前編
6000字程度です。
「なあ、宇宙でおっぱいを触ると、どんな感触がすると思う?」
「え、え、な、わからないよ、そんなこと」
俺が訊ねると、フィリップはどもりながら答えた。食堂は中世ヨーロッパの死刑場みたいに混雑しているうえに、みんなが大声で喋っているので、会話するにも一苦労だった。
「想像するんだよ。普段はこう、重力で下に引かれているわけだろ? この無重力空間だと、さてどうなるんだろう。柔らかいのか、それとも固いのか。はたまたまったく感触がしないのか」
「す、す、水中にいる時にいる時に近いんじゃないか?」
「そうか、水中か……」
俺は一瞬納得したものの、しかしすぐさま次の疑問が浮かんだ。
「水中で揉むと、どんな感触なんだ?」
「し、し、知らないよ。そ、それより、ご飯中にそんな話は辞めてもらえるかい?」
フィリップはマッシュポテトをつついた。正確にはマッシュポテトとみんなが呼んでいる黄色のゲルだ。俺はこれをマッシュポテトだとは思っていない。
一度、そのような意見を表明したことがある。
「でもこれはマッシュポテトだわ」と食事係の女の子は(お前は余程暇人なんだなという顔で)言った。他の人々はそんな文句を言ったりはしないらしい。誰もマッシュポテトの定義について真剣に考えるほど暇ではないのだ。
「せめて、メニュー表を『マッシュポテト風ゲル』とか、そんな名前に出来ないか?」
「そんなことをして誰が得をするの?」
「その方が表記として正確だろう?」
彼女は諦めたように首を振った。そして俺の後ろに並んでいたフィリップにトレーを渡した。
そんなマッシュポテト的なサムシングを頬張りながらフィリップは言った。
「そ、そんな破廉恥な話は食事中にふさわしくない」
「破廉恥?」
「そ、そ、そうだろう?」
「俺は純粋な、科学的興味を持って考察してるんだぜ?」
「そ、そ、それでも、おっぱいという言葉は、ある種の性的な意味合いを含んでいるだろう。そ、それは破廉恥だ」
ある種の性的な意味合い。俺は顔を顰めた。そんな言い方をすれば、スリッパだってマイナスドライバーだってある種の性的な意味合いを含んでいる。
そうは思ったが、しかし確かに、わざわざ飯時を選んでする話ではない。
俺はほとんど味のしない食事を腹に押しこみながら、その問題について一人で考えることにした。
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最初に思ったのは「偉いところにきちまったな」だった。その次には「まあどうにかなるさ」と思った。体の概ねの部分が楽天的にできているのだ。生まれ育った星から遠く離れて、プカプカと不格好に浮いていてもそんな風に考えることができるくらいに。
小さな窓から外を見ると、真っ暗な空間にいくつかの星が浮かんでいる。どれも異様なほど大きいか異様なほど小さいかで、遠近感が狂ってしまう。俺は調子を確かめるために何度か瞬きをしたが、やがて頭痛がし始めたので窓から目を離した。
同室の男は鼾をかきながら眠っている。それはとてつもなく大きな鼾だった。まったく調整がなされていないトランペットを、力任せに地面に叩きつけているような音だった。幸い俺はどれだけうるさくても眠ることができる性質なので気にはならなかったが、か弱い羊が彼と同室だったなら早晩ストレスで首を吊っていただろう。
彼の名前はフィリップと言った。ファミリーネームは忘れた。小柄で、肉厚だ。とりあえず肉を球状にまとめて、その上に目と鼻と口を載せて、余ったスペースに耳を付けたという顔をしていた。彼が無重力に任せて空間を流れていく様は、荒野で風に流されるタンブルウィードのようだった。
彼はサンフランシスコからやって来たと言った。
「サ、サ、サンフランシスコはいいところだ」と彼はどもりながら言った。「いろんなものがあるし、いろんな人がいる」
「サンフランシスコには一度だけ行ったことがある」と俺は答えた。
「へ、へえ! いいところだったろ?」
