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音もなく咲くー異世界で紡がれる、音と精霊の物語ー  作者: 小桜 すみれ
第六章 新たな可能性
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第20話 名前の在処(ありか)

 名前を呼ぶことは、心を触れること。

 この物語は、そんなひとつの“出会い”の夜を描いています。

 「たぶん…俺が君を待っていたから、なのかもしれない。」カイの声が、静かに落ちる。

 リリカは、問いを返さなかった。ただ、彼の言葉を静かに受け止めているようだった。

 「…この世界を生きる者は、痛みも、風も、命の重さも、全部“この大地の重量”でできている。だけど…君は、少しだけ違う。」


 リリカの瞳がわずかに震えた。

 「…違う。」

 「君の足元には、まだ重量が馴染んでいないような、そんな感じがするんだ。言い換えれば--ここに根を張る前の木のおうに…。“帰る場所をまだ知っている”人の気配がある。」


 言葉は穏やかだった。けれど、そのひとつひとつが、リリカの中にある“秘密”をそっとなぞっていくようだった。カイの視線はまっすぐだった。何かを暴くものではなく、ただ見えてしまったものを、そのまま伝えるだけの目。


 「ずっと昔、シュエルの布の中にも、似たような気配があった。でも、今こうして君に出会って、やっと意味が分かったよ。」


 カイは一呼吸置いた。


 「--君はここに生まれてない。…別の世界から来た人なんだろう?」


 その時、手首の糸がほんの少し揺れた。


 「…なんで、分かったの?」リリカはそう呟いた。声はかすかだったけれど、まるでずっと胸の奥にあった問いが、ふと漏れ出たようだった。


 「わかったんじゃない。」彼は静かに言った。

 「ただ…。懐かしかったんだ。」

 リリカは目を開いたまま、動けずにいた。


  「君の声、歩き方、紅茶の香り…、全部今まで出会った誰とも違った。この世界のものじゃないなら、俺には分かった。ようやく会えた気がした。」


 「…変だね。」

 「何が?」

 「この世界に来てから、シュエル以外にそう言ってもらったの初めてなんだ。“ようやく会えた”なんて--」

 ふと、彼女の目が滲んだ。けれども涙は落ちない。静かに、胸の中が温かくなるような、不思議な感覚だけは残った。


 リビングの時計が、小さく時間を刻む音だけを残していた。


 カイは薪ストーブの炎の揺らぎを見つめていると、ふと懐かしいような、どこか寂しい匂いが鼻をかすめた。

 それは--古びた畳の匂い。寒い廊下、軋む階段、誰かが遠くて呼ぶ声。

 (施設、だったな。)目を閉じると、色のついてない記憶が、ひとつずつ浮かんでくる。


 金網越しの空。

 古びた体操着。

 年上の少年達の怒鳴り声。

 音のしない誕生日。


 そしてあの名札。


(…拓真たくま。思い出したその名前は、どこかで薄れかけた響きを持っていた。けれど、自分の中に確かにあった。)


 西邑拓真にしむらたくま

 誰も呼ばなくなった名前。記録には残っていても、自分の声では、長く言ってなかった名。


 炎がパチリと音を立てる。


 やがて、静かにカイが口を開いた。

 「…リリカ。君も覚えているんだろう?あの、誰にも届かない世界の音を。」


 「…君は、どこから来たんだ?」

 リリカは少しだけ首を傾げた。けれど、質問の意図はすぐに察した。

 「“この世界”じゃないって意味で?」カイは頷く。


 「日本という国。凪間花音しずまかのん」彼女はそっと呟いた。

 「それが…、私の名前。ここに来る前の、本当の名前。」


 その響きは、どこか風のように淡く、けれど力強かった。


 「カイの目が、少しだけ見開かれる。」

 「カノン…」リリカは頷いた。

 「ずっと使ってなかったから、言うのが少し照れ臭いけれど…。私の、あの世界で、ピアノを弾いていて…。あの日、鏡を通って、気がついたら、こっちにいた。」


 「…俺も同じだよ。生まれたのはこの世界じゃない。俺の名前は--西邑拓真、同じように鏡を通してこちらに来た。」


 「…日本に、いたの?」カイはゆっくり頷いた。

 「うん、小さな施設で育った。名前はあったけど…呼んでくれた人は、あまりいなかった。でも今は思い出した。灰色の廊下、古びた窓、遠くで響いていたピアノの音。」


 二人の間に、言葉ではなく音楽が流れたようだった。鳴らないはずのオルゴールが、静かに震えていた。


 カイが、少し微笑む。

 「変な言い方になるけど…。“懐かしさ”がようやく形になったよ。この世界に来てからずっと、何かを探していたんだ。でも何かが何なのか分からなかった。こうして…“君”に会うまで。」


 リリカの胸の奥で、ひとつの鐘が鳴った。音にならない鐘の音が。


 「…カノン、か。」その言葉に、リリカはふとカイを見た。

 「俺にもいたんだ、昔。“カノン”って名前の女の子が。幼馴染だった。俺が施設にいた頃…唯一、心を許せた相手だった。」

 「…同じ名前?」

 「漢字は知らない。でも音は今でも覚えている。透き通る声で“たくま”って呼んでくれた。君が“花音”って名乗った時、胸の奥がぎゅっとした。まるで…会えなかった…会えなかった誰かに再会したみたいで。」


 リリカは、言葉を失ったまま、カイの顔を見つめた。

 「…私、施設にはいなかったよ。だけど…。」

 「名前を呼ばれる声、聞いたことがある気がするの。知らないはずなのに、ずっと前に呼ばれたような--そんな変な感覚。」


 カイは微かに笑った。

 「それって、きっと記憶よりふかいところあにある“約束”だな。名前って不思議だ。呼ばれた瞬間に、心のどこかが応える。」


 リリカは、自分の名前をもう一度繰り返した。“カノン”という音が、カイの記憶の中にも、確かに生きていたことが--なぜか嬉しかった。


 また、リリカのオルゴールが、小さく震えた。まだ鳴っていない音が、そっと次の準備を始めたように。


 「名を交わすのは、魂を明かす行為だ。…君たちは、深く繋がったようだね。」


 リリカとカイは同時にシュエルを見る。けれど、彼の目はどちらにも向いておらず、ただ揺れる炎の方を見つめていた。


 「織りというのは、不思議なものでね。過去を断ち切るのだはなく、見えないりを重ねるんだ。君たちの言葉は--まるでほどけた糸が、また別の形で結ばれていくようだった。」


 リリカはふと思う。

 「じゃあ、私たちの“今”は、昔の続きなの?」

 「続きではない、と思う。でも昔から流れていたおとが、ようやく『合わさる”場所に来たのかもしれない。ほら--織りも、音も、“重なり”で初めて形になるからね。」


 カイはしばらく黙っていたが、静かに言った。

 「君は、全部知っているみたいに話すんだな。」


 シュエルは、柔らかく笑った。

 「全部は知らないさ。ただ--」その目がまっすぐ二人を見た。

 「“君たちが出会う日”をずっと待っていた。それだけは、確かに織りの中にあった。」


 薪ストーブの炎が、赤く柔らかく灯っていた。その前で、淹れなおしたカップが三人分湯気を立てている。


 リリカは深くソファに腰掛け、シュエルとカイは向かい側に座っていた。カイはカップを両手で包み込むように持っている。

 誰かに呼ばれることで、思い出すことがあります。

 忘れていた名も、想いも。

 読んでくださり、ありがとうございました。

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