穏やかな語り口は、微睡みを誘って…01
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「貴方、死神?」
不意の声に驚き、僕は暫く口を大きく開けたまま固まった。
穏やかな語り口は、微睡を誘って…
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雲一つない空はただ青くて、天を仰ぐと陽光が眩しい。
晴天である。時刻は三時を過ぎた辺りで、日が沈むのはまだ先だ。
だというのに、猫の額のようにこぢんまりとした公園には他に人影はなく、ベンチに腰掛ける僕と老人の二人だけしかいない。
公園というのは日中、遊ぶ子供や付き添いの親、散歩にきたお年寄りの方なんかで賑わうものだと思っていたのだけれど、どうやらこの公園の様子を見る限りでは、僕の持つイメージとは一致しないようであった。
「――というわけなんだが……お前さん、ちゃんと聞いているのか?」
隣から老人の指摘が入ったので、僕は反射的にそちらを向いて笑顔を取り繕った。
「すみません。少しぼうっとしてしまいました。差し支えなければ、もう一度話してもらえないでしょうか?」
老人は眉根に皺を寄せて厭そうな顔をしたけれど、今度はちゃんと聞いていてくれよと前置きをしてから、ゆったりとした口調で話し始めた。
今度こそは聞き漏らさないように、しっかりと耳を傾けた。
「先日、近くの交差点で事故があったのを知っているかな?」
彼の話し口は、まるでこれから昼寝をする子供にお話を聞かせるようで、眠気を誘うゆるやかさのようなものを持ってた。
僕は話に相槌を打ったり、質問をしたりして、睡魔の誘惑を丁重に断りながら話を聞いた。
「えっと……はい」
何でも、犬の散歩をしていたお年寄りが車に轢かれたらしい。目撃者はなく、犯人は捕まっていない。昼飯時に入った店のおばさんが話好きだったので、聞いてもいないのに長々と話を聞かせてくれたのだ。だから事件の概要だけでなく、顔も知らない他人の性格や趣味、家族構成や飼い犬の名前までもが僕の知るところとなった。もっとも、事故自体は既に僕も知ってはいたのだけれども。
「その事故に巻きこまれてわしは――こう言うのも変な感じだが――死んでしまったらしい」
「死んだのですか」
「ああ、死んだ」
老人が神妙に頷く。自分で自分を死んだと言うその様子が何だかおかしくて、少しだけ口元を歪めた。咎められるかもしれないと彼の顔を伺ったが、その目はこちらを見てはいなかった。視線の先を辿ると塗装の剥げた遊具があったのだけれども、はたして老人がそれを見ているのかは定かではなかった。彼の目は確かに、僕が子供ならばそれで遊びたいとは思わないだろう、年季の入った遊具が映っているのだけれど、見ているのは違う景色のような気がしてならなかった。それが散歩好きの彼が四季の移り変わりの中で見てきた景色なのか、先に亡くなられた連れ合いとの思い出なのか、それとも自分の命の最期の時なのか、僕には解ろうはずもない。あれだけ雄弁にあれこれと喋ったあのおばさんも、それは同じだろう。
「ボケた爺の戯言と思われても無理はないのだが」と言って暫く黙り込んでから「……どうも他の人にはわしが見えないようでな、どうしたもんかと思っていた所に、お前さんが通りかかった」
そんなわけで声を掛けてみた、と言って老人は照れくさそうにすっかり薄くなっている頭を掻いた。
「いきなりわしが見えるか、と言われた時は驚きました」
肩を透かしておどけて見せると彼は僅かに口元を綻ばせた。
「見えます、と返された時は、わしも驚かされたがな」
そう言って、十重二十重に皺の刻まれた顔をさらにくしゃくしゃにした。
「僕は昔からそういった――霊や魑魅魍魎といったもの――を視てきましたからね。慣れているんですよ」
「生まれた時からか?」
「いえ、ある日を境に。傾斜のゆるい坂を降るように、少しずつ」
「それは、どうして?」
「切っ掛けはわかりますが、明確な理由はわかりません」
老人は感心なさそうにふうん、と気のない相槌を打ってこの話を切り上げた。それからいかにも大業そうに、事故が起こるまでの経緯について話し始めた。
相変わらずのゆったりとした口調は眠気を誘い、温かみを帯びてきた春先の空気とあいまって、瞼が鉛になったような錯覚すら覚えたほどだった。