俺は否定とも肯定ともなく曖昧に肯いた。行ったと言っても、レインボーブリッジをちらりと見ただけだ。飛行機能付きの自動車の登場によって役割を失い、半ば廃墟と化した巨大な橋を素敵だと思えるなら、それはいい旅だったのかもしれない。
彼には喋るときに涎を貯める癖があって、ときおり唇の端で泡ができたり、酷い時にはそれを飛ばすことがあった。そういうとき、俺は扉を開けて廊下に逃がした。そのテロ行為はおそらく無数の悲劇を生んだはずだが、幸い防音機能の優れた壁のおかげで悲鳴が聞こえてくることはなかった。
彼は基本的には無口だったが、ジャズの話となると饒舌になった。たぶん、スイッチか何かが背中に付いているに違いない。ジャズの話をするときはそれをonにする。パチン、これからジャズの話をします。
もしくは、その話をするときだけジャズ評論家の霊を降ろしているか。どちらにせよ、彼は気が狂ったようにひたすら喋ることができた。
一方で彼の話は、彼のジャズへの情熱を許容するにはいささか枠が小さすぎた。熱が篭もるあまり、筋を欠き、順序がばらばらになった。そして最後には、エンジンが温まりすぎたスポーツカーがコーナーを曲がり切れずに壁に激突するように、唐突に終わった。感情が昂りすぎて泣き出してしまうのだ。
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俺たちの乗っている宇宙船は貨物運搬船だ。乗組員数337人。いくつか宇宙空間に点在するステーションに、資源を運搬する役割を担っている。
運搬する資源はヒトとモノ。乗組員のほとんどすべてを降ろし、代わりにステーションの職員を回収する。同時に、ステーションで働く人々が向こう三年間生活を行うための物資も降ろす。
俺は貨物管理システムを担当している。長い旅だ。この船自体が往復するための物資と、降ろす物資。システムによって自動的に管理されているとはいえ、何か間違いがあれば乗員全員が船ごと文字通り星屑になる。それなりに責任の重い仕事だ。
この船は一年かけて地球から金星と土星の中間あたりのステーションまで向かう。そして一年かけて地球に帰る。都合丸二年の旅だ。俺はそのまま取って返すが、フィリップはそこで三年間働く。
責任の重い仕事とはいえ、基本的にはシステムが正常に機能しているか確認するだけの仕事だ。
朝起きて、午前いっぱい使ってシステム上の表示と実際の貨物の状況に相違が無いかを確認すれば、午後からはもうすることはない。
ありていに言えば、かなり暇だ。そして暇な人間に出来ることと言えば、特に意味のない思索に耽ることだけだ。
俺はマッシュポテト味のゲルについて考え、フィリップの飛ばしてくる涎への対応法について考え、そしておっぱいについて考えた。
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「フィリップはどうして、宇宙船に乗ってるんだ?」
出会ったばかりのころ、俺はフィリップに訊ねた。俺たちはとりあえずと言うことで、連れ立って食堂に来ていた。
「ど、ど、どうしてって?」
「単純な興味だよ。深い意味はない」
「い、家が貧しいんだ。そ、それだけだよ。僕みたいな人間に出来て、もっとも割が良いのがこの仕事だった」
「なるほどね」
「リョージは宇宙船なんかに、の、乗ってるんだ? リョージの家は、か、か、金持ちだろう? 少なくとも、う、宇宙に来ないといけないほど、生活に困窮してるわけじゃないはずだ。どうして、宇宙船の、システム管理なんて仕事をしているんだ」
俺は咀嚼していたゲルを飲み込み、答えた。
「親父がね、俺が家で非生産的な活動をすることに好意的じゃなかったんだよ」
「ひ、ひ、非生産的?」
「伝わらなかったんならいいんだ。気にしないでくれ。とにかく、俺は家を追い出されたんだ。人間は常に労働をしていなければならない。労働は金を稼ぐ手段ではなく、労働それ自体が人生において目的となる。古い考え方だよな」
フィリップは「で、でも、いい言葉だ」といった後、再び目を瞬かせながら訊ねてきた。
「そ、それでも、わ、わざわざ宇宙でなくても良かったんじゃないか? いくら安全になったとはいえ、一年に十数件は大きな事故が起きてる。ご、ご両親はよく反対しなかったね」
