二組の夫婦①
蓮之助と華が、数カ月ぶりに徳島の柳生家に帰ると、子供たちがワッと泣いて飛びついてきた。
「何です、家法まで……。男の子でしょう」
華が優しく諭すが、家法は、しがみ付いて離れなかった。
「母上、長らく有難うございました。これで、大きな事件でも起こらぬ限り、華を連れて行くことはないと思います」
「良かった、一安心ですね」
千代は、一人で留守を守った辛労でか、ほっとしたその顔には、少しやつれが見えた。
「その方は?」
千代が、蓮之助たちの後ろに居る、頭に包帯を巻いた鋭い目の女を訝しげに見た。
「お母さま、この方は佐助さんです。暫くここで、頭と足の傷の治療をしますので、面倒見てあげて下さい」
佐助は挨拶するでもなく、横を向いたまま黙っていた。千代はそんな彼女の腕を笑顔で取って、家の中へと案内していった。
旅の埃を落とした蓮之助達は、暫し寛いだ後、嬉しそうな子供達と夕餉の席に着いた。だが、佐助は何時まで待っても姿を見せなかった。
「彼女は、家族などというものには縁のない忍びです。こういう席にはまだ馴染めないのでしょう」
福丸が気を利かして、彼女の部屋に膳を運んでいった。
「どうした佐助、頭の傷が痛むのか?」
福丸が膳を置くと、
「あの華という女は、何故、儂を助けたのじゃ、幸村様の後を追って死ぬつもりでいたのに、死に損なってしもうた!」
興奮気味の佐助が、誰に言うともなく言った。
主君を殺され、自分も打ちのめされた佐助にとって、華は憎むべき仇なのだが、何故か、彼女への憎しみが湧いて来ない自分に、戸惑っていたのだ。
「蓮之助様ご夫婦は、人を殺さぬと決めておるのだ。少なくとも、殺そうとして殺した事は無いと思う」
「儂にはそれが分からぬ。今は戦国の世、相手に勝つという事は殺すという事ではないのか!?」
「確かに忍びである俺たちは、そう教えられて来た。人の情というものを捨てて生きて来たのも事実だ。だが、儂は日光という坊様の話を聞いて考えが変わった。儂たちは、その教えのままに、日夜、法を唱えておる。法を唱えれば命が浄められ、喜びが湧いて来るのだ。お前もやってみれば解る。お前の疑念の答えも必ず見つかる筈だ」
「儂は、神仏などに頼る気など無い!」
佐助は、吐き捨てるように言って福丸を睨んだ。
「……」
福丸は、小さくため息をついて部屋を出て行った。
蓮之助の家では、家族が集まって、朝と夕に法を唱えている。
旅の僧、日光に勧められて、最初は蓮之助と華が法を唱えだしたのだが、今では、一族郎党が帰依して、法を唱えていた。
佐助は毎日、仏間から聞こえてくる法を、怪訝な顔で聞いていたが、その音声を聞いている内に、ささくれ立った自分の心が落ち着くのを感じた。
数日経つと、佐助はこっそり仏間に入り、小さな声で法を唱えてみた。
唱えるほどに我が身が浄化され、生きる力が湧き出てくるの感じた彼女は、何かに取り付かれたように、日がな一日、法を唱えるようになった。
だが、人の心を取り戻してみると、今まで殺戮を繰り返して来た罪が浮かび上がり、それらの悪行の一つ一つが、彼女の心を苛みだしたのだ。
眠れぬ日が続き、食事も喉を通らなくなった佐助は、目は窪み頬はこけていった。それでも、法を唱える事を止めなかった佐助は、ある日、自分を苛んでいた地獄の苦しみがパッと消えて、目の前が開けたような感覚と共に、歓喜が五体を駆け巡るのを感じたのである。
佐助は、人を殺すために生きねばならなかった、己が宿業の鉄鎖を、この時、断ち切ったのだ。
(勝った!)
佐助は心で叫んで、滂沱と流れる涙をどうしようもなかった。
夜叉の顔から穏やかな女性の顔へと変わった佐助は、その日から、食事も皆と一緒に食べるようになった。
「佐助、お前の本当の名前は何というのだ」
蓮之助が、ご飯を食べながら、唐突に尋ねた。
「子供の頃は、静と申しておりました」
「そうか、では今日からはお前は静だ。今後の事は自分で決めるがよかろう。お前ほどの腕なら何処ででも使ってもらえようが、儂らと居たければ家来になるが良い」
「出来ますれば、蓮之助様の元で働きとうございます」
「よし分かった、召し抱えよう。当面は福丸に付いて学ぶがよい」
静の新しい出発に、華たちも暖かい笑顔を送った。
次の日、蓮之助は、静を呼んで木剣で立ち合った。静は懸命に蓮之助に挑んだが、彼を一度も捉える事は出来なかった。彼女は、自分の動きが思いの外、鈍くなっている事に気が付いた。
「どうだ、今の実力が分かったか。気功剣を使っても同じことだ。非情な夜叉であったお前は、もう居ない。武士として生きるなら、夜叉の頃の実力が出せるようにならねばならん。これからは、他人の為、世の為にとの強い思いが大事となろう。励め!」
「御指南、肝に銘じます!」
その日から静は、福丸を相手に修行を続け、数か月後に自在に夜叉の剣を振るえるようになった。彼女の剣の力の源は、非情の心から、他人への慈しみの心へと変わっていた。




