引っ越して
津軽美奈江は引っ越した先のアパートに慣れ、自転車通学で道を間違うこともなくなった。
最初、引っ越すと聴いた時はいやだったが、アパートは築十年のあたらしいもので、雰囲気も明るい。
一番助かったのは、左隣が空き部屋で、右隣が温和な家庭だったことだ。
一度、弟と派手な喧嘩をしてしまい、ものを投げ合って大きな音をたてた。それで、上の階と下の階からは抗議され、謝りに行ったのだが、右隣の家庭からはそういった抗議はまったくなかった。
それでも、騒いで迷惑をかけただろうと、美奈江はそちらにも謝りに行った。すると、優しげな奥さんが、二歳くらいの子どもを両腕に抱いて対応してくれた。美奈江のさしだした菓子折を、靴箱の上へ置いてほしい、と申し訳なげだった。子どもが少しくらい大きな声だしてもいいのよ、と優しい言葉をかけてくれたので、美奈江は随分気が楽になったものだ。
それからたまに、ごみ出しをする奥さんや、スーツ姿でその部屋へ這入っていく旦那さんを見かけると、美奈江はかならず挨拶するようにしていた。ふたりとも人当たりがよく、美奈江の挨拶ににこやかに応じてくれる。ちょっと世間話らしきことをして別れる。たまに、お裾分けなどをあげたりもらったりする。これからもずっとそういった付き合いが続くのだろうと思っていた。
女友達の家に友達数人で集まって泊まった次の日、家へ帰ると、アパートの前に引っ越し業者のトラックが停まっていた。
左隣に入居するひとが居るのか、もしくは誰かが引っ越していくのかと思ったが、廊下で驚いた。右隣に荷物が搬入されている。
おやつを食べていた下の弟に聴くと、お隣は昨日のうちに突然引っ越してしまったという。「どうして?」
「知らない。いきなりトラックが来て、荷物のせていっちゃった」
美奈江はそれから、いらいらさせられることになった。隣には四歳のふたごと二歳児、その両親、という一家が入居したのだが、ふたごが四六時中喧嘩しているか大騒ぎしているか笑い転げているかで、静かな瞬間がないのだ。
「隣、今日も煩い」
「姉ちゃん、そんなにいらいらしなくてもいいじゃん」
「煩いんだもの」
美奈江は鶏団子とお豆腐の鍋をテーブルへ運ぶ。弟が鍋敷きを置いてくれて、その上に土鍋を置いた。「はい」
「ありがと」
「ご飯どれくらい? ああもう煩い」
きゃーっ、と楽しげな笑い声がした。毎日この距離で聴いていたら、可愛い子どもの声でも腹がたつのは仕方あるまい。
弟達にご飯をよそい、自分の分もそうして、美奈江はエプロンを外そうかどうしようかと寸の間考える。弟が鶏団子を行儀悪くご飯にのせた。
「前のひと達が静かすぎたんだよなー」
「そうよねえ……」
美奈江は弟の隣に座る。そういえば、あのひと達の声を、ここで少しでも聴いただろうか?
会話をしたことはあるから、聾啞者ということはない。子どもも、数回顔を合わせた限り、あの年代の子ども程度には喋っているようだった。
なのにあの家族は、部屋のなかで一切、物音をたてなかった。
なんとなくぞっとして、美奈江は頭を振った。




