穏やかな語り口は、微睡みを誘って…02
築15年のオンボロアパートにも分け隔てなく陽光は降り注ぐのだから太陽は偉大だが、貧乏学生の部屋までは、さすがの太陽も面倒を見切れないらしい。この部屋の日当たりは最悪で、太陽の恩恵のほとんどは塗装の剥げたひびだらけの外壁に吸収されてしまっていた。格安の家賃も納得の物件である。しかし、近鉄高の原駅からも平城駅からも均等に離れているため、健脚になれるという特典だってある。もっとも、それはバイクを購入するまでのわずかの間のものであったが。
桔梗さんから電話がかかってきたのは、麗らかな春らしい陽気がようやく顔をのぞかせ始めた頃だった。日当たりが悪くたって気にしないさと自分に言い聞かせがら洗濯物を干していた僕は、その手を休めて携帯電話の通話ボタンを押した。
見つかった。主語の抜けているその言葉の意味を理解するまでに暫しの時間がかかった。三度目の瞬きをした後で、ああそういえば、と彼女に人探しを頼んでいたのを思い出した。
「ありがとうございます。随分と早かったですね」
「面倒ごとはすぐに片付けておかないと落ち着かない性分なの」
だからね、と桔梗さんは続ける。
「今から報告がてらに奢ってもらえると嬉しいんだけど。今、時間ある? これから講義あるのかしら?」
思い出したようにお腹が鳴った。そういえば、まだ昼食を取っていなかったっけ。
「いえ、問題ないです。行きます」
講義がないわけではなかったのだけれど、大学に行くつもりはなかった。大学二年生にもなると、出なければならない講義と、出なくても良い講義を見分ける嗅覚が発達してくる。今日の講義は後者に属するので、自主休講しても何ら問題はないのである。
夏休みに合否の判定を見て泣く可能性があるかもしれないが、そんな先の問題にまで気を配っていられるなら、そもそも自主休業など覚えはしない。
僕は桔梗さんに指定されたならやま大通り沿いにあるレストランへと向かった。そのレストラン前の片道二斜線の道路を挟んだ向かいにある、小ぢんまりとしたレンタルビデオ店を何度か利用した事があったため、迷わないで到着できた。
そこは全国にチェーン店を出しているレストランで、そこそこ発展している町を歩けば、同じ名前を掲げる看板をいくつも発見できる。料理が特別美味いというわけではないが、店員の愛想が他のレストランとは比較にならないほどに良い。社員の教育に重きを置いているのだろう。繁盛しているのはそういった理由なのかもしれない。味に大差がないのならば、愛想の良い店員のいる店を選ぶのは、至極当然の選択なのだから。
桔梗さんは窓際の席に座っており、テーブルの上には既にほとんど空っぽになったパフェの容器が置かれていた。チョコレートとクリームが容器についている所から察するに、チョコレートパフェを食べていたのだろう。
案内してくれた店員は、注文が決まったらボタンを押しなさいというような事を丁寧に述べて引き上げていった。
「随分とお待たせしたみたいで」と息を吸って言った「デザート食べてるってことは、とっくにご飯は終わっちゃったんですね、すいません」
「いいえ、そうでもないわ。ここに来る前にご飯は食べてきたから」
「そうでしたか」
僕は内心でガッツポーズをした。パフェ一杯の料金なんて、高が知れている。老人から受け取った財布の余剰分が僕の財布に収まるのを考えると、思わず口元が揺るんでしまう。
「ねえ、おかわりしてもいいかしら」
チョコレートパフェが入っていた器に僅かに残ったクリームをスプーンで掻き集めるのに必死な桔梗さんは、顔をあげないままそう言った。老人から譲り受けた財布の中身とパフェの代金とを比較し検討してみたところ、もう一杯くらいなら奢っても手元に僅かばかりのお金が残るという結論に達し、僕は構わないと彼女に伝えた。
