み・ど・り
宇喜多みどりは食堂でノートをひろげていた。
臨海学校の宿舎だ。今日は中休みで、一日自由にすごしていい。大勢が泳ぎに行っている。先生と、有志の保護者やもと・警官が、三人でそれを見張っている筈だ。毎日のように泳ぎに行くのに、休みの日まで泳ぐのだから、と、みどりはなかば呆れていた。組が一緒になった生徒達の気持ちがわからない。
風がない。
宿舎はエアコン完備で、暑いということはない。しかし、みどりは息苦しさというか、居心地の悪さを感じていた。まるで大きな箱のなかに閉じこめられているかのようだ。外へ出て、胸いっぱいに空気を吸い込みたい。
みどりは立ち上がると、ノートを閉じ、筆箱を重ねた。ケータイだけ、ポケットにおしこんで、廊下へ出る。
玄関から外へ行くと、日光が目を刺した。「宇喜多さん、どこへ行くの」
前庭には、生徒会の誰かの親だという男性が居て、みどりに話しかけてきた。みどりは大人の男性が苦手だ。
「散歩です」小さな声で答える。「……海岸まで」
「ああ、そう。気を付けて」
みどりは首だけで会釈して、そそくさと宿舎前の道路へ出て行った。本当は、海岸へ近寄るつもりはない。海風で髪がべたつくのが、みどりは嫌いだった。林間学校では肝試しをすると訊いたから、臨海学校を選んだだけで、消去法だ。
あの男性が草むしりを再開するのを見て、みどりはさっと、宿舎の前を右へ向かった。坂道をあがっていく。
しばらく行くと、山にはいったらしい、とわかった。みどりは黙ったまま、あしをすすめる。次第に、道はなくなっていったのだが、みどりは宿舎へ戻ろうとは考えなかった。
木陰は涼しく、木の間を通る風は心地いい。シダを踏み、シュロの葉をかきわけて歩く。
「いたっ」
なにかで掌を傷付けた。
みどりは痛む右掌を見て、ぎょっとした。すぱっと、刃物で切ったように、斜めに傷口が開いている。
じくじくと傷口が痛む。みどりは呆然と、それを見ていた。こんなふうに手を切るものがあったのだろうか?
「み・ど・り」
耳許でささやかれた気がして、反射的に振り返ったみどりは、麦わら帽子を被った男性が間近に立っているのに気付いた。
誰? 先生……じゃない。誰かのお父さん? 警察OBのひと? 誰?
男性はすりきれたようなタンクトップに、やけに長い紐の麦わら帽子、七分丈のずぼん、身長よりも長い笹を三本……という格好だ。麦わら帽子のつばでかげになって、顔は見えない。
しかし、最初に見て思ったよりも若い、とみどりは考える。高校生くらいか、大学生くらいか……だ。
「……あの?」
みどりが声を出すと、男性はゆっくり前後に揺れた。そうしても、顔は見えない。
なにか気持ちが悪いものを感じる。
「か・え・って」
帰って?
「ここ、はいっちゃだめだったんですか……」
私有地、という言葉がぽんと脳裏にうかんで、みどりはそう訊いた。たしか、先生達が、坂を上がっていったらだめだと云っていた。もしかしたら誰かの土地で、勝手に這入ったらいけないのかもしれない。
男性の首がなんの前触れもなく転がり落ちた。
唖然とするみどりの足許に、帽子を被ったままの首が転がってくる。「ま。も……る」
みどりは走りだした。
出海ことみと佐伯積が短い散歩から戻ると、宿舎の食堂で宇喜多みどりが呆然としていた。「宇喜多さん?」
椅子に座ったみどりに、臨海学校の指導員である保護者が話しかけているが、彼女は黙っている。その右手には、包帯がまかれていた。
ことみと積は顔を見合わせる。
「あの、どうかしたんですか?」
「ああ、出海さん、佐伯くん……宇喜多さん、散歩に行くって出て行って、戻ったら掌に酷い怪我をしてて」
「病院行くんですか」
「車をまわしてもらってる」
「俺達、宇喜多さんの様子みてます」
「ああ、ありがとう……」
指導員が居なくなると、積はみどりへ向き直り、にこっとした。
「宇喜多さん。悪いやつじゃないよ」
「……え?」
みどりが弱々しい反応を見せた。積は続ける。
「なにかにまもってもらったんだね」
「……佐伯くん、なにか知ってるの?」
「なにも」積は煙に巻くようなことを云い、頭を振った。「とにかく、君が見たなにかは、こわいとしてもいいやつだ。感謝したほうがいいよ」
みどりはしばらく考え込んでいたが、わかった、と答えた。
みどりは車にのせられ、病院へ運ばれた。ふたりは玄関前でそれを見送る。「つみくん?」
「つばつけた、ってやつ」
「え?」
「あの怪我」
積は不機嫌そうに云い、ぷいと顔を背ける。「なにかが彼女をまもったんだよ。じゃなきゃ、ここへ戻れてない」
みどりはそのまま帰宅した。荷物は、あとから家族がとりに来た。
みどりの怪我は、病院へ着く頃には塞がっていたそうだ。