第16話 熱の気配
村の人々が語る“かつての音”と、“音の巫女”の話。
鏡、歌、そして精霊たちの記憶が、リリカの中で静かに重なっていく。
春の光に包まれたフィラノの午後。
けれどその終わりに、“熱を纏う気配”がひとつ、確かに歩み寄っていた。
小川に面した村の洗い場では、湧き水がとめどなく流れている。年配の女性たちが、桶を囲みながら、日向で洗濯物をすすいでいた。
「まあまあ、あの娘さん、あの丘の家の。」
「ほんと。昔もあったねぇ、あの家に“音の巫女”が来ていた時代が…」
「やだ、おばあちゃん、それ本当にあった話?」
「本当にあったわよ。夜な夜な、家の鏡が光って、音の魔獣が出たんだって。でも巫女が歌って、それらを眠らせたのよ。」
リリカは耳を澄ませた。
「…鏡?」
「そうそう、今みたいな、銀の鏡じゃないの。銅で出来た、古い、音を映す鏡。」
ミレイユがリリカの肩に手を置いて、
「リリカ、これほんとじゃない?鏡と音…リリカの魔法に似てる。」と言った。
年配の女性たちはにこやかに笑って、
「あの子があの巫女の再来なら、村はきっと賑やかになるわねぇ」と言った。
フィラノ村の春の陽気が、窓から差し込んでいた。エデュル老の家の大きな食卓には、焼きたてとパンや新鮮な野菜のスープ、花の蜜で甘く煮た根菜の小鉢が並んで、芳しい香りが漂っている。
「さあさあ、たくさん食べてくだされ。若い子が遠慮なんていらんぞ。」と笑うエデュル老に促され、リリカ達は「いただきます」と声を揃えた。
シュエルは静かにスープをすくいながら、「ふむ、香草の使い方が上品だ。」とぼそり。
フェリラは器の上をくるくる舞い、アクエラはコップの水をこっそり泡立てて遊んでいる。
ミレイユは、パンの端をちぎって器用に口に運びながら、猫時代の癖のように、ポニーテールを尻尾のように揺らしていた。
食卓には、村の年配の女性たちや子供たちが集まっていた。リリカが「美味しい」と微笑むと、そのたびに誰かが笑顔で頷き返す。
やがて、箸を置いたエデュル老が、ふと昔を懐かしむように目を細めた。
「この村にはな、かつて“音を纏う者”が来たことがあるんじゃよ。」
その声に、さっきまでパンに夢中だった子どもたちの視線がぴたりと集まった。
「おとを…?」
「そう。“音”。目には見えんが、耳に残る。不思議な力を持ってな。その者が来た時は、村に少しだけ変化が起こったものじゃ。音が戻るというかの…。」
リリカはスプーンを持つ手を止め、そっとエデュル老を見た。
「例えば、どんな変化があったの?」
老は懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。
「歌を忘れてしまった子が、夢の中でまた歌えるようになったり、色を失った庭の花が、翌朝には咲き誇っていたり…音が、世界に染み渡るようだった。…音は目に見えん、じゃが、人の心を一番揺らす。それが欠けておる時、わしらは、ほんの少し鈍くなっていく。そう思うんじゃ。今も村に音がない。話す時もくぐもっていて、よく聞こえん。」
リリカの胸の奥が、静かに共鳴した気がした。その響きに応えるように、ルエルが「ころん」と一音鳴らした。誰も気づかなかったはずのその音を、シュエルは目だけで追い、うっすらと微笑んだ。
エデュル老は、ゆっくりリリカに視線を向ける。
「今、君がおる。それだけで、この村には音が戻っていておるように思える。そら、わしの声もみんなによく聞こえてるじゃろ。わしのような年寄りには、それがよく分かるんじゃよ。」
静かに、スープの湯気がひと筋立ち上がる。窓の外では、春の風が「さらさら」と草を鳴らしていた。
