帰国を手引きしたのは幼きころからの慕情
何も考えられないまま、ただ足を動かしていた。それだけは止めたくないという気持ちで、動かす身体は学校から帰宅する時の気持ちが表れていた。
あの日、立ち聞きした内容を深く聞く勇気もないままに時間だけは過ぎていった。巧い切り出し方が見つからないし、何よりもグレイシーに現在の私を否定して欲しくなかった。影は光に拒絶されることが一番の痛手なのだ。
無意識に地下鉄を選んで依頼会社に今後の計画を話し合いに行ったのも、普段であればしないことだった。チャットかモニタ通話で会議をするし、バスとタクシーを使うのに。
何事もなく、地上に足をつけた瞬間にポケットから振動しているスマホを取り出して通話するというのも無意識だった。
「ハル? 早く帰ってきて! おばあちゃんが!」
おばあちゃん。この単語に反応しないおばあちゃん子なんているのだろうか。
「なにが、あったん」
はくはくと吐き出される息の隙間から掠れて出た言葉。ふわりふわりと水の中で歩くように、どこか現実感のない歩み。布団をかぶって、深く深く──どこまでも深く眠りたい。
「倒れたんよ! とにかく、なんとかして帰ってきて!」
頷く声を出すのももどかしくて、雑にポケットに詰め込んだ。
普段、冷静沈着であるはずなのに、詳細を語れないほど姉は焦っている。その事実は私にひどく動揺とすぐに駆け付けられないという現実に、焦りを加速させていく。
高速で景色が変わっていくと、ぷつんと電源オフになった。
どうやって帰宅したのかわからないまま、食卓と自室、前庭に置いている椅子とうろうろとする。
調べる限りのことはやった。
緊急帰国制度の存在を知り、それを利用するにはどうすれば良いのか、何が必要なのか。ランク付けされた条件項目。そこに自分が当てはまるのかどうか。
合間、しつこいくらいにグレイシーのスマホを鳴らす。
彼女の執務室や対外用に持っている携帯を鳴らすことは出来なかった。
スマホをどれだけ鳴らしても出てはくれなかった。彼女は仕事をしている。そこに私用携帯を鳴らされているからと出るほどの鈍さを持っているわけではない。
でも、何度も鳴らした。
「大丈夫」と一言、あの時のように言ってほしくて。
分かっている。これは子どもの駄々こねと一緒だと。
でも、震える指は何度も何度もコール音を聞くために画面上を動く。
コールがある程度流れたままになると、切っては再びタップしてコール音を流す。さぞかし気味が悪い行動だろう。
「もう! なに!? 今日は会議続きとメラニーたちと夕食するって言ったわよね?」
怒声に近い声でも安堵する。今はひとりきりでも、誰かが居ると。
「おばあちゃんが倒れたんだ」
回線の向こうでは騒がしい声が聞こえてくる。
たぶん、最近、新聞を賑わせている事件が新旧財閥の人間だからだろう。
それか移動途中なのだろうか。メラニーたちと言うけれど、他はほんとうに友だちなのだろうか。
それとも………
「え? なんて? 聞こえないわ。もう少し大きな声で話してくれないかしら」
「おばあちゃんが倒れたんや。いつも私を肯定してくれていた。
私がどんなに自分を貶しても卑下しても、ずっと「あんたでええんよ、おばあちゃんの孫に生まれてくれてありがとうな」って言うてくれたばあちゃんが。
どうしたら日本に帰れるん? 帰りたい、いますぐにあの手を握って一緒に笑いたいん。元気になったばあちゃんと一緒にお寿司を食べたい」
何も聞こえてこないスマホを怠慢な動作で置く。
話している間中、何かをずっとグレイシーは言っていた。私が日本語で話しかけていたからそれに対する言葉だろう。
でも、脳が日本語しか受け付けなくなっていた。帰りたい、帰りたいと心が叫ぶことに呼応して遮断しているのか、先日グレイシーが口にした息抜きをしたいという言葉によってなのか。
× × ×
真剣になれば人間なんでもできると実感するのは、人生で二度目。
一回目は海外旅行に行くためだった。それ以外にだって何度かあったけれど、あえてカウントしない。死が目前に迫れば、真剣だとかそんなことは関係ないだろう。
長時間のフライトに時間感覚は曖昧になっていく。うたた寝程度の仮眠だけで今日までやって来たのだから当たり前かもしれない。
オーダーした手前、機内食に口をつけずにいるのはどうかと思い、映画か何かを観ようとモニタに触れる。
スクロールに目が回りかけたころ、懐かしいアニメが目に止まった。
最近はキミコを思い出すことが増える事柄が多いな、と感じながら視聴ボタンをタッチした。
今話は区切りとして短くしました。
次話投稿は今週金曜日の予定でございますが、伸びて土曜日になるかもしれません。