「親には言ってない」
「え?」
「黙って試験を受けて、黙って宇宙船に乗った。彼らが知ったのは俺たちが月の裏側にいたころだ」
「だ、だ、大丈夫なのかい?」
「さあ? だいたいがおかしな話なんだ。俺はずっと宇宙に行きたかった。だから大学に行き、システムの勉強をし、資格も取った。だが、連中は土壇場になってそれに反対した。俺を採用した宇宙開発機構にわざわざ直談判して内定を取り消したんだ。初めからそのつもりだったのさ。その資格があれば、地球でも仕事はあるだろう、そうしなさいってね。だから俺は不貞腐れて、非生産的な――つまり、ティッシュを丸めてゴミ箱に放り込むことを生業とする生活を送っていたんだ。そしたら今度は働きに出ろときた」
「や、優しいご両親じゃないか。君の安全を願っているんだよ」
フィリップの物言いに俺は顔を顰めた。
「こっちは、宇宙での死亡率が全盛期のイチローの打率より高かった頃から宇宙に行きたかったんだ。余計なお世話だぜ」
「イ、イ、イチローが誰だかはわからないけど、でも、もっと話し合うべきじゃなかったのかな?」
「イチローを知らない?」
「知っていないとおかしいかい?」
「フィリップ。お前は俺がマイルス・デイヴィスを知らなかったことをさきほど随分とこき下ろしてくれたが、人のことを言えないんじゃないか?」
「な、な、なんだって?」
俺が言うと、フィリップは雨上がりの夕焼けくらい顔を真っ赤に染めた。俺は面倒なことになる前に、チキンソテーの味がする黄緑色のゲルを啜り、その場から離れた。
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宇宙で働いている人間の3分の1は、俺のように専門的な教育を受けて資格を持っている人間だ。
しかし残りの3分の2はそうではない。宇宙開発機構の試験に通るだけの頭脳と運動能力、そして健康を持ち合わせていれば宇宙で働くことは可能である。その場合、技術職員と呼ばれる仕事に就く。技術職員と言えば聞こえはいいが、要するに宇宙でのブルーワーカーである。
宇宙での仕事はかなりきつい。肉体的にも精神的にも。常に死と隣り合わせの環境での生活は間断なく心を錆付かせてくれるし、無重力空間での生活は地球で生活するための筋肉や臓器の正常な働きを根こそぎ持っていってしまう。宇宙で三年働けば、地球で三年のリハビリが必要となる。できればやりたくない類の仕事だ。それでも希望者が多いのは、その苦労に見合うだけの報酬が約束されているからだ。
基本的に、技術職員として雇われた連中は、船が目的のステーションにたどり着くまでの1年余りの内に、必要な技能の全てを学ぶ必要がある。朝から晩までみっちりと授業の連続だ。
彼らは、枯れた土地に水が沁み込むように知識を吸収する。だが、中には水がそのまま地下の水脈に呑まれてどこかに行ってしまう人がいる。
「た、助けてくれ! リョージ!」
全くもって助けが必要なことが直ぐにわかる声をあげながらフィリップが部屋に戻って来たのは、目的のステーションまであと一月といった時期のことだ。そのころには、俺はおっぱいのことなど忘れ、どうすれば食事係の娘と仲良くなれるかばかりを考えていた。
「どうした?」
「ま、ま、マズイことになった」
「何が、どうマズイんだ?」
「と、と、とにかくマズイんだ。こ、これをみてくれ」
「なんだ?」
フィリップが俺の目の前に差し出した電子端末には、いくつかの数字が示されていた。
「試験の結果か?」
俺が訊ねるとフィリップは壊れた人形のように何度も首を振った。
俺はざっと目を通した。
「ひどいな、これは」
「た、た、助けてくれ!」
俺が感想を述べると、フィリップはヒステリックな叫び声をあげた。
それは2週間後に行われる、技術職員になるための試験の模試の結果だった。彼の成績は惨憺たるものだった。
「これ、やばいんじゃないか?」
「や、や、やばい! このままだと、送還されてし、しまう」
フィリップは泣きながらぶよぶよと漂った。彼の涙がこちらに飛んできたので、扉を開けて外に逃がした。
