きらきら
「なんか、きらきらするんだよね」
隣のクラスからやってきた小早川瑞は、そう云って首をひねった。
出海ことみは、隣に座る佐伯積と目を合わせる。それから、積の机に軽く腰掛けた瑞へ目を戻した。
「小早川さん、きらきらって?」
「帰り道で、きらきらしてるところがあるの」
「きらきら」
「うん」
瑞の話はごく単純だった。
帰り道で、ふと、視野がきらきらするのに気付く。そうすると、しばらく歩くまでそのきらきらが続く。視野がきらきらしている間に、たまに笛のような音を聴くことがある。
「鳥じゃなくて?」
「笛。こないだ、TVでクラシックのコンサートやってて、あのきらきらした楽器あるでしょ? 銀色のやつ」
「もしかして、フルートかな」
「そうそれ。それの音に似てたの。でも普段は、そういう音がするところじゃないんだよねえー。なんだかそれを聴くようになってから、ついてない気がするの。風邪で試合出られなかったし、それでレギュラーも落ちちゃって、きーちゃんにとられちゃったし。あ、きーちゃんって、木下ユカリね。佐伯くん達とは別の小学校だっけ?」
「小早川さんと同じなら、俺ともことみとも違うよ」
「そっか。ああ、だから、調べてくれない? 佐伯くん、出海さん。あれの所為でわたし、調子が悪いんだもん。うまくいったら、ふたりのおかげで助かってって宣伝してあげる」
瑞はにこにこしている。
「特になにもないね」
卓球部があるからあ、と案内はしてくれなかった瑞だが、ふたりは瑞から聴いて、彼女の通学路を歩いていた。学校からはもう随分離れたが、視野がきらきらすることも、フルートの音が聴こえてくることもない。
「特に害もないみたいだし、放っておいても大丈夫じゃないかな」
「なにか、感じる?」
「なんにも」
積は肩をすくめ、それからふと、考え込むように頭へ手を遣った。その顔には眼帯が斜めにかかっていて、左目は覆い隠されている。しばらく前に怪我をしてから、積はずっと眼帯をつけていた。
「つみくん、それ、問題ないの?」
「うん?」
「視力」
「ああ、家では外してるよ」積は頷く。「安全だから」
なにもなかった、と云っても、瑞は納得しなかった。
「じゃああのきらきらってなに? 音は?」
「さあね」
「さあねって……こういう変なことがあったら、佐伯くんならなんとかしてくれるって聴いたから相談したんだけど。なによ、全然役に立たない」
瑞はふんと鼻を鳴らして教室へ這入ってしまった。
積とことみは顔を見合わせ、自分達の教室へ戻る。「ことみ」
「うん」
「占ってほしいことがある」
ことみの占いはあたる。
勿論、すべてあたる訳ではない。しかし、「確定済み」の事柄には強かった。例えば、野球部の次の練習試合の結果は、とやって半分もあたらないが、この前の日曜の練習試合の結果は、なら、七割はあたる。
ことみは積の依頼で占いをした。
小早川瑞は右手の親指を骨折し、卓球部を一時休むことになった。
気分はよくない。このところ、ついていないことばかりだ。レギュラーは外される、成績が落ちて親に叱られる、好きな先輩は別のひとと付き合う……。
それもこれも、この間の風邪が原因だ。あのタイミングで風邪をひいたから、試合に出られなくて、かわりに出たきーちゃんがレギュラーになって、わたしはこんな怪我までして。
それに……。
「小早川さん」
「はい!」
瑞ははっと顔を上げる。
体育館の隅だ。瑞は、卓球部の練習には参加できなかったけれど、練習を見ていたかった。せめて姿を見せていないと、卓球部のみんなに忘れられそうで、いやだった。
話しかけてきたのは主将だ。彼女は苦々しい表情で、腕を組んでいる。ついこの間、レギュラー落ちに納得いかなかった瑞が抗議すると、彼女は辛辣な調子で瑞を咎めた。
「練習が気になるのはわかるけど、あなたが居ると集中できないって子が居るのよね」
「え……」
「悪いけど、怪我が治って練習に復帰できるまで、こないでもらえるかな?」
瑞はなにか云いたかったけれど、結局なにも云わずに体育館をあとにした。
