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音もなく咲くー異世界で紡がれる、音と精霊の物語ー  作者: 小桜 すみれ
第六章 新たな可能性
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第19話 来訪者

名も知らぬ風が、名前を運んできた。

それは出会いのようで、どこか懐かしい気配だった。

 夕暮れの丘に、鈍く金色に染まる影がゆっくりと近づいてくる。小道の先に、栗毛色の馬にまたがる、一人の青年の姿が見えた。


 風に舞うマントの裾。簡素だがよく手入れされた旅装。光に照らされたその横顔には、どこか気品のようなものが宿っていた。だが、まばゆいというよりも、静かな自信をまとっている。


 馬を下りた青年は、足音も立てずに花咲く庭を歩き、扉の脇のベンチに座る男に声をかけた。


 「やぁ、待ち人、来たり、だな。」

 織りかけの布を膝にのせていたシュエルが、ふっと目をあげて微笑む。

 「遅かったな、カイ。」


 リビングの窓の向こうで、それを見ていたリリカの胸が、なぜだか少し高鳴る。見知らぬはずなのに、あの人を知っている気がした。


 燃えるような赤い髪に、漆黒の瞳。それがカイだった。


 カイは、シュエルと共にリビングに入ってきた。軋む音と共に開いた扉の向こう、夕陽を背にした彼が、まっすぐにこちらを見つめていた。シュエルに促されて、ソファに座る。リリカもソファに座った。


 「名前を聞いてもいいかい?」本当は知っているような口ぶりだった。少し低めの落ち着いた声。


 リリカは口を開きながら、ふと自分の中のもう一つの名がよぎるのを感じた。

 (凪間…花音)

 思わず、喉の奥にその言葉が浮かんだ。けれど、それはここでは意味を持たない。今の自分は、あの世界の「わたし」ではない。その名を名乗らないでいいことに、そっと安堵を覚えた。


 「はい、私は、リリカ。ただのリリカ。」名乗った瞬間、胸の奥がすっと澄んだように感じた。


 カイの瞳がやわらかく細められ、わずかに口元がほころぶ。

 「そうか--リリカ。ようやく会えたな。俺は、カイ。よろしくな。」

 夕暮れの光が、二人の間にやさしく降り注いでいた。


 リリカはお茶を淹れにキッチンへ向かった。新しい茶葉を使おうと思いつき、戸棚を開けると目に入ってきた茶葉があった。それはアールグレーだった。


 そういえば、ミルクティーを作っていたのは、アールグレーの茶葉だったことを思い出した。懐かしい、と思って、ガラスの急須に茶葉を入れた。また勝手にお湯が沸いて、リリカは紅茶を淹れた。


 リリカがカップをトレイに乗せて、リビングに運ぶと、窓際のソファに並んで腰掛けたシュエルとカイが静かに話をしていた。


 「…昔、あの村の風が、もっと穏やかだったころがあった。」シュエルが目を細める。「春の始まりには、村の織りの場に花を一輪ずつ持ち寄っていた。糸を染めるのにね。色の言葉で季節を綴る--そんな時代だった。」


 カイは頷いた。

 「俺がまだ“王宮の剣”なんて呼ばれる前だな。その頃、村を訪ねたとき、君の布を一枚もらった。」

 「覚えているよ。まだ誰にも贈られていない風の布だった。夢を編み込んだような。」


 カイの瞳がわずかに伏せられた。

 「不思議な布だった。身につけた日は、夢を見るんだ。風の中に、誰かの声が混じっているような…そんな夢を。」


 その言葉に、シュエルはふっと笑った。

 「それはね--“君の名前を呼ぶ声”が、まだ世界に届いていなかった頃の風の音だよ。布は、時々、そういうものを織り込むことがある。」


 カイは、わずかに表情を緩めて言った。

 「まるで、音の魔法みたいだな。」


 シュエルはそっと首をかしげた。

 「そうだよ。織りも魔法のひとつさ。…君が、そうだったように。」


 カイが視線を向ける。

 「剣は、ただ戦うための道具じゃない。誰かを守るたびに、君は見えない“糸”を張っていた。命を張るようにね。命と命のあいだに、恐れと願いを繋ぐ糸。君がその場にいたから、人々は今日まで生きてこられた。

 それは、誰かの時間を、未来を--織っていたということだよ。君の剣は、そういう魔法だった。」


 カイは言葉を返さなかった。ただ少しだけ目を伏せて、小さく笑った。その笑みには、過去の重さと、少しの救いが混ざっていた。


 リリカはそっと紅茶をテーブルに置いた。湯気がゆらりと立ち上がり、その香りにカイが顔を上げる。

 「アールグレーか。懐かしいな。君の香りだ、リリカ。」


 リリカの胸の奥で、微かに“キィン”という音が鳴った気がした。


 「君の淹れた紅茶、少し香りが違うな。」カイが湯気越しに、カップを傾けながら言った。

 「え?」リリカは首を傾げる。


 「この世界でよく飲まれてるものより…ずっと澄んでいる。すっきりしていて、懐かしいような、でもどこにもない感じだ。」

 「ふふ、それって褒めているの?」リリカが笑うと、カイもわずかに口元を緩めた。

 「もちろん、…ただ、懐かしいと思うのが、自分でも不思議なんだ。」


 リリカは少しだけ目を伏せる。その反応が、何かを言い淀んでいるように思えた。


 「君は、ずっとこの布を織っているのか?」

 かたわらに置いてあった、シュエルにもらった織りかけの布を指さして言った。


 「うん、まだ完成じゃないけど、これは--最初にもらった、大事なものなの。」


 カイのその声音には、どこか“始まり”ではなく“つづき”の響きがあった。初めて手にしたものではなく、どこかで思い出したような。カイの眉が、ほんの少しだけ動く。


 「君は、ここで生まれた人じゃないんだね。」


 リリカの手はわずかに止まった。けれど驚いた様子もなく、戸惑いもなかった。ただ静かに、深く、カイの目を見返した。


 「どうして…そう思うの?」

 「君の目を見ていると、時々、どこか遠くの風景が見える気がするんだ。この世界のどこにもない景色が、君の中にまだ残っている。それがずっと引っかかっていて…」


 リリカは息を詰めたまま、目を逸らさなかった。カイは続ける。

 「君の言葉も、仕草も--すこしだけ、誰とも違う。だけど一番分かったのは…君の“織り方”だ。その糸の重ね方は、ここでは教えられないものだった。」

 

 リリカの胸の奥で、何かが微かに響いた気がした。

読んでくださって、ありがとうございます。


湯気の向こう、かすかに響いた“キィン”の音。

それは、忘れかけていた約束のつづきだった

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