第2話 音が咲く日を信じて
目に見えない寂しさは、日常のふりをしてそっと隣にいる。
花音は、誰からも気づかれない日々の中で、自分自身を“リリカ”と呼ぶようになった。
その小さな逃避が、やがて運命の扉を開いていく。
音を失ったオルゴールが、再び鳴り出すそのときまで──
オレンジ色の西日が差し込む窓辺に、私はそっと腰を下ろした。そこには、祖母の形見である古びたオルゴールが置かれている。もう何年も音は鳴らない。錆びてしまったのかもしれない。けれど、蓋の裏には薄っすらと浮かぶ花の紋様が、静かに時を刻むように存在していた。
思い出すのは、幼い日のこと。少し曇った午後、雨が上がったばかりの縁側で、私は祖母と並んで座っていた。遠くから響いていた蝉の声が、今でも耳に残っている。
「ほら、花音。これ、おばあちゃんからの大事な贈り物よ」
祖母が手渡したのは、布に包まれた小さな木箱だった。開けてみると、手のひらに収まるほどのオルゴール。温もりのある木目、中央には花のような、幾何学模様の彫刻。
「……きれい」
私は見とれながら、指先でそっと模様をなぞった。
「これはね、昔々、遠い国の“音の精”が奏でた旋律なの。困ったとき、寂しいとき、この音がきっと花音の心に寄り添ってくれるわ」
祖母は鍵を使ってオルゴールを回した。
--けれど、音は鳴らなかった。
「ふふ。まだ花音には“本当の音”が届いてないのかもしれないわね」
「ほんとうの音?」
「そう。“心と響きあったとき”にだけ鳴るの。誰にでも鳴るわけじゃないの。でも、花音なら……きっと、“音を咲かせる子”になると思うの」
私はその言葉の意味をよくわからないまま、オルゴールを両手で抱きしめた。
「じゃあ、音が鳴ったときは……?」
「それはね、“大切な出会い”があった印。音は、出会いとともに咲くのよ」
祖母の声は、やさしくて、どこか切なげだった。
私はピアノを続けてきた。誰かの胸に響くような音を出せば、きっと何かが変わるかもしれない。そう思っていた。けれど、最近はもう、いい音が出なくなってしまった。音がくぐもってしまう。弾いても、心が動かない。
進路のことも考えなければいけない。でも、何も見えない。もう弾く気すら起きなくなっていた。
オルゴールは、今でも音を鳴らしてはくれない。それでも、手のひらに触れると、なぜか温かかった。寒い夜、ひとり泣いたとき、このオルゴールだけが、そっと背中に触れてくれるような気がしていた。
父の声も、母の声も、クラスメイトの声もあるのに、私に向けられた音は、あまりにも少なかった。だから私は、音のないこのオルゴールに、救われていた。
「いつか“音を咲かせる子”になると思っているの」──祖母のあの言葉が、ふわりと記憶の底から浮かび上がってくる。その“いつか”が、本当に来るとしたら。それは、すべてが静まり返った世界で、“本当の音”が咲く場所に違いない。
「私の居場所って、どこなんだろう」
母にとって、私は“無関心”の対象だった。話しかけても眠くなる、私と食べても美味しくないと言われた。弟や兄には興味津々なくせに。「嫌われてはいない」と言い聞かせて過ごしていた。
学校でも同じ。「嫌われてはいない」けれど、誰にも気づかれていない。まるで透明人間みたい。
私は、音と共に消えていく名前のようだった。
「花音、落ち込まないで」
部屋に入ってきたのは、茶トラの猫、ナナ。声にはならないけれど、ナナはいつも私に寄り添ってくれる。この子だけが、ちゃんと私を見てくれる。
ふと机に目をやると、朝にはなかった白い封筒が置かれていた。
《忘れられた者へ 目覚めの時がきた》
差出人はなかった。でも、その文字が、心の奥に刺さった。
「私のこと……?」
胸がきゅうっとなって、同時に、不思議な安堵もこみあげてくる。
封筒を開けると、絹のような手触りの便箋と、小さなカードが一枚入っていた。ピアノの音が、一瞬、部屋に流れたような錯覚。
ようこそ、記憶の狭間に咲く場所へ。
《丘の家》に向かって歩きなさい。
赤い屋根の小さな家が、あなたを待っている。
その瞬間、窓際の姿見の鏡が仄かに光り、水面のように揺れた。向こう側に、赤い屋根の家が映り込む。
私は手を伸ばした。鏡に触れることなく、指先が、身体が、吸い込まれていく。
音のない空間で、心音だけが響く。
胸の奥が、かすかに鳴った。それは音ではなく、“共鳴”だった。誰かの感情が、私に触れたような感覚。
気づけば私は、花の香りに包まれた草原に立っていた。足元を見ると、スリッパのまま──そんな現実感のなさすら、今は心地よい。
「ここは……?」
風の匂い。空の匂い。あの世界にはなかった“本当の空気”。
ふと視界の端で、何かが舞った。
透明な羽。淡い緑の髪。小さな、小さな存在が、私を見て笑った。
「…あなたは?」
花音の声に、その小さなものは、くるくると空中で旋回し、嬉しそうに煌めいた。まるで「待っていた」とでもいうように。
すると一陣の風が舞い、草原の草が割れて道のようになった。花音はナナを抱いたまま一歩踏み出した。丘の上の家に向かって。
小さなものは少し先を飛びながら、時折振り返っては、花音を導く。風が通り抜けるたびに、小さなものの周りの空気が微かに揺れ、草花が応えるようにそよいだ。
そこ姿を、丘の上の家から見ていた青年がいた。遠くで、風の通り道に立つ白い少女。その肩に揺れる淡緑の光。
「…いよいよ、始まるか、あの糸が導く運命が。」
彼は、静かに赤い糸を指に絡めながら、精霊の導く風を感じ取っていた。
誰かに気づいてほしいという想いが、音もなく心の奥に沈んでいく。
けれど、静けさの中には確かに何かが眠っている。
“リリカ”と名乗るその部屋が、花音にとってのはじまりであり、終わりではないように──
読んでくださってありがとうございます。次回、花音が初めて“異なる風”に触れます。