試験に合格しなければ、当然技術職員として働くことは出来ない。そうなると地球に強制送還されてしまう。すると、往復にかかった費用を自腹で払う必要が生じる。さらにさらに、地球に帰ったところで、リハビリをしなければならないので、すぐに働くことは出来ない。膨大な借金とままならない体。試験への不合格は実質的に、生活の困窮を理由として宇宙に来ている彼らへの死刑宣告を意味する。
フィリップが嘆くのも当然だろう。
しかし、
「いったいどうしてこんな成績を出してるんだ? 真面目に授業を受けていれば、こんなことにはならないはずだ」
「い、い、いや……それが……」
「なんだ?」
「き、き、君が前に言ったよな? それが気になって」
「何を?」
「だ、だ、だから、その、おっぱいがどうとか……」
「そんなこと、言ったか?」
「い、い、言ったさ! それ、それが気になって仕方がなかったんだ。寝ようとしても、き、気になって眠れなかった」
「だから、授業に集中できなかった?」
「そ、そうなんだ」
フィリップは、さも俺が悪いというような顔をしている。
「そんなことをいつまでも気にしていたのか?」
「そ、そ、そんなこととは、なんだい? 僕は随分と考えた。高校の時に習った物理式を用いて計算してみたりした。だ、だが、よく分からなかった。そもそも、ぼ、僕は女性のお、お、おっぱいに触ったことがないんだ! 分かるわけが、ないじゃないか!」
「君の胸にだって、随分と立派なおっぱいがついてるじゃないか」
「ち、ち、茶化さないでくれ! 違うんだ。おっぱいについて考えているうちに、ぼ、僕は別のことが気になり始めた」
「別のこと?」
「そう。つ、つまり、僕がまだ、女性と寝たことがない、ということだ」
フィリップはそう言うと、彼の枕元に置いてある、一枚のレコードを取り出してきた。そして、それを愛おしそうに抱き、続けた。
「ぼ、僕は、女性と寝たことがないんだ。それが、引っかかった。僕はこれから、三年間、ステーションで働く。ステーションには、ま、まず女性はいない。僕はこれから少なくとも三年間、このまま、つまり、ど、童貞なんだ」
「まあ、そうだろう」
「僕は、自分が、無事に三年の仕事をこなせるか、け、計算した。そ、そのあと、一年間かけて地球に帰ることも含めて。大体8割くらいの確率で、ぼ、僕は地球に帰ることができる」
「そこまで悲観的な数字でもないじゃないか」
「で、で、でも、僕は2割の確率で死ぬんだ。2割だよ! 恐ろしい確率だ。つまり、僕は5分の1の確率で死ぬんだ。じ、女性と寝ることもなく」
「チェリーのままで」
俺は揶揄ったつもりだったが、フィリップは真剣な表情で肯いた。そして、ウィンナーみたいな指が5本付いた手で顔を覆った。
「あ、あ、あんまりじゃないか! そう考えたら、ね、眠れなくなった。そうだろ? そんなのって……あんまりだよ!」
「そして寝不足で授業に集中できず、このままでは試験に合格することすら怪しくなってしまったと」
「そ、そのとおり」
フィリップは顔を上げた。そして俺に向かって唾を飛ばした。
「た、た、助けてくれ! 元はと言えば、き、き、君のせいなんだから」
「助けても何も、代理受験なんてできないし、あと二週間でこの成績を合格できるレベルまで引き上げることもまず無理だ」
「そんな!」
フィリップは落雷に打たれたように硬直し、そしてそのまま獣のような声をあげて泣き始めた。
俺は何か手が無いか考えた。決してこれから一年、断頭台へと向かう陰気なオットセイと一緒に暮らすことに希望を見出すことができなかったわけではなく、彼におっぱいの話などした自分を悔い改めるためだ。
そうしていると、ある案が浮かんだ。
「フィリップ、いい案がある」
「な、なんだい? 地球で動物園に入れだなんて、い、言わないよな?」
「まさか」
俺は急いで代案を考えた。
「そう言えば、技術職員の教育を行っているのは、女性だったよな?」
「え? サ、サラのこと?」
「そう、それだ。それでいこう」
俺は混乱しているフィリップに作戦を説明した――
後編へ続く