しかもその話というのが、車に轢かれたと一言で済む話を実に回りくどくしたもので、瞼と重力の格闘が熾烈を極めたのは言うまでもない。真新しい話ならば、まだ睡魔に抗えようが、何しろ事件についての大まかな概要は既に聞き及んでいるのだ。同じ話をそう何度も聞かされるのは、さすがに食傷気味ではあった。
老人の話は再び巡り巡って公園で途方に暮れていた頃に入り、それから僕を呼び止める件に入ったようだった。ようやく待ちに待った本題に入るらしいと僕は居住まいを正した。
「お前さんを呼びとめたのは他でもない。わしの頼みを聞いて欲しいからなんだ」
「犯人を捜せというのなら、僕の手には余りますよ」
それは僕の領分ではなく、警察に任せるべきなのだ。だから先手を打って出来ないという意思表示をしたのだけれど、老人はそうではないと頭を振った。
「犯人はな、もう解っているんだ」
その言葉は予想だにしていなかったもので、意識せずにベンチから腰を浮かせてしまった。
「……本当ですか?」
じっと彼の目を覗いた。少なくともそこに嘘を吐くやましさは見つけられなかった。
僕はゆっくりと腰を降ろした。
「警察にそれを伝えろって事でしょうか? 犯人を捕まえて欲しいわけですね」
それだと証拠がいるわけで、車に轢かれた当事者が語っているのだから真実だろう、なんてのは通用しない。何かその人が犯人だと裏付ける証拠のようなものがあれば良いのだけれど。そのような考えを巡らせていると、違う違うと老人は否定した。
「死んだのに、犯人が捕まってもどうしようもないだろ。わしにはもうずっと家族もおらんし。長い間、一人だった」
老人の瞳に悲痛な翳りが差したような気がして、僕は取り繕うように言葉を吐き出した。
「家族は…いらしたのではないですか。人と犬という違いはありますが――」
家族だったのではないのか。
我ながら陳腐な科白だと思う。言ってから後悔した。
「……」
老人の視線が一瞬、ありもしないものを探すように空をさ迷った。当然そこには何もなく、青い空が広がっているだけである。
「……そうだな」
彼はやや和らげた表情でそう言った。過ごしてきた日々を懐かしんでいるような顔だった。
「……ところで、その犯人をどうしたいのですか?」
「わしは謝罪が欲しい。何も罪を悔いて悔いて悔いて死ねとは言わない。ただ、頭を下げてくれればそれで良い。出来れば、早いうちに。……ずっとここに留まれる保障はないんだろ」
言った後、目で問いかけてきたので僕は頷いた。彼の言うとおり、彼はいつまでもここに留まる事は出来ない。
気持ちは永遠ではなく磨耗する。彼をこの世に縛り付けているのが心残りや執念といったものであるわけだから、いつかそれらは擦り切れてなくなる。そしてこの世から消える。その先に何があるのかは、僕にはわからない。
「どうして犯人がわかったのですか?」
「ああ、それはな――」
そこで口を止めて、僕にカードのようなものを差し出した。受け取ってよく見ると、それは学生証だった。
記載されている大学名は割りと有名な私立大学で、僕の知人もそこに通っている。貼り付けられている女性の顔写真はその事を誇るかのように自信に満ちているように見えた。三流私大にしか入れなかった僻みというフィルターを通さなければ、おそらくは好感の持てる笑顔なのだろうけれど。
「三枝さん……ですか」僕は記載されている名前を読み上げてから老人に視線を移した「これは、どこで?」
「財布をな、落としていったんだ。その中に入っていた」
老人はベンチの後ろの植え込みを指差した。言われなければ気づかないが、よく見ると葉をつけ始めた枝に覆い隠されるようにして財布が落ちていた。
僕はそれを拾い上げて中を確認した。財布は膨れていて、さぞ中にはお金が詰まっているだろうと思われたが、お金は千円札が三枚と、小銭が少ししか入っていなかった。財布を内から押し上げていたのはレシートの束だった。身元の確認を出来そうなものは入っておらず、どうやらこの学生証だけが彼女へと繋がる糸のようだった。
「どうかな。聞いてくれないか」
老人は子供がテレビ画面の向こうの正義の味方に向けるような目をして僕を見た。期待している様子が容易に見て取れた。きっと聞いてくれるだろう。そんな風に思っているに違いなかった。けれど残念ながら、僕は彼が思っているほどに善人というわけではなかった。
「引き受けるつもりはありません」
老人の表情が曇る。彼には悪いが、僕にはその願いを叶える義務も義理もなかった。
