地獄道の終わり
「大御所様!」
家康の元気な顔を遠目に見て、安堵の色を浮かべて走ってくるのは、二千の兵を率いて、風魔の里から駆け付けた、井伊直政だった。
「ご、ご無事で何よりでございます!」
直政は、息を切らしながら傍に来ると、涙目の顔を家康に向けた。
「直政、よう駆け付けてくれた。風魔の残党は蓮之助たちが倒してくれた。親子揃って蓮之助夫婦に助けられたわ。まったく不思議な者達じゃ、如何なる縁かのう……」
家康は、そう言いながら、どこか遠くを見るような眼になった。
「直政、秀忠救出の役目、大儀であった。して秀忠は?」
「秀忠様は江戸へ向かわれました。駿府城もこの有様では修復に時間が掛かりましょう。その間、大御所様も江戸城で過ごされましては?」
「うむ、そうするしかあるまい。秀忠め、目が飛び出るほどに叱りつけてやらねば気が収まらぬ。
忠次、城の修復は任せたぞ。蓮之助夫婦の傷が癒えたなら江戸へ来るよう伝えてくれ。徳川を救ってくれた大恩人じゃ、くれぐれも粗相のないようにな」
「ははっ!」
家康は、家老の酒井忠次に念を押すと、井伊直政と数千の兵を伴い、江戸へと出立していった。
蓮之助と華は、数日眠り通した後、十日余りで傷が完治すると、家康に暇の挨拶をするために江戸に向かった。
江戸城では、家康、秀忠、そして、蓮之助が斬った松平清道の父である松平忠明が、二人を出迎えた。
「蓮之助、よくぞ我ら親子の命を救ってくれた。今、徳川があるはお前たちのお陰じゃ、この通り礼を申す」
家康は上段の間から降りて蓮之助の前に座ると、深々と頭を下げた。驚いた蓮之助と華が慌てて家康の手を取った。
「おお、そちが華か、美形じゃのう。此度はお前の剣で勝てたと聞いておる。よくぞ蓮之助を助けて戦ってくれた。礼を言うぞ」
「大御所様、もったいのう御座います」
家康が華の手を握って力を込めると、彼女は恐縮して顔を伏せた。
「うむ、良き伴侶を持ったな蓮之助」
「私には過ぎた妻にございまする」
家康は目を細めて二人を見て、うんうんと頷いた。
「例の物をこれへ!」
家康の合図で、近習の者が四振りの刀を運んで来た。それは、見事な拵えの刀で、金色の葵の御紋が刻印してあった。
「そち達に刀はいらんそうだが、これを受け取ってくれ。これは、この家康自身じゃ。世の為に、この刀を振るってほしいのじゃ」
「この命のある限り、夫婦で世に尽くしてまいります」
二人が揃って、うやうやしく頭を下げた。
「よくぞ申した。頼むぞ!
それで、これからどうするのじゃ? 望みの仕事があれば申せ、何なりと叶えるぞ」
「はい、当面は徳島に住み、柳生の一人として叔父上(宗矩)の手伝いが出来ればと考えています。何か事あらば、いつでも駆けつけます故、ご安心ください」
「相分かった。宗矩には、儂から話しておこう。秀忠、お前達も何か声を掛けてやれ」
家康に促され、秀忠が居住いを正した。
「蓮之助。清道の件以来、刺客を送り続けた儂をお前は救ってくれた。そちの忠義も知らず、将軍として恥じ入るばかりじゃ、許せ」
将軍秀忠が深く頭を垂れた。
「上様、お手をお上げください。本意ではないにしろ、私が将軍家に刃を向けたは紛れもない事実。これからの事はその罪滅ぼしと心得、励んで参る所存です」
「うむ、頼りにしておるぞ」
秀忠が頷き、隣に座る松平忠明に視線を送ると、蓮之助も松平忠明の方に向き直った。
「松平忠明様には、この席をお借りして心よりお詫び申し上げます。お望みとあらば、この命、差し出す覚悟で参りました」
蓮之助と華は、畳に頭を擦り付けて忠明に詫びた。
「……蓮之助、もう良い。そなたの忠義の前には儂の私怨など消え失せたわ。清道の事は不問と致す、徳川の為に励むが良かろう」
松平忠明が、蓮之助に微笑みかけた。
「忠明、よくぞ申した。それでこそ徳川の一門ぞ。今日はめでたい、皆天晴じゃ!」
機嫌のいい家康に送られて、蓮之助と華は江戸城を後にした。
港への街道を歩きながら、蓮之助と華は、三年に及ぶ徳川宗家との地獄の闘いが、今終わったのだという感慨が、実感として湧き上がって来た。
笑顔で語り合う二人を祝うように、空には紺碧の青が広がり、一片の雲さえ無かった。




