4.お待ちかねの魔物
マントを羽織る時、スーツの上だと不格好だと思い上着は森の入り口に畳んで置いてきたのだけど、ズボンとシャツは脱ぐことが出来ない。
きっとオレは今、超絶不格好だ。
はっきり言ってこんな姿で町中を歩きたくない。
だがそれは仕方のないことだと割り切ってはいたんだが――
軽快な動きを要する場面には不敵なそのズボンとシャツが、オレの疲れを助長させてくれた。
うん。大自然をなめていました。
分かっていたことだ、この森がただの森でないことに。
行く手を遮るような木の根をくぐり抜けながら先を進むのだが、どうしても根を超えなければならないときがあった。
ファルスにならって後をついていくんだけど、高いし怖い。
根を登るときよりも、降るときの恐怖心はたまったものじゃなかった。
ファルスもオレに合わせてゆっくりと歩いてはくれているのだが、いかんせん体力の差が歴然だった。
「大丈夫か?」
ケロッとするファルスに心配さてしまう始末。
オレも一応道場の息子だ。体力には自信があった。
けど、それを嘲笑うかの如く過酷な環境に悔しい思いをした。
「ごめ、ちょっと、きゅうけ……」
「分かった」
ファルスはそれ以上何も言わずに、適当に座れるような場所を探してくれた。
優しいな……
「その根ならちょうどいいぐらいの高さだろう」
指差す先までがんばって歩いて、オレは木の根に腰をかけた。
ファルスも隣に座ってくる。
この世界に立ったときにも思ってはいたけど、このペルケッタの大森林はただ深いなんてレベルじゃないな。
リスやキツネなどなど、見たことのあるような動物は一切いない。
辛うじて鳥の鳴き声は聞こえるのだが、いかんせん野太い声なのだ。
不気味。その一言に尽きる。
それにしても、今の所一度も魔物の姿は見ることが出来ていない!
リーズたちも、魔物はわんさかいるって話だったのに、全く姿を現す気配がない!
「なあ。ここらへんって魔物は出ないのか?」
ファリスに聞くと、頭を左右に振って否定した。
「普通だったらホーンラビットやキラーアントが出てくるのだが……」
うーん。
たまたま今日は魔物の休息日なんじゃないかな?
んなわけあるかって突っ込まれそうだけど、現に一匹も現れないのであればそういう日もありそうなもんだ。
魔物と出会えなかったのは残念だけど、今日のところはもう戻ったほうがいいだろう。
「帰ろっか。オレの足も回復してきたし――」
「静かに」
「むぐっ!?」
突然オレの口を手で塞いでくるファリス。
さっきまでの無表情の眉間にシワを寄せていた。
ファリスの纏う空気が変わる。
ピリピリとした殺気が、オレの肌にも突き刺さる。
「いた」
「!?」
やっとオレの探し求めていた魔物がそこにいるのか!?
どこだどこだと辺りを見渡す。
そこにあるのは、大木、大木、大木!
魔物の姿は、一切見えない。
「来るぞ」
刹那、ざわめきが消える。
大木の袂にある茂みがガサリと揺れ、へし折れる音を立てる。
何かが踏み潰しているのが分かる。
ただ、オレに届く情報は音だけだ。
音が大きくなる。
ようやく、オレが求めていた魔物の姿が、そこに現れ――
「え? イノシシ?」
何処をどう見てもイノシシのような生物……
いや、体毛は深緑と黒を混ぜた、禍々しさを現す色だった。
口の両端に伸びる、猛々しい大牙。
オレが知っているイノシシとは、到底異質すぎるその巨体。
「フォレストボアだ」
デケェ!
アイツ、絶対オレの身長よりも体高が高いぞ!
いや、ファルスよりもデカイはずだ!
ファルスは大剣を鞘から抜き、構えを取る。
その表情は、獲物を前にした狩人。
鋭い眼差しは、ソイツ一直線に伸びていた。
威圧感がピリピリとオレに伝わってくる。
「この辺りでフォレストボアが出るとはな。もっと北側に生息しているはずなのだが。そうか、アイツが他の魔物を追い払ったのか――」
ファルスの口振りが物語る。
ヤツがこの場にいていい魔物ではないのだと。
オレたちは雑魚モンスターと出会わずいきなりボスに遭遇したのだろうか?
これはヤバイ、逃げないと……
いや! ボスからは逃げられないのだよ!
オレの頭の中で色々と叫んでいたけど、ファルスはどうやらヤツに立ち向かうようだ。
危険だったら逃げようって話じゃなかったのか?
「ヤツの肉はいい食材になる」
とのセリフに、オレの頭にはクエスチョンマークが飛び交った。
「アイツ、魔物なんだよな?」
「そうだが?」
「食べられるのか?」
「ああ、とても美味い」
日本でも猪の肉を食べる風習はある。
山深い田舎のような地方に、だけど。
でもそれはサイズが大型犬と同じかやや大きめのイノシシであって、世界最大の肉食獣と言われているホッキョクグマよりも遥かに大きなイノシシではない。
それにオレは知っている。
魔物である以上、あの手の巨大なものは絶対に肉食だ。
そして魔物ということは人間も襲う。
人間は恐らく、ヤツにとってはエサなのだ。
肉食獣の肉は食えたものじゃないとよく聞く。
そもそも魔物の肉って、本当に食えんのか?
