或るゲーマーの食事
タカシは腹が減っていた。
朝起きて、一日中ゲームをしていた。腹が鳴ったのに気が付いたのはもう夕方で、まる二十四時間何も食べていなかった。今日は日曜日であった。
タカシにとっての週末とは、時間を気にせずゲームに集中できる二日間のことであった。平日の夜は、気の進まない飲み会や残業などで、プレイ時間を確保できるか予測できないし、ほどほどのところで早く床につかないと翌日は遅刻、もしくは体調を崩してしまう。そういう意味で週末は、朝起きて元気な状態から眠くなるまで誰にも邪魔されず、異世界に没頭できる貴重な時間であった。
だから、その大切な時間が、空腹という生理現象によって中断せしめられるのは、痛恨の極みだった。空腹は、ゲームプレイの最大の敵である。空腹が原因で集中力が途切れ、あと一歩のところでボスを倒せないのはもうごめんだった。何か食べ物を、とタカシは冷蔵庫を開いた。この四月から稼働し始めたばかりの小さな冷蔵庫には、醤油しかなかった。いや、本当は扉を開ける前から、中身が空であると分かっていた。どこかにお菓子はないか、と狭いワンルームを歩き回った。腰を曲げてあらゆる穴や隙間、引き出しや戸棚をのぞき込んでみたが、見つかったのはゴミ箱のポテチの袋だけだった。
さて、どうしたものか。タカシは腕を組み、考えた。空腹は、解決しなければならない。徒歩十分のスーパーまで行き、もやしと鶏肉でも買って炒めるか。いや、それは調理時間と後片付けまで含むと優に三十分はかかる。あと少しでステージをクリアできそう、というタイミングだったのに、今三十分も中断されるのはもったいない。惣菜にしよう。それなら調理時間は電子レンジのあたため三十秒だけでいい。……うん。よし。
そう思って玄関に向かうと、全身黒づくめのぼさぼさ頭が視界の端をかすめた。いや、これはダメだ。こんな恰好では外を出歩けない。タカシは姿見に映る自身に対して、そう呟いた。スウェットの上に一枚羽織れば何とかごまかせるかもしれないが、この爆発した髪と、金曜の朝から洗っていない顔では流石にまずい。別に誰に見られて困るという訳ではないのだが、もう社会人となったタカシは「外に出るときは身なりを整えないと失礼」という感覚を育てつつあった。
そういえば、最近あのスーパーはレジ袋が有料になった。エコバッグを持っていかなければならない。どこかにあるはずだが、探すのが面倒くさい。
スーパーに行くのは断念した。玄関からゲーミングチェアに戻る数歩の道すがら、タカシは少し落ち込んでいた。よく考えてみたら、スーパーまで往復し、食べ物を物色し、レジを通るのだ。どうしたって買い物だけで三十分使ってしまう。調理もしてたら一時間は下らない。そんなに時間がかかるのだから、スーパーに行くなんていう選択肢は、はなからなかったはずなのだ。無駄な思考に時間を費やしてしまったという事実に、タカシはさらに落ち込んだ。
その時、タカシの頭にピコーンと名案が浮かんだ。
徒歩二分のコンビニだったら、ぼさぼさ頭で、洗ってない顔で行っても良いのではないか。
太古の昔から、ヤンキーはジャージでドンキやコンビニをうろついている。俺はヤンキーではないから、世間様への失礼度で言ったら彼らより一歩マシなはずだ。だから、多少ぼさぼさ頭や汚い顔のまま外を出歩いても、世間様への迷惑度はヤンキーと同じレベルに収まるはず。
そう思い、つっかけに足を入れた。玄関のドアノブは弧を描き、屋外の空気をタカシの全身に浴びせた。
寒い。
タカシの右手は開いたときに描いた軌道をそのまま戻り、そっと閉じた。
寒い。
まだ十月なのに、こんなに寒いとは思わなかった。タカシはまだコートを用意していなかった。それもある意味、当然だ。今年一人暮らしを始めたばかりの、今まで彼女の一人も作ったことのないタカシだ。季節に合わせて服を買う、などという習慣はあるはずもなかった。春は母親が買ってきたパーカーを羽織り、夏になれば母親が買ってきたTシャツに袖を通し、秋になれば母親が春に買ったパーカーを羽織り、冬になれば母親が買ってきたジャンパーを着ていた男だ。実際に肌で寒さを感じるまで、コートが必要だとは認識しなかったのだ。
そういうわけで、スーパーに続いてコンビニも断念した。とてもじゃないが、この寒さのなかジャージで二分も歩いたら、指先から体の芯まで凍えてゲームどころではなくなってしまう。温まるためにシャワーを浴びなければいけなくなる。シャワーを浴びたら時間がかかる。というか、湯船に浸かりたくなる。とても時間がかかる。
さて、どうしたものか。こんなことを考えてるうちにどんどん時間が過ぎていく。
諦めと焦燥感に苛まれながら、タカシはゲーミングチェアに戻り、何気なくスマホを手に取った。
その時、タカシの脳髄から全身へと、電気が走った。
これが天啓。
UberEats。
そう、タカシは今や都会人なのだ。UberEatsが使えるのだ。
タカシはストアアプリをを開き、検索をし、アプリをインストールした。
