穏やかな語り口は、微睡みを誘って…06
「ねえ、何か聞こえない?」
あまりに唐突に投げられたその質問が誰に向けられたものなのかわからず、バイト中の私は手を休めないで作業を続けた。返却されたDVDやビデオを所定の位置に戻すという単純な作業だ。
「ねえ」声に苛立ちが混ざるのがわかった「何か聞こえない?」
「え、私?」
その声が向けられていたのは私かもしれないと思って、面食らって周囲を確認してみたら案の定、私と声の主以外の人影は確認できなかった。
私は声の主の顔を漠然と確認した。知らない顔ではなく、私と同じくここレンダルビデオショップ『COE』でバイトをしている女性だった。
何を話して良いのかわからず、私は黙り込んだ。すると、周囲は静寂に包まれた。どうやら店の前の道路を走る車は一時的に途絶えているらしく、どこか遠くから聞こえてくる犬の遠吠え以外には、一切の音がないように錯覚するくらいに静かだった。
その沈黙が気まずかった私は、記憶の底から彼女の名前を引っ張り出そうと試みた。
「え、と」そこでようやくしっかりと目を見て「三枝さん、よね」
性格のきつさがそのまま表れていそうなやや吊り上がった目が苦手で、それは私が今まで彼女と会話をしていない一つの要因であった。今はその目を隈が縁取っていて、よりきつい目をしていた。私は目を逸らしたいという気持ちを抑えるのに必死だった。
「そう、三枝サチコ」早口でまくし立てるように言った。「貴方は……櫻井さんよね」
胸に付いている名札を見る仕草を隠そうともしないで、まるで国語の教科書を読み上げるみたいに私の名を呼んだ。
「ねえ」サチコは先ほどの科白を、聞き取りにくいくらい早口で繰り返した。「何か聞こえない?」
三度も聞かれたその言葉の意味が私の中で明確な像を結ばず、首を傾げた。
ち、と舌打ちした三枝さんは、さらに目つきを鋭くした。そんなに不機嫌になられると、何だか悪いことをしたような気になる。
「湯坂さんに聞いたの。貴方って」そこで僅かに言い淀み「お化けとかそういった方面に詳しいって」
湯坂さんというのは、私と同じゼミに所属している人で、何度か会話したことはあるだけで、特に親交があるではなかった。そんな湯坂さんにそういう風に言われているのは、やはりショックではあった。私がゼミで何だか腫れ物を扱うみたいに接せられているのは、そういった理由からなのかもしれない。
「貴方、同じ大学なの?」
サチコはもうすっかり耳に馴染んだ大学の名を口にした。どうやら学部が違うらしく、顔を合わせたことがないのは、まあ当然と言えば当然だった。
「そう、それで?」
「だから、何か聞こえないかって聞いてるの」
「何かって、何よ。貴方の声なら聞こえているわよ」
「そうじゃなくて!」
ややヒステリックな声に、少したじろいだ。まるで何かに追い詰められているような、悲鳴に似たその声からは少なくとも、心霊関連に詳しいといった噂を聞きつけたから、からかってやろうという風ではなかった。
「だって、他に聞こえるのは犬の鳴き声くらいじゃない」
サチコが息を呑む気配が伝わってきた。そして私は思い出す。そういえば、この辺に犬を飼っている家はなかったのだと。いや誰かが散歩しているという可能性はあるのか。
だが、その可能性をサチコは切り捨てる。
「本当に、湯坂さんの言ったとおりなのね。貴方は」
その言葉は私に、普通の人にはその犬の鳴き声が聞こえないのだと悟らせるのに十分だった。
私はおそらく自分に向けられるだろう奇異の視線を想像して泣きたくなった。今まで何度も経験してきたけれど、身体の芯から凍りつかせようとするその視線には、いつになっても慣れはしない。私は身体を強張らせて、やってくるであろう辛さに耐えようとした。だが予想に反して、私に投げかけられたのは少なくとも、化け物を見るかのような視線ではなかった。
「お願い、助けて欲しいの!」
必死に、縋りつくかのように、私の肩に両手を置き、前後に揺すった。まるでそうするのが必死さを証明する唯一の術だと言わんかのように、サチコは必死に懇願した。
お願い。怖いの。助けて。
何度も繰り返されるその言葉は、何度も聞いてきたものだけれど、今までのとニュアンスが違っていた。
それは、サチコが怖いと言っているのは、私ではないという点だ。彼女は私を頼っているのだ。頼られるのが嬉しくないと言うと嘘になる。だって私を拒絶しない誰かなんて、本当に久しぶりだったから。だから、私は彼女の申し出に首を縦に振ったのだった。
こうして私は三枝サチコとの間に縁が出来た。しかしこの段階ではまだ、厄介な居候を抱え込む未来は思い描けない。全てはその日の帰り道で起きたある出来事のせいなのだ。