラの気配だった。
ついで、りーん、と水のような揺らぎ。アクエラ。
そして、ことん、ぽふっ、ころん…と小さな音が順に近づいてくる、
リリカは振り返らなくても、それは誰か分かった。精霊たちが、自分を探しにやって来たのだ。
ポルリも気配を感じたのか、一歩だけ後ずさった。その動きに、リリカは胸がざわついた。
「…逃げているの?」
その問いに、ポルリは答えず、しばし目を伏せた。そしてまっすぐにリリカを見て、低く、短く告げた。
「見つかる前に行く。…オレは、まだ“鍵”を持っていない。」
「鍵…?」
「…会えてよかったよ。リリカ。」
名前を呼ばれたとき、リリカの手首の赤い糸がふるりと震えた。けれど、音はしなかった。共鳴していない。それでも、その言葉は、確実にリリカの心に届いていた。
次の瞬間、ポルリはくるりと背を向け、森の奥へと足早に消えて行った。風が彼の後ろ姿をかき消すように舞い上がり、気づけばその姿は、もう木々の合間に見えなかった。
「…ポルリ…」リリカがその名をもう一度呼んだとき、肩にふわりと重みが乗った。
『リリカ、だいじょぶ?』
ルエルだった。続いて、フェリラが
『見たことない人だったよね』
とひそひそ声でつぶやき、アクエラが静かに頷いた。
「…彼、音を…なくしているわ。けれど、どこかで、音を抱えている。そんな気配がいたします』
リリカは、胸にざわつきを抱きながら、そっと目を閉じた。
--ポルリが言った「鍵」とは、いったい何なのだろう。そして、なぜ彼は名前を呼ばれることに、あんなにも怯えたようだったのだろう。
森の奥から風が戻り、リリカの髪を優しく撫でた。まるでポルリが最後に触れた空気が、まだ残っているようだった。
風が戻った後の森には、少しの静寂と、見えないものの余韻が残っていた。
リリカはポルリの去った方向をじっと見つめたまま、言葉を失ってるいた。
その時、フェリラが立ち止まり、風の中に何かを感じたように目を細めた。
『今の風、ちょっと変だった』
『変…ですの?』
アクエラが静かに問い返す。
『うん、いつもは流れてるのに、さっきのは逆らってた。まるで風の向きを無理やり変えてたみたいな…誰かが、何かを隠してる感じ』
『“何か”じゃないよ。“誰か”だ』
ルエルが小さく呟く。
『あの人、ぼくたちのことが…見えてたと思う』
『ふぇぇ?見えたのに無視されちゃったの?ちょっとショック〜』
ティリムがきょとんとした声をあげた。
『違うのよ』
アクエラがティリムの頭をそっと撫でる。
『あの方、私たちの“音”に…耳を塞いでいるようでしたわ』
『封じてるのかもしれないね。自分の中の音を』
エファリアがぽつりと口を開いた。
『…音って、響いてしまうものなのに』
みんなの言葉がふわりふわりと漂うなか、リリカは赤い糸が震えた瞬間の感覚を思い出していた。あれは、確かに“共鳴”ではなかった。でも、彼の言葉は胸に残っている。「名前を呼ばれるたびに消える」「鍵を持っていない」…その言葉のひとつひとつが、心に重なっていく。
『リリカさま』
最後に静かに呼びかけたのは、アクエラだった。
『たぶん、あの方…“音の外側”にいるのですわ。…音の中にも外にも属さない…だから、私たちの声が届かない』
『でも、リリカの声は届いた』
ルエルがまっすぐにリリカを見る。
『きっと、あの人は“欠けている音”に触れたんだよ』
「欠けている音…」
リリカは小さく繰り返した。
『うん、まだ眠ってるいるか、どっちか。でもちゃんとあるよ。あの人の中に』
リリカはそっと胸に手を当てた。音ではなく、感触でもなく、ただ名前を呼び合ったときの“重み”がまだそこにあるように感じられた。
--彼は、音のない世界を歩いている
--でも、その足音は、確かに、リリカに届いていた。
春の朝は、霧がやわらかく村を包んでいた。丘の家の窓から見える森も、畑も、まだ静かに呼吸をしているようだった。けれど、空気にはどこか浮き立つような期待が混じっていた。
「今日は…お祭りだね。」
リリカがそっとつぶやくと、ルエルが『うん』と頷き、フェリラが『そろそろ行こうよ〜』と飛び跳ねた。精霊たちは昨日からそわそわはしていた。朝ごはんを食べる間もどこか落ち着かなかった。
リリカは籠に、昨夜のうちに作っておいた花飾りをそっと入れた。白い花に薄紫の布を結んだ、小さな花の船--それは、村人たちが川に流す“花渡し”のための大切な贈り物。
フィラノ村の広場では、朝から静かに彩られていた。音楽も太鼓もない。けれど、花々の色が、布に揺れて、人々の笑みが、まるで音を奏でているようだった。
「リリカちゃん、来てくれて嬉しいよ。」
パン屋のおかみさんが声をかけてくれた。隣には子供たちがいて、それぞれの花の船を抱えている。
「音は鳴らないけれど、耳を澄ませば、心の中に鳴るんだって。おばあちゃんが言ってたの。」
子供がそう言って笑った時、リリカの心に、かすかな旋律がよぎった。
--シャラン。ミレイユの共鳴音が、ふいに思い出された。
『リリカさま、こちらですわ』
アクエラがそっと手招きする。小川に沿って、飾りのついた細い橋がかけられていた。橋の下を流れる水の上には、すでにいくつもの花船が、静かに流れて行く。
村の人は皆、言葉を交わさないまま、静かに、祈るような仕草でそれぞれの花を水面へと預けていた。
リリカもまた、足元でそっと籠を抱きしめるようにしながら、花飾りを手に取った。
--ポルリにも、届きますように。
そう願って、手を離す。
花の船はゆっくりと水面に浮かび、やがて他の船たちと一緒に流れていった。白、薄紫、桃色、草色--たくさんの色が静かに川に流れに乗って、ひとつの景色を織り上げていく。
春の祭り「花渡り」は、静かに続いていく。言葉はない。でも、音のないこと祭りには、確かに“心の音”が満ちていた。
そして、まだ見ぬ誰かの欠けた音にも、きっと、そっと触れている。
言葉も音もなくとも、想いは届く。
読んでくださって、ありがとうございました。