そこは食のパラダイスだった。
ハンバーガー、牛丼、フランドチキン、海鮮丼、タコス、ピザ……思いつく限りの料理がそろっていた。こんなにバラエティ豊かな食文化がこの街にあるとは知らなかった。無理もない。タカシが訪れるのは、自宅、駅、スーパーの黄金のトライアングルだけだった。
しかし、画面をスクロールする中で、タカシには躊躇が生まれていた。これは果たして、買っていいものだろうか。値段が高いのである。昼休みに道端でみつけたランチと考えても、新卒の給与では躊躇してしまう値段だ。しかも、UberEatsはさらに配送料と手数料をとる。
手取二十万円に達しない彼の給与にとって、一食千円を超えるのはかなり痛い出費だ。そんな贅沢してもいいのだろうか。しかも、おいしいとか、そういう具体的なメリットがあるわけではなく、家から出ない、という便利さへの課金だ。自分で買いに行けば同じものをもっと安く買えるのだ。これは、浪費と言ってもいい。実家なら「もったいない」の一言で母親に一蹴され、マクドナルドまでチャリンコをトばしていただろう。
しかし、空腹のタカシにとって、故郷の母親の声は遠く届かなかった。
あとは四十分待つだけだった。タカシは再びコントローラを握った。
すると、ドアベルが鳴った。
UberEatsでーす、という言葉と共に、タカシにマクドナルドの紙袋が渡された。そして、配達員は代金を請求せずにそのまま去っていった。タカシはぽかんとしてしまった。そうか、クレジットカードで前払いしていたか。
なるほど確かに、これは普通の出前より楽だ。会話する必要もないし、現金を用意する必要もない。注文から受け取りまでとてもスムーズだ。タカシは、行きつけの定食屋で小銭を出す度に「いつまで人類はリアル貨幣の煩雑さに悩まされるのか」と不満を覚えていたから、自宅の玄関で煩雑な思いをせずに済んだことに、タカシは満足した。もう二十一世紀も二十パーセントが終わっているのだ。それくらい、出来て当然だろう、とタカシは一人呟いた。
そうしてハンバーガーに食らいつき、日が昇るまでコントローラを握り続けた。
そこからは歯止めがきかなかった。週末の食事はすべてUberEatsだった。一度にオーダーする金額も千円程度だったものが、二千円、三千円へとどんどん高くなっていった。どうせ食べきれないのが分かっているのに、ベーコンチーズバーガーかてりやきバーガーか悩んだら両方買うようになっていた。
そうして数か月が過ぎた頃、タカシは郵便局で気が付いた。通帳の残額が数十万円単位で明らかに減っているのである。おかしい。いや、確かに、UberEatsや外食は増えている。とはいってもしょせんは食費だ。そんな何万も増えることなどない。一回千円程度だ……とまで考えてから、タカシは立ち止まった。
いや、一回千円ではない。
朝、コンビニで朝食を買う。一回五百円を週五。週に二千五百円。
昼、ランチを食う。一回千円を週五。週に五千円。
夜、惣菜を買う。一回千円を週に散会で三千円。
夜、飲み会に行く。一回五千円として週に二回なので一万円。
週末は朝食べないので、昼夜がすべてUberEatsだ。一食三千円とすると、週に一万二千円。合計で、週に三万二千五百円使っている。つまり、ひと月はその四倍。食費に十三万円も使っていることになる。UberEatsの利便性に心を奪われたタカシは、UberEats以外でも食費に関する感覚がおかしくなっていた。値段を気にせず、その時食べたいものを食べる。支払いはすべてクレジットカードだから、浪費している、という感覚がなかった。もはや依存症と言ってもいいくらいだった。もしくは、食事が唯一の楽しみ、ストレス解消になっている状態だった。
そりゃ、貯金が減るわけだ。というか、毎食千円と仮定していても食費で毎月九万円かかっている。この時点でおかしいと気づくべきだった。
一気に後悔の念がタカシを襲ってきた。自分の愚かさを嘆いた。三千円分UberEatsでオーダーしても、そのほとんどは食べ過ぎで苦しくなりながら食べているのだ。ただ単に、浪費することが気持ちよくなっていただけに過ぎない。なぜ、そのお金を他のことに使わなかったのか。
そして、タカシは、自身の愚かさを嘆くのに飽き、責任を他者に求めた。
これは搾取だ。
平日は深夜まで残業し、自炊や趣味に充てる時間もない労働者は、週末しか楽しむ時間がない。つまり、仕事が終わったら、趣味に充てる以外の時間がなく、自炊する暇もない。そんな労働者からさらに金を巻き上げ、資本家や金持ちどもを二重に潤わせる。UberEatsはそんなシステムだ。
急に、小学校のケンカ以来の憤りを覚えたタカシは、その勢いに任せ、UberEatsアプリを削除した。きっと、クーポンはタカシのGmailアドレスに届き続けるだろう。しかし、それらが開封されることはもう二度とない。
タカシは、コートを羽織り、髪を整え、エコバッグをポケットに突っ込み、玄関を開けた。
完