うるさい!
津軽美奈江は、壁へ寄りかかるようにして足の爪を切っていた。
目はじっと、TV画面を見ている。そこには好きなサッカーチームの試合がうつされていた。今日はビジター戦、これを落としたら降格する可能性が高くなる。
美奈江のごひいきのチームは、リーグの最下位争いをしていた。来シーズンどうなるかの当落線上だ。
「よっし」
相手チームが中央、切り込んできたが、ディフェンダーがそれを阻んだ。シュートはあらぬかたへとんでいき、ミッドフィルダーが胸でうける。
美奈江は口を開いて、ボールの行方を追っている。手はもう動いていなかった。左足の親指の爪を切ろうとしていたところだったが、それどころではない。ごひいきのチームのなかでも好きな選手が得点するかもしれないのだ。
「よし、よし、あがれあがれあがれ!」
くんっ、と、右袖の肘の辺りをひっぱられた。下の弟の満だろう。「満、あとにして」
そろそろご飯のことで騒ぎ出す時間だ。お母さんはお仕事だし、お父さんはどこかへ行っている。どこへ行っているのか知らないけれど、戻ってきてからあたし達にやつあたりするのは辞めてほしい……。
また、袖を引かれる。「あとにしてってば」
美奈江はそれを振り払おうと、右腕を動かす。TVでは、好きな選手が相手ゴール手前で敵ディフェンスに阻まれていた。
「あっ、あっ、あ-! やった! やった! やった!」
美奈江は爪切りを放り投げて立ち上がり、腕を突き上げた。「満! 広田選手がやったよ! これで五試合連続ゴール! いえーい!」
美奈江は大喜びで、弟とハイタッチしようと手を伸ばした。
停まる。
弟の姿はない。
「……あれ?」
いや、そもそも美奈江は、壁へ寄りかかるようにしていた。右肩を壁につけていた感触が残っている。
思わず悲鳴をあげると、三歳下の弟の有が不思議そうな顔でやってきた。「どうしたの、姉ちゃん」
「それだけ?」
「それだけって……」
佐伯積の軽い態度に、津軽有は不満げに口を尖らす。「姉ちゃん、こわいって、家に居たがらないんだ。台所もこわいとか云って、飯もつくってくれないし」
「袖をひっぱるだけなんだったら、害はないよ」
「ほんと?」
「袖引き小僧って知ってる? ポピュラーな妖怪だよ」
一緒に有の話を聴いていた出海ことみは、苦笑いになった。袖引き小僧はたしかに文献などが現存している妖怪だが、ポピュラーと云える程有名ではない。
しかし有は、霧上中きってのオカルティスト・積に心配ないと云われたからか、ほっとした様子を見せた。椅子をたつ。「ありがとな、話聴いてくれて」
「ううん」
「じゃあな」
有の姿がなくなると、積はにこやかにことみを振り返った。「ことみ、付き合ってくれる?」
ふたりは放課後、幼児向けのおもちゃを買い、有の家へ向かった。有は運動部で、まだ学校に居る。姉は留守がちだという。母親は仕事、父親はやはり家に居着かない。なら、小学二年生の満という子しか居ない。
チャイムをならすと、小さな子どもがドアを開けた。小学二年生と聴いてことみが想像したより、その子はずっと小さかった。くりくりした大きな目でふたりを見ている。
「こんにちは」
その子ははずかしそうに項垂れた。積はにこにこして、おもちゃをさしだす。小さな車のおもちゃだ。「これ、あげる」
「え……」
お供えするんじゃなかったの、と思ったが、ことみは黙っている。
その子は嬉しそうにおもちゃをうけとり、ひっこんだ。積は自然に、家のなかへ這入っていく。ことみも続いた。積が靴を脱いだので、ことみもそれにならう、
「だれ?」
声に顔を向けると、有に似た面差しの男の子が居た。混乱してなにも云えないことみと違い、積はこともなげに云う。「君のお友達、車のおもちゃで遊んでるよ」
「見えるの?」
「うん」
積はにこやかだが、男の子は警戒しているようで、積を睨んでいる。
積は云った。
「なにもしないよ」
「……ほんと?」
「でも、お姉さんをおどかすのはよくないな。あの子に云っておきなよ」
男の子がこくんと頷いた。「じゃ、帰ろっか、ことみ」
「え?」
「誰だ?」
振り返ると、有を三十歳くらい老けさせて、不健康にしたような男が立っている。津軽くんのお父さんだ、とことみが判断した時には、男性はふたりを押しのけるようにして家に上がっていた。積がにこやかに告げる。
「有くんの友達です」
「ふん、子どもは気楽でいいな。有は野球部でまた、ばかみたいに腹の減ることをやってるんだろう」
「お父さん」
男の子がたしなめるように云うと、有の父親はそちらを睨みつけ、怒鳴った。「黙れ満! 子どもが大人の言葉を遮るんじゃない!」
この子が満くん? じゃあ、さっきの子は?
「でも」
「くちごたえするな!」
ゆらっとかげろうのようなものが見えた。
有の父親の前に、あの小さな男の子があらわれた。と思ったら、その体がぶわっとふくらみ、頭が天井について、せなかがまるまった。
「うるさい!」
「あれって、なんだったの」
「座敷童の類じゃないかな。まだ不完全みたいだけど」
「ふうん……」
ふたりは夕焼け空の下、並んで歩いている。
あのあと、あの男の子は何事もなかったかのようにもとのサイズに戻って、おもちゃを手に満のもとへ走っていった。有の父親は尻餅をついて、なにが起こったのかわからない様子で、小さくなったあの子も見えていない。満には見えているみたいで、あの子の手をひっぱって部屋へひっこんだ。
「座敷童が居るなら、大丈夫?」
「あの子が居るからかろうじて保ってる」
「……大丈夫じゃないね?」
「そればっかりは、俺にはどうにも出来ないよ」
積は耳を触る。
津軽一家は、父親の就職が決まったとかで、引っ越していった。あの子はついていったの、と、ことみは積に訊いた。引っ越しのトラックの荷台でにこにこしてたよ、と積は答えた。