このまま老人を放っておくわけにはいかないが、それならば無理やりにでも祓ってしまえる連中に頼めば良い話だ。人でないものを‘視る’しか出来ない僕にはそういった力はないけれど、力づくで解決出来る知り合いならば何人か心当たりがあった。
でも、そういった人たちに頼むつもりはなかった。それが何故かというと、僕の手に収まっているものを自分のものにしたかったからに他ならない。
「ですが……この財布の中身を必要経費として使っても良いなら、考えます」
老人は悪さをして叱られた犬のような顔のまま静止した。それから一瞬の間を置いて、ぶんぶんと勢いよく頷いた。
「わかりました。それなら引き受けます」
本当か、と身を乗り出す。僕は少し身を引いて、それから再び肯定の意を伝えた。
「一週間。その期間でこの女性に謝罪をさせられるかは解りませんが、話をつけられていてもいなくても、取りあえず一週間後に報告をさせてもらいます」
一週間後の待ち合わせ場所は、この公園から近く、人通りの少ない交差点。つまり彼が命を落とした場所になった。
待ち合わせ場所にも相手にも色気がないのに若干げんなりしつつ、僕はベンチから腰を上げた。相手が妙齢の女性なら、やる気も沸こうというものなのだけれど。残念でならない。
ちらりと横目で老人の座っていた場所を見たが、そこにはもう誰もいなかった。
携帯電話を取り出し、メモリーの中に入っている数少ない女性の電話番号を探した。画面に桔梗撫子という名前と電話番号が表示されたのを確認してコールする。
その女性は力づくで解決出来る知り合いの一人なのだが、調べものもこなす器用な人なのだ。無機質なコール音の五回目で、相手が電話に出た。
「もしもし。ちょっとお願いがあるんですが、聞いてもらえませんか」
「……気乗りしないんだけど」
「まあそう言わないで。聞いてくださいよ。お願いします」
「……聞くだけなら」
素っ気ないのはいつもの事なので、気にしないで話を続ける。
「人を探してもらえませんか。桔梗さんと同じ大学の人です。話のできる機会を作ってもらえると助かるのですが」
その女性の学科と学籍番号、名前を伝えた。
「まさか、合コンしたいとか言うわけじゃないでしょうね」
「そんなわけないですって」
「もし聞いてあげたとしたら、お礼はしてもらえるのかしら」
「ええ、当然です。御飯くらいはご馳走させていただきます」
ただし、あまり値の張らない場所のね、と釘を刺しておく。彼女はそれを聞いて小さく笑った。
「理由は?」
「え?」
「どうして、その…三枝さんって人を探すの?」
「霊絡みの件で、ちょっとありまして」
桔梗さんは僕の真意を測るかのように一拍の間を置いてから「いいわ、聞いてあげる」と言った。
「ありがとうございます」感謝が出来る限り伝わるような声を心がけて礼を言ってから「……どれくらい時間かかります?」
「さあね。見つけ次第、連絡を入れるわ」
「助かります。それではお願いしますね」
「ええ、それじゃあ」
返事を待たずに電話が切れた。相変わらず、すげないな。小さくぼやいて携帯電話を仕舞った。
素っ気ない所はあるものの、桔梗さんとは不思議と馬が合い、結構長い付き合いになっている。とはいってもそこに恋愛なんかの男女の機微はなく、気の合う友人でしかない。いつかそれが恋愛感情に発展するだろうかと考えてみても、僕には全くその様が想像できなかった。彼女と友人として付き合ってきた年数が、どうしようもなく僕に恋愛感情を抱かせないのだろう。桔梗さんもそうかはわからないけれど、少なくとも僕が恋人の候補として眼中にない事くらいは、付き合いの中で知れている。
僕はベンチから腰を上げ、老人が命を落としたという四辻へと歩いた。そこはけして人通りのない道ではなかった。彼が命を失おうというその時にどうして人が通らなかったのか。運が悪かったのだと言えばそれまでだけれど、そう認めたくない自分がいる。だからといって、他にどういう理由が挙げられるだろう。神様の気まぐれか。いや、それは運命を神様に置き換えただけでしかない。
ふと、見慣れない色に気を取られてそちらに目をやると、花が供えられていた。こういったものを眼前に突きつけられると、ここで確かに命が失われたのだという実感が湧いてくる。
彼がここで命という蝋燭が消えようとしている時に何を思ったのか。思いを馳せると、ぞっとする。命がその手から零れようという時には、どのような考えが頭を掠めるのだろう。
そんな疑問に答えてくれる人はおらず、春の風に吹かれて花びらが一枚、宙を舞った