第20話 名前の在処(ありか)
名前を呼ぶことは、心を触れること。
この物語は、そんなひとつの“出会い”の夜を描いています。
「たぶん…俺が君を待っていたから、なのかもしれない。」カイの声が、静かに落ちる。
リリカは、問いを返さなかった。ただ、彼の言葉を静かに受け止めているようだった。
「…この世界を生きる者は、痛みも、風も、命の重さも、全部“この大地の重量”でできている。だけど…君は、少しだけ違う。」
リリカの瞳がわずかに震えた。
「…違う。」
「君の足元には、まだ重量が馴染んでいないような、そんな感じがするんだ。言い換えれば--ここに根を張る前の木のおうに…。“帰る場所をまだ知っている”人の気配がある。」
言葉は穏やかだった。けれど、そのひとつひとつが、リリカの中にある“秘密”をそっとなぞっていくようだった。カイの視線はまっすぐだった。何かを暴くものではなく、ただ見えてしまったものを、そのまま伝えるだけの目。
「ずっと昔、シュエルの布の中にも、似たような気配があった。でも、今こうして君に出会って、やっと意味が分かったよ。」
カイは一呼吸置いた。
「--君はここに生まれてない。…別の世界から来た人なんだろう?」
その時、手首の糸がほんの少し揺れた。
「…なんで、分かったの?」リリカはそう呟いた。声はかすかだったけれど、まるでずっと胸の奥にあった問いが、ふと漏れ出たようだった。
「わかったんじゃない。」彼は静かに言った。
「ただ…。懐かしかったんだ。」
リリカは目を開いたまま、動けずにいた。
「君の声、歩き方、紅茶の香り…、全部今まで出会った誰とも違った。この世界のものじゃないなら、俺には分かった。ようやく会えた気がした。」
「…変だね。」
「何が?」
「この世界に来てから、シュエル以外にそう言ってもらったの初めてなんだ。“ようやく会えた”なんて--」
ふと、彼女の目が滲んだ。けれども涙は落ちない。静かに、胸の中が温かくなるような、不思議な感覚だけは残った。
リビングの時計が、小さく時間を刻む音だけを残していた。
カイは薪ストーブの炎の揺らぎを見つめていると、ふと懐かしいような、どこか寂しい匂いが鼻をかすめた。
それは--古びた畳の匂い。寒い廊下、軋む階段、誰かが遠くて呼ぶ声。
(施設、だったな。)目を閉じると、色のついてない記憶が、ひとつずつ浮かんでくる。
金網越しの空。
古びた体操着。
年上の少年達の怒鳴り声。
音のしない誕生日。
そしてあの名札。
(…拓真。思い出したその名前は、どこかで薄れかけた響きを持っていた。けれど、自分の中に確かにあった。)
西邑拓真
誰も呼ばなくなった名前。記録には残っていても、自分の声では、長く言ってなかった名。
炎がパチリと音を立てる。
やがて、静かにカイが口を開いた。
「…リリカ。君も覚えているんだろう?あの、誰にも届かない世界の音を。」
「…君は、どこから来たんだ?」
リリカは少しだけ首を傾げた。けれど、質問の意図はすぐに察した。
「“この世界”じゃないって意味で?」カイは頷く。
「日本という国。凪間花音」彼女はそっと呟いた。
「それが…、私の名前。ここに来る前の、本当の名前。」
その響きは、どこか風のように淡く、けれど力強かった。
「カイの目が、少しだけ見開かれる。」
「カノン…」リリカは頷いた。
「ずっと使ってなかったから、言うのが少し照れ臭いけれど…。私の、あの世界で、ピアノを弾いていて…。あの日、鏡を通って、気がついたら、こっちにいた。」
「…俺も同じだよ。生まれたのはこの世界じゃない。俺の名前は--西邑拓真、同じように鏡を通してこちらに来た。」
「…日本に、いたの?」カイはゆっくり頷いた。
「うん、小さな施設で育った。名前はあったけど…呼んでくれた人は、あまりいなかった。でも今は思い出した。灰色の廊下、古びた窓、遠くで響いていたピアノの音。」
二人の間に、言葉ではなく音楽が流れたようだった。鳴らないはずのオルゴールが、静かに震えていた。
カイが、少し微笑む。
「変な言い方になるけど…。“懐かしさ”がようやく形になったよ。この世界に来てからずっと、何かを探していたんだ。でも何かが何なのか分からなかった。こうして…“君”に会うまで。」
リリカの胸の奥で、ひとつの鐘が鳴った。音にならない鐘の音が。
「…カノン、か。」その言葉に、リリカはふとカイを見た。
「俺にもいたんだ、昔。“カノン”って名前の女の子が。幼馴染だった。俺が施設にいた頃…唯一、心を許せた相手だった。」
「…同じ名前?」
「漢字は知らない。でも音は今でも覚えている。透き通る声で“たくま”って呼んでくれた。君が“花音”って名乗った時、胸の奥がぎゅっとした。まるで…会えなかった…会えなかった誰かに再会したみたいで。」
リリカは、言葉を失ったまま、カイの顔を見つめた。
「…私、施設にはいなかったよ。だけど…。」
「名前を呼ばれる声、聞いたことがある気がするの。知らないはずなのに、ずっと前に呼ばれたような--そんな変な感覚。」
カイは微かに笑った。
「それって、きっと記憶よりふかいところあにある“約束”だな。名前って不思議だ。呼ばれた瞬間に、心のどこかが応える。」
リリカは、自分の名前をもう一度繰り返した。“カノン”という音が、カイの記憶の中にも、確かに生きていたことが--なぜか嬉しかった。
また、リリカのオルゴールが、小さく震えた。まだ鳴っていない音が、そっと次の準備を始めたように。
「名を交わすのは、魂を明かす行為だ。…君たちは、深く繋がったようだね。」
リリカとカイは同時にシュエルを見る。けれど、彼の目はどちらにも向いておらず、ただ揺れる炎の方を見つめていた。
「織りというのは、不思議なものでね。過去を断ち切るのだはなく、見えない縒りを重ねるんだ。君たちの言葉は--まるでほどけた糸が、また別の形で結ばれていくようだった。」
リリカはふと思う。
「じゃあ、私たちの“今”は、昔の続きなの?」
「続きではない、と思う。でも昔から流れていたおとが、ようやく『合わさる”場所に来たのかもしれない。ほら--織りも、音も、“重なり”で初めて形になるからね。」
カイはしばらく黙っていたが、静かに言った。
「君は、全部知っているみたいに話すんだな。」
シュエルは、柔らかく笑った。
「全部は知らないさ。ただ--」その目がまっすぐ二人を見た。
「“君たちが出会う日”をずっと待っていた。それだけは、確かに織りの中にあった。」
薪ストーブの炎が、赤く柔らかく灯っていた。その前で、淹れなおしたカップが三人分湯気を立てている。
リリカは深くソファに腰掛け、シュエルとカイは向かい側に座っていた。カイはカップを両手で包み込むように持っている。
誰かに呼ばれることで、思い出すことがあります。
忘れていた名も、想いも。
読んでくださり、ありがとうございました。




