第22話 揺らぐ記憶
夜の火が静かに消えていくころ、人の心の奥に灯るものがある。
焼き芋の甘さのあとに、風のようにすれ違う旋律と記憶。
名前が呼ばれたその瞬間、閉じられていた何かが、そっと開かれようとしていた。
「夜も更けてきたな。」
焚き火の火がだいぶ小さくなり、風が少し冷たくなった頃、カイがぽつりと呟いた。
「そろそろ、戻ろうかと思ったが…。」
そう言いかけて、彼は空を見上げる。雲ひとつない夜空には星が瞬いているが、この丘の道も、近くの村も街灯ひとつない闇だ。
「この時間に帰るのはやめた方がいい。」
シュエルが静かに言った。
「街へ降りる道は暗いし、馬にも休息が必要だろう。」
「ああ、そうだな。」
「良ければ、泊まって行って、空いてる部屋が三部屋あるの。」
リリカが小さく笑って言った。
「三部屋…?」
カイが少し驚いたように尋ねると、リリカは頷いた。
「うん、どれも掃除してあるから、どこでも好きなところを使って。」
「清潔な部屋が三つ、か。
カイは微笑みを浮かべてから、ふと視線をリリカへと向ける。
「まるで、最初から誰かを迎える準備がされてるみたいだな。」
リリカはドキリとした。けれど、すぐに笑って返す。
「…お客さんが来るかもって、なんとなく思っていたのかもしれない。」
焚き火がすっかり小さくなって、薪が静かに赤く燃えているだけになった頃。ミレイユが満足そうにあくびをしながら「もう寝る!」と言って、さっさと家の中に入って行った。シュエルも続いて戻っていく。
薪の山は小さくなり、橙の光がまわりの空をほんのり照らしている。焚き火のそばには、カイとリリカだけが残っていた。
夜の空気はしんと澄んでいて、風が草をすべる音だけが聞こえる。
リリカは、まだ少し火にあたっていた。手のひらをかざしながら、ゆっくりと目を閉じる。
ぽつん、と--
唇が、ひとつの旋律を紡ぎ始めた。
それは、言葉ではなく、短いメロディ。とても簡単で、だけど不思議と胸を揺らすような、静かな旋律だった。
どこか懐かしいような、優しいような。西の空の色を思い出させる、そんな音だった。
「…その歌…」
カイが息をのむようにして声を出した。」
「えっ…?」リリカは目を開き、カイを見る。
「今の…どこで、覚えた?」
「ううん…私、なんとなく、子供の頃からよく口ずさんでいた気がする。意味はないの。おばあちゃんが口ずさんでいたのかも。メロディだけ、ずっと--」
その時だった。
--キィン
夜の空気を切るように、澄んだ音が響いた。火の粉がふっと舞い上がり、二人の間に一筋の光が走る。
「…今の…」リリカが声をひそめる。
カイは胸に手を当てたまま動かない。その指先が、小さく震えている。
「その旋律は…カノンが、よく歌っていたんだ。俺の、幼馴染だった子が…」
「…!」
「歌の意味も、理由も知らなかった。ただ、あの子が嬉しい時も、悲しい時も、いつもそのメロディを…」
リリカは言葉を失っていた。胸の奥が、きゅっと締め付けられる。でもそれは痛みではなかった。
火は静かに燃えていた。二人の間に、まだ名前のない何かが、そっと灯った気がした。
リリカは立ち上がり、残り香のような火の温もりを背に受けながら、カイと共に家に戻る。
カイをシュエルの隣の部屋へ案内した。
自分の部屋の扉を開けると、ひんやりとした夜の空気が肌に触れた。窓が少しだけ開いていて、そこから風がレースのカーテンを静かに揺らしていた。
窓辺のオルゴールが、月明かりを浴びて、静かにそこにあった。
リリカはそっと近づき、手のひらでそっとその蓋に触れる。
「ただいま」
声に出したわけではなかった。けれどその言葉はオルゴールにも、部屋にも、そして心の奥にも届いた気がした。リリカは椅子に腰をかけ、ゆっくりとオルゴールのネジを巻く。
カチ、カチ、カチ…
そして、蓋を開くと、音盤が回り出す。
ころん(ルエル)
りーん(アクエラ)
さらさら(フェリラ)
ことん(エファリア)
ぽふっ(ティリム)
シャラン(ミレイユ)
ピン(シュエル)
ぱちっ(フレオン)
シュン(カイ)
九つの音が、順番に、あるいは重なりながら鳴っていく。どれも違う響きなのに、なぜかひとつの旋律のようにまとまって聞こえる。
「最後のが、フレオンとカイの音なんだ。カイの音は剣のような音なのね。」
「…本当に、みんなと出会ったんだ。」
フレオンの音には、焼き芋を囲んだ火の記憶も、フレオンの赤い羽の煌めきも、全てがこの音に封じられている。
リリカは両手でオルゴールをそっと抱えるように持ち、目を閉じた。
--「今夜は二つ、音が増えた。」
それは歓びでもあり、どこな切なさも混じった実感だった。
夜はすっかり更け、家の中はしんと静まり返っていた。
カイは部屋に入った。
「あたたないな…」
部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けて、カイは息を吐いた。毛布をかけるとその毛布の下には、リリカが準備してくれた湯たんぽが入っていて、じんわりと熱が足元に伝わってくる。
けれど、身体が温まるほどに、心のどこかが妙にそわそわとしていた。
思い返すのは--ミレイユのことだ。
--名前を呼ばれて。
その言葉に、心がざわついたのだ。理由は分からない。ただ、懐かしいと思った。ずっと前にも、似たような場面を見たことがある気がして--
「…いや、違う。俺が…呼ばれた、のか。」
窓の外を見つめながら、カイは小さく呟いた。炎のように揺らぐ記憶の片隅。そこには、小さな誰かの声がある。
「…タクマ、って…」
「…ちゃんと、いてね、…タクマ…」
誰かが、自分の名前を呼んでくれていた。けれど、その声の主の顔は、思い出せない。名前も、姿も、なにもかもが、靄の向こうにある。
ただ--その響きだけが、今も耳に残っている。
「呼んでくれる声が、あった。」
カイは目を伏せ、手のひらを見つめた。その掌には、何もない。ただ記憶の空白。
「…カノン、だったか…?」
誰かの名前が、ふと浮かんだ。でもそれが確かかどうかも分からない。
けれど。
「また、呼ばれたいって、…思っているのか、俺は。」
小さな呟きが、誰に届くでもなく、部屋の静けさに溶けていった。
カイはそのまま、毛布にくるまって、ベッドに身を沈める。けれど、眠りはすぐには訪れない。揺れる記憶の断片が、胸の奥をそっと、撫でていく。
名前は、ときに記憶を照らす鍵。
ふと口ずさんだ旋律が、思い出せないはずの誰かを呼び覚ます。
今夜、リリカとカイは、まだ名前のつかない感情に出会いました。
読んでくださって、ありがとうございます。




