車椅子
陶義忠は藤総合病院に居た。
息子の見舞に来たのだ。きがえを届け、汚れものをひきとってまとめ、お喋りに付き合っている。
息子は病室から出られないのだが、病室の扉は開け放たれている。義忠は出入り口近くに丸椅子を置いて座っているので、少し体を傾ければ廊下がまるみえだった。つきあたりまで見える。
妻がナースステーション前で、なにか話しているのが見える。師長と話しているのだ。どちらも笑顔なので、深刻な話ではないらしい。
妻の近くに、誰ものっていない車椅子があった。誰かをあれにのせるんだろうか?
息子が検査のために病室を出る時には、からの車椅子を看護師がおしてきて、のせてくれるらしい。だから、そういう用途だろうと思った。
義忠は目を疑った。車椅子が、ひとりでにすーっと動いたからだ。
誰ものっていないし、誰もおしていない。それなのに、車椅子は蛇行しながら、こちらへ向かってくる。
「お父さん、聴いてるの」
うんざりした声に、息子へ目を向けた。「あ、ああ……ちょっと待っててくれ」
不満げな息子を残して、義忠は病室を出た。
車椅子が病室のひとつへ這入っていく。
小走りにそちらへ向かって、義忠は顔をしかめた。そこは302号室で、扉は開いていない。扉についた窓からなかを見ても、たしかにそこに這入っていったはずの車椅子はなかった。