穏やかな語り口は、微睡みを誘って…03
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「別れるはずだったんだけどな」と親友の栢山秋次は整った顔立ちを大きく崩し、頭を抱えて唸るようにして声を絞り出した「どうしてやっちゃったのかなあ、俺は」
頼みごとがあって訪れた友人宅で、僕はどういうわけか彼に相談を受けていた。それは僕にしてみれば、今日の朝飯は何だったかと考える以上にどうでも良い相談だったのだが、彼にしてみれば少なくとも今日の晩飯の献立くらいには価値があるようだった。
栢山は顔を上げて、縋りつくようにこちらを見た。いつも思うのだが、大して違うものを食べてはいないのに、どうしてそのように端正な顔立ちをしているのだろう。世の中というのは不公平だと思わないではいられない。
しかしここで栢山にそのような不平不満をぶちまけた所で、自分の劣等感を曝け出す結果しか齎されないのは想像に難くないので自粛しておく。それこそ、彼にしてみれば今朝のごはんの献立よりもどうでも良い話に違いないのだから。
えっと、何の話だったっけ? 彼の真剣な瞳に、その言葉を飲み込んだ。こちらも頼みごとがある以上、真剣に相談に乗っている体を取り繕わないといけないのである。
僕は記憶を呼び起こそうと天井を見た。ぶら下がっている働き者の電球が、必死に部屋を明るくしていた。フィラメントが焼き切れるまで電気を流し続ける彼の人生は、脳が機能を停止するまで生き続ける僕達の人生とよく似ている。
そもそもの発端は去年の秋の終わりごろ、僕と桔梗さんと栢山と彼の彼女――岡本さん――とでボーリングに行った日だ。
その日、初めて僕と桔梗さんは岡本さんと顔を合わせたのだった。パサパサの金に近い茶髪を後ろで一つにまとめていた、零れ落ちそうなくらい大きな目をした可愛らしい女性だった。話をした限りでは感じもよく、これから上手く付き合っていけそうな気がしていた。
しかしこちらが相手にとって良い感情を抱いたからといって、向こうもそうだとは限らないもので、彼女は僕と桔梗さんを快くは思わなかった。
ボーリングを終えた後、栢山が愛車で岡本さんを送っていた時に、あの二人とは性格的に合わないといったような旨の科白を、彼女がぽつりと漏らしたそうだ。
僕ならば、相手の目の前でそれを言わずにいた彼女の良識に拍手を送ってあげたいくらいなのだけれど、栢山にとってはその言動は許し難いものだったらしい。それで二人が少し揉めたという話を、後になって栢山から聞いた。
その些細な喧嘩では別れるには至らなかったけれど、その些細な擦れ違いが、岡本さんから彼の心が離れていく要因の一つとなったのは事実だ。それがなければ受け流せていたかもしれない瑣末な問題さえもが二人の間に亀裂を走らせ、ついには決壊してしまう。そして先日、栢山は岡本さんに別れを突きつけたのだ。
「別れようって言って、どうしてやっちゃうのかな。腹が黒いだけじゃなく、息子も黒い栢山クン」
茶化すように、クンに強めのアクセントを置いた。栢山はむすっとした様子で唇を尖らせた。
「いや、別れようっつったんだけどさ、あいつ帰れって言っても帰らなくて。次の日に仕事あるし早く寝ないといけなかったんだけどよ、いつまで経っても帰らなかったからさ、もう知らんって先に寝たわけ。俺、もう寝るから。鍵はいいから、そのまま出て行けよって言ってな。したら、うとうとした頃に布団に入ってきて、背中に身体を寄せてきてな」
栢山はそこで間を置いた。僕はその光景を想像しようとして止め、目だけで話の続きを促した。
「そうなると、こうムラムラとしてきて」
「やっちゃったわけね」
「一緒にいると、そういうことになるとは言ったんだぞ。だから早く出てけって。それなのに、いいって言うからさ~」
僕は黙り込んだ。何も彼を軽蔑したわけではない。僕には岡本さんの気持ちはわからないが、栢山の気持ちはよくわかったからだ。
若い男にはどうしようもなく女性が必要なのだ。それが別れようとしている彼女であろうと、伏せた目にかかる睫毛や憂いを帯びた表情なんかに欲情してしまうと、もうそんな余計な関係は目に入らなくなる。
だから同じ布団に入ってきて、やっても良いなんて条件をぶら下げられると、余分なものは濾過され、別れようとしている恋人は抱ける女としてしか認識されなくなってしまうのだ。抱ける女をつまらない意地で抱かなかった馬鹿を、僕は一人だけ知っているが、栢山にそいつと同じ生き方をさせるのは、土台無理な話だろう。
僕のそんな愚考に気づこうはずもない栢山は、気まずい沈黙に追い立てられるように口を開いた。
「まあ、情の薄いお前にはわからないだろうけどな」
本当に情に厚ければ、後腐れのないように別れるのが一番ではないかと思うのだが、間違っているだろうか。僕は喉元まで出掛かっていたその言葉を飲み込んだ。
何故なら、それは栢山とて理解しているはずだからだ。正しいからといって認められるわけではない。そしてそれはぐうの音も出ないくらいに正当であるために、指摘されると腹も立とうというものだ。
だから、なのかもしれない。栢山には悪意はなかったのだろうけれど、情が薄いと指摘されて小さな棘が胸に刺さったような気になるのは。
少しだけ頭にきた僕は、その苛立ちを紛らわせるために、ささやかな復讐を敢行した。
「あ、ゴキブリ」
