追われる
浅井奈佐は、夜道を急いでいた。
霧上中に赴任して半年程、まだ教師になってすぐの奈佐は、教師としての業務をこなすのに時間がかかっていた。
先輩達は優しいが、その優しさに甘えてばかりもいられない。はやく仕事を覚え、書類も自分ひとりで完璧に仕上げられるようにして、「戦力」になりたいと思っていた。
金曜日の清掃活動では毎回、指導員を買ってでている。中学生が車にはねられそうになる事故が起こったので、もと・美術部の腕を生かしてとびだし注意の看板を書き、正門傍に設置した。夏休みには美術部の指導をした。スケッチ大会の世話もした。
その気持ち、一人前として認めてもらいたいという思いが、奈佐に助けを求めることをためらわせたのだ。彼女は文化祭に関しての、生徒の親達への告知用プリントをつくっていたのだが、その作業は思っていたよりも時間がかかり、そして秋口の日は思ったよりも短かった。
気付いた時にはとっくに日は沈み、奈佐はできあがったプリントをデスクのひきだしに仕舞いこんでから用務員さんに挨拶し、慌てて校舎を出て行った。
そして、小走りに夜道を移動している。
道に迷った、と、奈佐は泣きそうな気分で考える。住んでいるアパートは、校舎の裏口から出て五分の場所にある。しかし、奈佐は正門から出ていた。裏口は扉が老朽化したとかで、三日前から使用禁止だ。壁をのりこえる訳にも行かないから、奈佐は三日間、遠回りして正門から出入りしていた。
の、だが、焦っていたのか、慌てていたのか、とにかく道を間違った。奈佐は見たこともない、長い塀が続く場所に居た。度々、十字路や丁字路に出るのだが、そのどれも、ずっと向こうまで街灯が並び、ひとっこひとり居ない。
塀の向こうに建物は見える。おそらく、住宅街に迷い込んだのだろう。しかし、ひとの気配はない。灯がついている家がないのだ。まだ七時か八時くらいなのに。
おかしなところはまだあった。灯はついていない。灯がもれている家が見えない。それなのに、話し声のようなものが聴こえてくる。
TVやラジオ、なのだろう。なのだろうけれど、どうして家をまっくらにしてTVやラジオを観賞するのか。それに、TVをつけているのなら、その光が外へもれるのではないか。
もうひとつ、おかしなところがある。塀は長く続いていて、途切れない。塀の向こうに家らしい建物が幾つも見えるのに、門はひとつもない。
あしおとが聴こえてきた。
奈佐は立ち停まる。
息が切れていた。いつの間にか、奈佐はほとんど走っていたのだ。
彼女は十字路に立っていた。左を見ると、ひとが歩いてくる。よかった、道を尋ねられる。
けれども、奈佐はそのひとに道を尋ねることはなかった。三つ向こうの街灯の下にあらわれたのは、人間に似ているが人間ではないなにかだった。
奈佐は一瞬かたまったが、すぐに走りだした。右方向へだ。心臓が破裂しそうに脈打っている。今のなに。今の。
奈佐は肩越しに後ろを見る。それは奈佐の後をつけているようだった。追ってきているようだった。どうして人間ではないと思ったのか、自分でもわからない。わからないけれど、あれは違う。人間ではない。
奈佐は丁字路を右へ曲がった。目の前にそいつが居た。
「先生。浅井先生」
はっと我に返る。水の音がした。
奈佐はうずくまって震えていた。傍で水が流れている。柄杓が見えた。
顔を上げると、二年生の佐伯積が居た。奈佐は立ち上がる。「佐伯くん」
「お参りですか?」
「え?」
周囲を見て、奈佐は息を吐いた。ここは、幡多神社だ。佐伯くんのお家……?
奈佐は、明かりが設置されている手水舎のかげに、うずくまっていたらしい。どうやってここまで来たんだろう。記憶がない。
積がにこっと笑った。「先生のお宅、こっちじゃないですよね」
「え、ええ……」
「文化祭の成功のお祈りですか」
「違うの、あの、追いかけられて」
どうしてだか、奈佐は積に、そんなことを喋ってしまっていた。きっと、自分でもなにがあったのかよくわからないし、整理したいのだ。
「塀がずっと続いてて、それで……ああ……」
「浅井先生?」
「あれだったんだ」
積が小首を傾げる。奈佐は笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからず、額に手を遣った。
思い出した記憶のなかの、奈佐を追いかけてきたものは、奈佐が描いた飛び出し注意の看板の子どもだったのだ。