鞄を肩にかけ、とぼとぼと歩いていると、佐伯積が校門辺りに居るのに気付いた。瑞は走り抜け、積を無視した。
瑞は走る。
あの子、多分、わかってる。わたしがどうして相談したか。
「小早川さん、危ないよ」
右手をひっぱられ、瑞は尻餅をつく。骨折した指がじんじんと痛い。
意地悪くも瑞の右手をひっぱったのは、積だった。尻餅をついた瑞を見下ろして、微笑んでいる。
「なにする……」
文句を云おうとした瑞に対し、積はついとなにかを指さす。
そちらを見て、瑞はあおざめた。瑞は、車道へ向かって歩いていたらしい。鼻先で車が行き交っている。危うくはねられるところだ。
「わたし」
「ぼんやりしてたみたいだね」
瑞は積の声を聴きながら、ゆっくりと立ち上がる。積の顔を見ることができない。こわい。
積はゆっくり、低めた声で喋る。
「小早川さん。君が云ってたようなことはなにもなかったよ」
「は?」
「まあ、正体がはっきりしない、もやもやしたものだし、俺の感覚だけに頼ってるから、確実になにもないとは云えない。けど、なにも感じなかったし、なにも起こらなかった。だからほとんど確実になにもないと云っていい」
「なによ」瑞は吐き捨てる。「あんたが無能なだけでしょ」
「そう云われたのかな?」
瑞は振り返る。
「君がなにをしたいのかは、憶測だけど」
「ちょっと」
「君のかわりにレギュラーをとった木下さんって、小学生の頃はフルートをやってたそうだね」
「なによ」
「君と木下さんは小学生の頃から知り合いで、彼女がフルートをしてたことも知ってる。フルート自体も知ってるよね。きらきらっていうのは、フルートがきらきらしてるから、それからの連想かな」
瑞は口を噤む。こいつにこれ以上、なにも云ってはいけない。なにも。
積はにこにこしていた。
「木下さんに呪いをかけられたとか、木下さんの生き霊の所為で風邪をひいたとか、そんな結果が出ることを望んでたのじゃない?」
瑞は右手を振りかぶり、積の頬をひっぱたいた。
親指が痛い。
積は頬を軽く撫でている。
「その指も、自分でやったの?」
「黙って」
「レギュラーに戻れなかった理由が必要だもんね」
「黙れ!」
瑞は泣いていた。瑞に叩かれた積は笑っているのに。
右手の親指は、家のドアにはさんだ。油圧式のドアは瑞の親指の肉を裂き、骨を折った。
成績が振るわなくても、卓球部のレギュラーであるうちは叱られなかった。
レギュラーなら試合に出られて、先輩とも話せた。
わたしはきーちゃんよりも上だ。
「小早川さん、そういう怪我は、治ったってあとがつらいよ」
「あんた、なにさま」
「さあね。でももう辞めたほうがいい。自分を傷付けたいなら停めないけど、木下さんまでまきこむのはだめだ」
「なによ!」瑞は叫んだ。「わたしの心配をしなさいよ!」
「やだよ」
積は声をたてて笑った。瑞はもう一度、積を叩こうとしたが、避けられた。
「それは俺に云うことじゃない。ほとんど無関係の俺が、どうして君を心配しなくちゃいけないのさ。木下さんは、君に変な濡れ衣を着せられそうになったし、こっちは片棒担がされそうだったみたいだから、被害者同士ってことで同情するけどね」
「被害者はわたしよ! あの子が居なかったら」
「君以外の別の誰かがレギュラーをとったよ」
瑞は黙った。
積はもう笑っていない。
「俺はいいけど、ことみに余計な心配をさせないでほしいな。彼女、いい子だからね」
積は瑞の手をひき、歩道の中程まで移動させる。
「俺じゃなくて、親でも先生でも、友達でも、それこそ木下さんにでも云えば?」
「……え?」
「心配してって。俺は絶対にしないよ。君みたいなやつは嫌いだから」
積は瑞の右手を軽く叩いてからはなれていった。
瑞は痛みに顔をしかめ、積のせなかを睨む。
「じゃあ。もう二度と話さないと思うけど、厄介な幽霊にはならないでね、小早川さん」
取り残された気分で、瑞はうずくまり、声をあげて泣いた。
小早川瑞はしばらくして、卓球部のレギュラーに復帰した。今は木下ユカリとダブルスで活躍している。