第17話 静かな日々
丘の家に戻ったリリカは、精霊たちと共に穏やかな時間を過ごす。
その日々の中、土の奥から、そっと目を覚ます声が響いてきて──
やがて、丘の上の家が見えてきた。夕陽を受けたその白い壁は、どこか懐かしい灯のように優しく輝いていた。ふっと空気が和らぎ、風が戻ってきた。その風に乗って、フェリラがくるくると宙を舞いながら家へと飛び込んでいった。
ドアを開けると、いつもの空気がふわりと迎えてくれる。
「ただいま」
リリカが呟くように言うと、家の中の空気が、ほんの一瞬だけやさしく震えたように感じた。
(もう寂しくはないわ。無関心の中にはいないもの。)
シュエルは既に薪ストーブに火を灯した。
「今夜は、少し甘いものでも淹れよう。…疲れただろう。君も。」
「ありがとう、シュエル。…帰ってこられて、ほっとした。」
精霊たちはそれぞれ、思い思いの場所へ戻って行った。
アクエラは洗面の桶に、フェリラはカーテンの上に、エファリアはキッチンの木箱に。ルエルは、リビングのピアノの上で小さく音を鳴らしながら、軽くひとつ旋律を紡いだ。
ミレイユもソファに横になっていた。その姿は、まるでずっと昔からこの家に住んでいたかのように自然で温かかった。
やわらかな光がカーテンの隙間からそっと差し込んでいた。
その光は、ベッドの枕元にこぼれ落ち、リリカのまぶたを淡く照らす。
「…ん…」
リリカはゆっくりと目を開ける。部屋にはまだ静けさが漂い、外では小鳥の声がかすかに聞こえていた。
レースのカーテンが音もなく揺れ、窓辺の空が、少しずつ朝の色に染まり始めている。その時、部屋のピアノの上で--「ころん」やさしい音がひとつ、軽やかに響いた。
「おはよう、ルエル。」リリカはそう呟きながら、微笑みを浮かべて体を起こした。ルエルが一回転すると、背中の羽がふわりと揺れた。透明な水晶細工のような銀の羽には、波紋のように縁取りがあり、光を受けて紅色の煌めきを宿す。
午前中、リリカは村まで足をのばした。パン屋では焼きたてのハーブパンが並び、雑貨屋の棚には春の花を模したリボンや手紡ぎの糸が置かれていた。
「今日も来てくれたんだね。」村の子供たちが駆け寄ってきて、リリカの手を引っ張る。
洗い場では「このあいだ話した谷の花はね…」と昔話を続けてくれる。
昼前には丘の家に戻り、庭の花壇に目を向ける。
アクエラが「リーん」と水の音を立てながら水やりを手伝い、フェリラは「さらさら」と風を流して花の香りを運んでいた。
午後には畑に出る。
ミレイユが「草むしり担当はリリカね。」と言いながら畝の間を歩き、エファリアは木の杭に腰をかけながら、「ことん」と音を響かせて、何かの計画を立てているよ上だった。
リリカはスコップで土をならし、野菜の芽にそっと声をかける。土の香りと汗のにじむ作業。それが妙に落ち着く。
夕方には布を織る。小屋には夕陽が入ってきてオレンジ色に床を染める。
目の前にあるのは、シュエルに最初にもらった“織りかけの布”。
初めはエファリアに手伝ってもらって織った。けれど今は--毎日の手の温もりが、少しずつその布に溶け込んでいる。
「…よし。」
左手で緯糸を整え、右手で杼を送る。
シュッ、カタン。
しゃっ、カタン。
糸と糸の隙間に、風の精霊フェリラが通り抜ける気配がして、「さらさら」と空気が震える。
時々「ことん」といって、エファリアが手伝ってくれる。ぴょんと跳ねて、背中の羽--まるで和紙と木目を合わせたような、長い薄板の羽が、ことん、と拍子を打つように揺れる。生成りの色の中にほんのり走る淡紅のラインが、光を受けてやさしく反射した。
エファリアは最初、子供位の大きさだった。でも聞けば、大きさは自由に変えられるようで、必要とあらば、リリカに教える時はまた子供の大きさに戻ると言った。
リリカは微笑む。この布には、まだ続きがある。まだ見ぬ模様が、音のように潜んでいる。
彼女は再び、杼を送り、織りの音を響かせた。ゆっくりと、けれど確かに今日も一段、未来に近づいていくように。
日が暮れ、夕食を終えた後、リリカとミレイユはベッドに横たわる。その日の話をぽつぽつと交わし、やがて眠りに落ちる。
あの“熱”の気配は、心の奥にあるけれど、ただ、静かに優しい時間が、音とともに確かに流れていた。
そんな毎日が続いていた。リリカは日本のことを忘れ、幸せに包まれていた。
ある日、午後の陽が斜めに差し込む頃、リリカは畑の隅で芽吹いたばかりの苗を植え直していた。土はしっとりと柔らかく、指の間を滑べるその感触に、今日も穏やかな時間が流れていることを感じる。
スコップでそっと土を掘り返し、根が絡まないように手でほどこうとしたその時--
『いったぁ…』
小さなこえが、地面の中から聞こえた。
リリカははっとして、すぐに手を止める。土の中に目を凝らすと、ふわりと小さなものが浮かび上がってきた。
それはベージュ色の--まるで素焼きの粘土ででにたような、小さな人の形。ふわふわとした短い髪に、ところどころ乾いた葉や小石の欠けらが混じっている。瞳はやわらかい土色で、きょとんとした表情でこちらに向けていた。
「…えっ、あの…ごめんなさい…?」
リリカがそっと声をあげると、その小さな存在は、ふるふると肩を揺らしながら地表に浮かび上がり、両手で腰をさすった。
『ボク、根の下で休んでいたのぃ…ちょっとびっくりしただけ…』
その声は、少しだえ眠そうで、土の奥からくぐもって聞こえるようだった。
「…あなた、土の精霊なの?」
『うん。ボク、土の中にいるのすき。あったかいし、静かだし。…でも、君の手、やさしかったから、起きたんだぁ」
リリカは胸の奥に、ぽっと火が灯るような温かさを感じた。ルエルたちと出会った時の、あの小さな光の瞬き、確かに、そこには“音”があった。
『ねぇ、名前つけて』土の精霊が言った。
リリカは両手をそっと差し出し、その精霊を抱えるようにして見つめた。
「名前を…つけてもいいの?」
小さな精霊は、にこっと笑った。
『うん、名前、ほしい』
リリカはしばらく考え、そしてゆっくりと口にした。
「…《ティリム》ってどう?」
その瞬間、空気がふわりと震えた。柔らかな土に何かが落ちた音がした。手首にしている赤い糸が震えた。
『ボク、ティリム…うん、すごくしっくりくる。ありがと、リリカ』
ティリムはふるふると頷いた。その背中から、丸みを帯びた双葉のような羽がそっと揺れる。
やわらかなベージュの羽は、苔と葉のような質感で、光を浴びるとほんのりと緑の縞が浮き上がる。
『ボク、この土…すきだなぁ』
ティリムという名前は、やさしく土に染み込み、リリカの中にもまた、静かな音となって残った。
読んでくださってありがとうございます。
ティリム登場回です。
静けさの中にある出会いを、やさしく描いてみました。