だがファルスは、オレの思いとは真逆に、オレの前で初めて口角を上げて笑みを浮かべた。
その笑みは精悍そのもの。
もしオレが女の子だったら、ときめき心を一気に持っていかれそうなぐらいに格好いいものだった。
普段無表情で早々笑わないイケメンがふとした時に見せる不敵な笑みの破壊力たるや、推して知るべし。
なんだけど――
「ほっぺたが落ちるほどな」
あ、うん。
美味しいのはわかったよ。
けどな、ファルス君。
出会って間もない君に言いたくはないんだけど。
そのヨダレ、どうにかしようね!?
かくして、イケメンの精悍の笑みの破壊力は、たった一瞬で一気に地に落ちたというのは言うまでもないだろう。
「アラシ様はそこで待ってろ」
「あ、うん。死にたくないからここで見てる」
「ああ」
ただの道場の息子という地位は、この世界では役に立たない。
あのイノシシを見ていて分かる。
オレが前に立っても、吹き飛ばされてお陀仏なのは必死だ。
役に立たない人間は、強き者の背を見ていればいいだけなのだ。
男としての矜持? んなもん、死を目前にして不要だ。
今は無力でも、いつかきっとオレでも役に立てる日が来るはず。
「こっちにアイツを近付けることはしないが、万が一の時は遠くに逃げろ。そのマントでも、アイツの攻撃に耐えられる保証はない」
「はい……」
なので、オレは頷くだけだった。
オレはヤツを見る。
オレたちの存在に気付いたようだ。
荒い鼻息を吹き出しながら、突進の準備をするかのように足踏みを始めた。
一つ足踏みをする度に、大地が揺れているかのようにも感じる。
『ウグルォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!』
ヤツは大きく口を開き、咆哮を上げる。
脳髄を麻痺させるような重低音が、辺りの空気を支配する。
背中に何かが這いずるような感覚。
それは、殺気。
死が、そこに迫っている感覚。
体が動かない、声も出ない。
息を吸う行為すらも、止まってしまいそうだった。
全身から、不快な汗が吹き出している。
「森の主というだけはある。あれだけの大きさはオレも初めてだが――」
咆哮という衝撃波を身に受けているはずのファルスは平然と立つ。
そして、大剣を片手に持ちながら、地を蹴る!
速いっ!
ヤツとの距離が、一瞬のうちに縮まっていく。
大剣を大きく振りかぶり、思い切り振り下ろすファルス。
やつの首筋を正確に捕えていた!
だが、たったそれだけでひるむヤツではなかった。
大剣を固い毛皮で受け止め、ダメージは殆どゼロのようだ。
こ、これってヤバイんじゃね?
だがオレの心配に反して、ファルスは無表情を崩すことなくヤツから距離を取り、剣を構え直す。
「ふん……お前は大人しく切られていれば良いんだ」
そう静かに呟きを零し、大剣を振るう。
風を切る音が聞こえる。
ファルスの持つ大剣が淡く光を湛えていた。
「さあ、肉をよこせ」
再び地を蹴りやつに斬りかかった。
それにしても……
途中までは格好良かったのに!
よだれを垂らしながらのそのセリフで台無しだよ!
何はともあれ、ファルスとフォレストボアの戦いの火蓋は落とされ、オレはその戦いを遠目から眺めていた。
◇◆◇◆◇
体感数分。
勝敗は決していた。
所詮、イノシシはイノシシだということだったのか。
魔物なのに。
実に、あっけなかった。
ファルスの戦う姿は流石と言うべきなのだろう。
大剣に風の力を纏わせながら的確にヤツの首筋を狙い続ける集中力、相手の突進を軽々といなす俊敏性、鋼鉄のように固い毛皮を貫く攻撃力……
どれをとっても戦士として一級品のものだ。
だがいかんせんその原動力は――
「お腹、減ったな」
と零しながら腹を手で抑えていた。
食欲は偉大なり。
「おつかれ、ファルス」
「ああ。少し手間取った」
いやあれで手間取ったとか、どういうことなんだ。
無傷でフォレストボアを倒し、疲れすらも見せずにいるのだ。
バケモノだ……
そして案の定、フォレストボアの大きさは規格外だった。
人間として決して小さくないオレとファルスが小さな存在と見紛いそうなその巨体に、ファルスは手をかける。
「それ、どうするんだ?」
「もちろん家まで運ぶんだが?」
「マジかよ……!」
ヒョイッと簡単に持ち上げてしまった。
これだけの大きさ、普通に五百キログラムぐらい、あるんじゃないか?
それを肩で担いでいる……
精霊って、本当規格外なんだなって思うしかなかった。
帰りの道中も、大きな荷物が一つもないオレはヒィヒィ言いながら歩く。
重い魔物を担いでいながら平然と進んでいくファルスを追いかけて、ようやく家の前の広場に抜けた。
も、もう歩けない……
両足が棒のようだ……
オレはへたり込んだ。
「アラシ様、体を鍛えるべきだな。この森で生きていけないぞ」
「うぐぐ……が、頑張る……」
そう答えるので精一杯だった。
がくぅ……
「あ! フォレストボアじゃねーか! 大物だ!」
「何ですってー!? ちょっとファルス! 森の中に入ったの!?」
部屋の窓から外を眺めていたのだろうか。
どでかいイノシシの姿を見たリーズとシルフィは家から飛び出してきてファルスの周りを飛び回った。
片や満面の笑みで、片やご立腹の様子で?
「よくやったファルス! 今日はごちそうだぜ!」
「全くもう! アラシを危険な目に合わせてないよね!?」
二人は真逆の感情で叫びまわっている……
ファルスはどうすれば良いのか分からず、ただそこでわたわたと慌てていたのだった。
スマン、ファルス。
オレが森に行こうって言ったばかりに……ファルスはオレのことを止めていたのに。
オレは心の中で、ファルスに謝りながら、ただ地面と同化することしか出来なかったのだった。