……ないか?
ぎゃっと悲鳴が聴こえて、出海ことみは振り向いた。隣の佐伯積も、椅子を倒して席を立ちながら振り返る。
一番後ろの席の松永伊織が、床に倒れている。「松永?」
担任の荒木がそちらへむかったが、伊織は教室の後方へ向かってずるずると這うように移動した。悲鳴があがる。
這っている、と考えるには無理がある。伊織は左肢を軽くあげて、まるでその脚をひっぱられているみたいに移動しているのだ。
積が後ろの席に足をかけて飛び越え、伊織の左腕を掴んでひっぱった。もう一度悲鳴があがる。伊織の体はほとんど宙に浮いていた。まるで、伊織の腕をひっぱる積のように、脚をひっぱっている誰かが居るみたいだ。
「いてえ!」
唐突に引っ張り合いが終わり、伊織は床へたたきつけられた。右腕を打ったみたいで、床の上でごろごろしている。
「つみくん」
「大丈夫みたい」
ことみがおそるおそる近寄ると、積は苦笑いでそう答えた。
なにが起こったかはわからないし、対処のしようもない。
学校の判断は簡単だった。なにもない、だ。
松永が幻覚を見ておかしな言動をし、クラスメイト達はそれに影響されてパニックになった……ということになった。
「ありがとう。昨日、助けてくれて」
翌日、学校を休まされた伊織を訪ねると、彼はそう云ってお茶を淹れてくれた。ことみと積はそれをすする。
「あの直前、なにかあった?」
「変な声が聴こえた」
伊織は個包装のチョコレートを口へ含む。「ないか? って訊いてきた」
「ないかって、なにが?」
「そこは聴こえない」
伊織は不機嫌に云い、ふたりにもチョコレートをすすめてくれた。ことみと積はそれをもらって、松永家をあとにした。
「あ」
松永家の近くの歩道で、電柱に隠れるようにして先輩が立っているのが見えた。臨海学校で同じ班になった先輩だ。伊織とも面識がある。ちょっと不可解な情況で溺れそうになった伊織を、助けてくれたひとだ。
積も気付いたようで、にこにこしてそちらへ向かう。「先輩?」
「うわ」
先輩はことみ達に気付いていなかった。立ち位置と見ていた方向からすると、松永家の様子をうかがっていたようだ。怯えた様子で後退る。「佐伯。出海も。なんだよ?」
「先輩こそ。松永くんのお見舞ですか?」
積はにこにこしたままだ。先輩は顔をひきつらせる。
「いや、その」
「ひまそうでしたよ。行ってあげたらどうです?」
「え、でも、松永体調悪いんだろう」
「もう元気みたいですから、はい」
「おい……」
積が先輩の腕をひっぱって、松永家のほうへとつれていき、最後はせなかをおして松永家の敷地へおしこんだ。ふたりとも見えなくなる。ことみは唖然とした。
しばらくして、積が戻ってきた。「松永くんの家に放り込んできた。松永くん喜んでたよ。ゲームの対戦相手がほしかったんだってさ」
「え、大丈夫なの?」
「どうして?」
「だって……松永くん、なにかついてるんじゃあ」
「あのひとが居たら大丈夫だよ」
積は笑顔で歩き出す。ことみはそれについていった。
「つみくん?」
「ああいうひとって居るんだよね。まったくもって純粋で、その上に強固だ。その場に居るだけで、変なものが寄ってこない。悪いものから毛嫌いされてる。強いやつでもほんのちょっとしか影響できない」
積はにやっとして、指揮棒でも振るように指を動かした。「松永くんにぴったりだ。先輩のことを全自動お祓いロボと呼ぶことにしよう」