桔梗さんはそこでようやく顔を上げて、悪いねとちっとも申し訳なさそうな素振りを見せずに呟いた。きっと露ほどにも悪いだなんて思ってはいないのだ。
その証拠に、視線がこちらに向いていてもスプーンはクリームを掻き集める作業にかかっていて、まるで手に独立した意思があるかのように器用に動いているからだ。つまるところ彼女の注意はパフェにのみ向けられていた。
備え付けのボタンを押すと愛想の良い店員がすぐにやって来た。
お待たせしました、ご注文はいかが致しましょう。彼女は何度も鏡の前で練習したであろう笑顔を僕らに向けた。客と店員という関係でなければ惚れてしまいそうになるくらい素敵な笑顔だったけれど、そうでなければそれが僕に向けられはしないと悲しいくらいに理解している。でもそれを改めて考えると、ため息が漏れそうになるのだった。
「このびっくりパフェってのをお願い。貴方は何を頼むの」
「焼き魚定食をお願いします」
注文を繰り返し、再び笑顔を浮かべてから彼女はテーブルから離れた。丈が膝上のスカートに収まったやや小ぶりなお尻が見えなくなるまで彼女を目で追ってから、頼んだパフェの値段を確認した。
野口英世さんが二人に、大きなコインが一枚。桔梗さんの腹に収まるパフェだけで老人から譲り受けた財布の中身がすっからかんになるのは、火を見るより明らかだった。
僕は今度こそため息を漏らした。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったのに、悪銭は身につかないというわけか。あのお爺さんに不足分の金額を催促しようにも、彼に支払い能力があるようには、到底思えなかった。
僕のそんな懊悩を見透かすように含み笑いした桔梗さんと目が合った。問題、ある? 彼女の目はそう問うていた。僕は引きつった笑みでそれに答える。いいえ、問題はありませんとも、ええ、ありません。そうよね。彼女は目を逸らしてまた残ったクリームとの格闘を始めた。
桔梗さんはどうやら僕との会話よりもパフェを胃に叩き込む方が優先すべき事柄であるらしく、一向にこちらを見ようとしなかった。手持ち無沙汰な僕は、何とはなしに彼女の観察に興じた。
桔梗さんは際立って美人というわけではないが顔立ちは比較的整っており、これで愛嬌があれば男が放っておかないだろう。しかし悲しいかな彼女は割りと淡白な性格で、けして愛想が良い方ではなかった。そのせいか、僕は彼女から彼氏がいるという話を聞いた記憶がない。とは言っても、彼女が逐一恋人の有無を報告しなければならない義務はどこにもなく、ただ単に僕が知らないだけの話なのかもしれないけれども。
小柄な体型で、それほど身長の高くない僕と並んでみても、頭ひとつ分は彼女の方が背が低い。
清潔感のある白いブラウスと紺のジーンズにその身を包む彼女は、ふとすると少年に見えなくもない。けれど、申し訳程度にブラウスを押し上げる二つの丘が、彼女はけして男ではないと証明していた。
「お待たせしました」
僕と桔梗さんの視線が店員さんに集まった。正確に言うと、彼女の運んできたパフェに。
なるほど、この大きさは確かにびっくりさせられる。そう素直に驚いた。嵩上げするためにコーンフレークが雨霰とぶち込まれている事や、少ない量で少しでも大きく見せる工夫が施された器に盛られている事なんかには目を瞑って。
いただきます。言うやいなや、桔梗さんは新しいスプーンで生クリームとアイスを一緒に掬い上げて口に運んだ。どうやら満足いく味なようで、口元が綻んでいるのが確認できた。
二つ目だというのに胸焼けした様子もなく、面白いぐらいに早くにパフェは彼女の胃の中に納められた。最後に残ったクリームを十分に堪能してからスプーンを置いて、桔梗さんはソファにもたれ掛かった。
「満足してもらえましたか?」
「愛だの何だのくだくだと主張する腹の立つ恋愛ドラマを観ているよりはね」