それは勿論嘘だったのだけれど、栢山は歪な笑みを顔に貼り付けたまま固まった。それからゆっくりとこちらに顔を向け、退治してくれと声に出さずに口を動かすだけで訴えてきた。
僕は十分な間をとってから、実は嘘だったのだと告げた。
栢山は手近な所に放置されていた雑誌を投げつけてきた。避けられない速さではなかったのだけれど、黄色い布で覆われたふくよかな胸を強調するかのような官能的なポーズをしたグラビアアイドルの写真が目に入った僕は、甘んじてその雑誌を受け入れた。
「悪趣味な嘘を吐くな」
「そんなに嫌いなら部屋の掃除くらいしたらどうなの」
栢山の部屋はお世辞にも整理整頓が行き届いているとは言い難く、もしもお世辞できれいだとでも言おうものなら嫌味にさえ聞こえてしまうくらいに汚い。踏み場もないくらいに其処此処にうず高く積み上げられている雑誌は、まるでピサの斜塔のように傾いでいた。だからといってイタリアにいるような風情は微塵もなく、良くて整理の行き届いていない古本屋、悪く言うなら資源ゴミ回収日のゴミ捨て場だろうか。
そんな片付けられない男な栢山であるが、生ゴミやお菓子の包装紙なんかの始末だけはきちんとやるのである。同じように本を片付けられれば部屋が散らかる心配はないのに、何度言っても彼はそれを実行しようとはしない。
アリクイにアリを食べるなと言うくらいに、本の整理整頓は栢山にとって無茶な注文なのかもしれなかった。そんな彼に意地でも片づけを強要しようと思えるほど僕は頑固ではなかったし、それほどの思いやりも持ち合わせてはいなかった。
「それはさて置き」栢山は強引に話題を戻した。「俺はどうしたらいいと思う?」
人に意見を求める場合、大抵はもう自分の中で意見を固めていて、その後押しをして欲しいのだと聞いたことがある。そういうわけで、彼の望む返答をしようと思ったのだけれど、残念なことに、僕には彼がどうしたいのかがわからなかった。なので、彼がどうしたいのかを聞いてみた。
「栢山はどう思う?」
「やっぱり、やり直すべきじゃないかな、と思う」
歯切れ悪くではあったけれど、栢山はそう答えた。僕はそれを聞いて力強く頷いた。君の言うとおりだ、是非そうすべきであるといった意味合いを含めて。
「マジかよ」と栢山は力なく項垂れた。
どうやら本心ではなかったらしい。僕は内心で舌打ちしながら、彼に助け船を出した。
「でもさ、好きじゃないのなら、別れるのが彼女のためにもなるんじゃないかな」
彼女のため、という部分を心持ち強めに言った。
「いや、嫌いじゃないけどさ」
船は届かなかったらしく、栢山は煮え切らない返事をして腕を組んだ。
「嫌いじゃないなら別れなきゃいいんじゃないの」
「それはそうなんだけどさ」
でも……と言いよどむ栢山。別れたいけど別れたくないという相矛盾する感情が同居しているようだ。復縁か破局か、そのどちらに天秤が傾くか。その皿のどちらに錘を置くかを決めるのは、少なくとも僕ではない。
「まあ、僕が何を言ってもしょうがないよね。決めるのは君と、岡本さんだから。よく話し合うべきだと思うよ」
話し合うか、と消え入りそうな声で呟いたっきり、栢山は黙り込んだ。その沈黙の時間はけして気まずいものではなく、彼が考えを纏めるまでの時間を、僕は先ほど受け取った雑誌に目を通して過ごした。扇情的なグラビアアイドルのたわわな二つの丘を眺めていると、腹の下の辺りに小さな違和感のようなものを感じた。
ああ、やっぱりそうだ。僕は一人で納得した。人間性なんて関係なく、僕らはこうして欲情出来るのだと。抱けない女でこれなんだから、抱ける女がいると、僕だって同じ行動に踏み切っているだろう。何しろ僕はもう、思春期まっさかりな高校生ではなく、性に飽くなき探求心を燃やす大学生なのだから。
「取りあえず、あいつと話してみるわ」
どうやら彼なりの答えを得たようで、その表情はさっきまでよりも比較的晴れやかに見えた。
「それは良かった」
手にしていた雑誌を近くの雑誌の塔の上へ置いた。そのせいで、絶妙なバランスを保っていた雑誌の塔が大きく揺れた。僕は雑誌の塔が倒れないように支えながら言った。
「ところで、今度はこっちの話をきいてもらっていいかな」
「ああ、そういえば頼みがあるって言ってたっけ。いいぜ、言ってみな」
「君の式神を借りたいんだ。犬の鳴き声の真似が得意だったり、化けるのが得意だったりすると助かるんだけどね」
なんだそりゃ、と栢山は素っ頓狂な声をあげた。
「実はね」
僕は栢山にこれまでの経緯を説明し、そしてこれからの計画を告げた。
「なるほど」と栢山は膝を打った「式神でその三枝っつー女を脅してやるわけだな」
「脅すというか、彼女の良心を揺さぶって自発的に謝罪をさせられないかなと思っているんだけど」
「謝罪を促す、か。言い方を変えただけなのに、脅すって言うよりずっと聞こえが良いのは何でだろうな」
確かにね、と僕は頷いた。言い方一つで、雰囲気はがらりと変わる。栢山は性欲に負けて女を抱いたと言ったがそうではなく、彼女のいじらしさに心を打たれて抱いたのだと言ったら、きっと僕の受け取り方は変わっていただろう。本質は同じだというのに、おかしな話じゃないだろうか。
君はどう思ったかな、と働き者の電球に向けて胸中で呟いた。おそらく二人の情事を目撃したであろう彼は、ただ部屋を明るくするばかりでその問いには答えてくれなかった。仕事以外のことをしない辺り、彼は筋金入りの働き者だ。そんな風には出来ず、余計なものに気を取られてふらふらしている僕は、そんな彼のあり方を羨ましくも思うのだ。