午後の陽がまだ高いうち、リリカは広場の縁にある木陰に腰を下ろしていた。ミレイユはそばでまどろみ、フェリラは子どもたちと花で遊び、アクエラは子どもたちと、水で遊んでいた。
「静かだね、ルエル。」リリカがそう呟くと、ルエルはそっとリリカの肩に乗り、「ころん」とひとつ音を鳴らした。
「静かだけど、揺れている。…音の気配、少しずつ近づいている。」
「…気配?」
ふいに、遠くに遠くに空が光る何かが閃いた気がした。リリカは目を凝らすと、それはすぐに消えてしまったが、ルエルは黙ってその方向を見ていた。
『ひとつ、目覚めかけてる』
「迎える、準備、しなきゃね。」
リリカが立ち上がると、ミレイユがあくびをして振り向いた。
「なに?面倒ごと?」
「ううん。…きっと、これから会う人か、精霊のこと」
「ま、いいけど。敵ならあたしが切るし、味方ならリリカの役目でしょ?」
「…うん。ありがとう、ミレイユ。」
次の瞬間、ふっと音が止んだ。
「…?」
風が、ざわめき、音が止まったようだった。
「空気が…変わった?」ミレイユも気づいたようで、わずかに眉をひそめて立ち上がる。
「風が引いた。あたたかい…けど不自然。」
空気は冷たくもなく、暑くもない。けれど、なぜか“熱”がどこか遠くから染み込んでくるようだった。
その時、ルエルがそっと囁いた。
『…足音、来てる。遠い。でも確かに。地面が、剣の音を覚えてる。…静かな炎が、歩いてる』
リリカは胸の奥に、ひとつの“熱の気配”を感じた。心のどこかにあった空白が、じわりと温かくなっていく。
そして、その中心に“何かの欠けら”がひとつだけ、静かに揺れていた。
どのかの空で、小さな火花が、パチリと弾けたような音がした。フェリラが振り返った。空にはまだ陽がある。けれど、その下に--確かに“熱の人”が歩いていた。
夕暮れの空は薄紫に染まり、帰り道はかすかに夜の匂いが混じり始めていた。フィラノ村で過ごした午後のやさしい気配が、リリカの背中にまだ残っている。
「今日は…いろんな人と話して、いい一日だったね。」リリカが呟くと、前を歩くシュエルが「ふむ」と頷いた。
「君に惹かれて風が変わった。村人たちも気づいてるはず。…音のないこの地に、少しずつ響きが戻って来ている。」
隣で歩いているミレイユが、
「穏やか過ぎて、逆に怪しいくらいよ。」
「そう?」
「うん。…風が止んだあの瞬間、なんか背筋がぞわっとしたの。リリカは?」
「うん、何か、来てる。」
「気づいたか、君たちも。」
リリカの前を歩いていたシュエルが振り返らずに言った。白銀の髪が、風の余韻をとらえてわずかに揺れる。
「風は生き物のようなものだ。空気が止まり、音だけを運んでいる時--“何か”が近づいてる証拠だよ。」
「それって…やっぱり、誰かが?」
「可能性は高い。熱を伴っていたな。」
リリカの胸がどくんと脈打つ。まだ会っていないのに、その姿がどこかはっきりと浮かぶような、そんな不思議な感覚だった。
突然、フェリラがくるりと宙を回りながら言う。
『ぼく、あの花の冠つくるやつ楽しかった!あれ、毎日やってもいいかも!』
アクエラが笑いながら、少し水を跳ね上げた。
『でもさー、やっぱり丘の家がいちばん落ち着く。リリカの音が一番響いてるから』
「あの雑貨屋の塩、ちょっと面白かったよね。」
ミレイユがポニーテールを揺らしながら、横目でリリカを見る。
「うん、少しだけもらったよ。キッチンに置いておこうかな。」
「変な猫が舐めに来なければいいけどな。」
「それ、ミレイユのこと?」
くすくすと笑い合う声が、暮れゆく空に小さく溶けていく。
村に語られる“音の巫女”の記憶。
小さな出会いと気配の変化が、次の音へとつながっていきます。
読んでくださって、ありがとうございました!
次回も、静かな音の続きをお楽しみに。