「それは良かった」
定食を食べ終えた僕は箸を置き、布巾で口元を拭った。その瞬間を見計らっていたかのように、声がかけられる。お下げしてもよろしいですか? 頷くと、爽やかな笑顔を顔に貼り付けた男性の店員は皿をさげていった。その背中を見送ってから桔梗さんは口を開いた。
「三枝さん……彼女はこのレストランの向かいにあるレンタルビデオショップで働いているそうよ」
「という事は、そこにいけば彼女に会えるわけですね」
「いいえ。彼女はここ最近、バイトに出ていないみたいなの。ゼミとサークルにも出ていなかったわ。彼女の友人――夢前さんって人に聞いてみたのだけど、先週末からずっと見ていないって言っていたわ」
「という事は、家に閉じこもっているってことになりますか。家を出ていないとなると、直接伺わないといけませんね」
「家にもいないみたいよ」
「どういうことですか?」
「彼女、どうも友達の家に転がり込んでいるみたいなのよ。確か、櫻井さんって名字の人だったわ。これがその住所」
桔梗さんはバッグからメモ帳を取り出した。ぺらぺらとページを捲り、探していた箇所を見つけると突きつけるようにしてこちらに寄越した。そこには丁寧な字で見覚えのない住所が記されていた。最後にあるメモワール201号というのは、下宿先の名前なのだろう。
これ、三枝さんの友人の家の住所ですかと目で問うと、彼女は大儀そうに頷いた。僕は彼女の許可を得て、丁寧にそのページを切り取った。
「よく、調べられましたね」
どうやったんですかと聞くと桔梗さんは、運が良かっただけなのだけれど、と前置してから意地悪に口の端を吊り上げた。
「びっくりパフェをもう一杯奢ってくれるのなら、教えてあげないでもないわよ」
その提案を丁重にお断りして席を立った。
「もう行きます」
どうするのかと桔梗さんに問うと、無言で彼女も席を立った。
会計を済ませて店を出た。
「どうも」と僕は言った「ありがとうございました」
「ああ、そうそう。櫻井さんが言っていたのだけれど」何かを思い出したように桔梗さんは手を打った。「三枝さんは用事があって家を空けていることが多いそうよ」
それから桔梗さんは、三枝さんが家にいるだろう時間を僕に告げた。
「バイトも学校も休んで友人の家に転がり込んで、何をしているんでしょうね」
その上、彼女は用事があって家を出ているという。わざわざ友人宅に転がり込む理由は何処にあるのだろう。
「さあ、私にはわからないわ」
そう言うと桔梗さんは僕と反対側へ足を向けた。遠ざかる背中に声をかけようかとも思ったが、思いとどまって僕も彼女に背を向けて歩き出した。それから直ぐに目に付いたコンビニに入り、地図でメモに記載されていた住所の位置を確認した。
どうやら地図を見る限りでは、僕は三枝さんの友人の下宿先の前を何度か通ったことがあるようだった。見覚えのない住所に少しだけ親近感が湧いた。
メモの住所に足を運んだ。西大寺のある閑静な住宅街の中に潜みように、日当たりの良い小奇麗な二階建てのハイツがあった。駅からはやや離れているものの、近くにバス亭やスーパー、コンビニやファストフード店が点在しており、割りと暮らしやすそうな場所だった。
ねずみ色の外壁の隅のほうにメモワールと表記されており、どうやらここが三枝さんが転がり込んでいる友人の下宿先で間違いはないようだった。通りから一番近い階段を上ってすぐの部屋が201号室らしい。表札は下げられていなかったが、まあ間違いあるまい。
部屋を確認した僕は、一人家路についた。空は暮れ方の薄暗さに染まり始めており、それにつれて町の雰囲気がゆっくりと変容していく。元気な少女から清楚な女性に、そして温厚な老女になるかのように。今はさながら更年期といったところか。太陽に日中のような輝きはなかったけれど、そこには包み込むような優しさがあった。