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進まない指はこぼれる雨を留めることができるのだろうか


 懐かしい思い出が画面を流れているみたいな感覚だった。

 あれから随分と歳を重ねた。

 それだけ多くの、取り出して眺めるにはいくら時間があっても足りないくらいの思い出をキミコと積んできた。


 悔しい涙、嬉しい涙、喜びの涙。恋にまつわるものや仕事、人間関係──キミコはそれらすべてオタク関連だったけれど。

 笑いだって様々だった。キミコと笑う時間はどんなに荒れた心だって、さざ波から凪いだ。

 大人になってはじめてできた友だちは、いとも簡単に私の中に小部屋から自室、それら以上に大きな存在を作り上げてしまった。



 こんなにも多くの思い出が流れていくのか。たぶん、今細々とやっている仕事で紹介する本の影響だろう。


『雨』  多田 点 著


 短編作品集で、情をテーマに描かれている。そこには上澄みも沈殿しているものまで、あますことなく書かれている。あまりにも多くを書きすぎて、多くの人が眉を顰めてしまう。

 だけれど、読んだ当初よりも珍しく二、三日で読破したキミコとその本について語った日を重ねるごとに綺麗だとすら思った。




「ハル……泣いているの?」


 日本と違った夕闇──夕闇と言えるかわからない時間だけれど──の中、打鍵する手が止まったままだった。


「ほら、こんなに流して。泣き虫さんね、あたしの本の虫さんは」


 肌ざわりの良い、日本で手を出すことがなかったティシューで顔を拭われてようやく気が付く。泣いていたのだと。


「どんなことを思い出していたの? 『雨』にまつわる思い出かしら」



 仕事である、日本や第三次世界大戦前の出版物の紹介記事とそれにまつわる自信の思い出話、有名人やゴシップなどを書いてÐ国ではちょっとした読書ブームに火を注ぎ続けている。

 元々読書家であった彼女は、私の紹介を批判したりするために再読したり、興味がない本でも手にするようになった。読書という贅沢な時間を持てなくなりつつあるグレイシーの周囲でも、空き時間は本を手にするようになっている。

 少しだけ自分はÐ国で自分の場所を作れていると実感してもいた。


 今書いているのは、当時大型新人だと喧伝されていた正体不明の作家の話。

 新人賞受賞作でもなく、ヒット作でもなく、消えてしまう前に出した『雨』という作品に焦点を当てて書こうと思った。

 『雨』を発表して作家はそれ以後、作品を世に出さなくなった。

 忽然と正体をくらませてしまったのだ。

 何があったのか、どこに居るのか、それらが一時期ネットでも紙を含めた雑誌でも取り上げられた。関わった出版社の元社員の暴露本などが出もしたけれど、それで鎮火してしまった。

 移ろいゆく人の関心は、誰それが言うのならそれで間違いないのだろうとどうでもよくなってしまうものらしい。


 気が付けば乾いた涙になっていた。


「この作品を唯一、手放しで褒めていた友人がいた。彼女が褒めるって言っても、貶すこともあったし、表現と文法がどうたらと言ってたりもしたけど」


 キミコは辞書を片手に読んでいた。物語は好きだけれど、読むという行為に問題があった。

 でも、私が二、三日で読んでしまっても一か月かかろうがけして諦めずに読んだ。

 ただ、ネタバレ厳禁である彼女を前にしては苦行でもあった。それが早く話したいと思う気持ちすらも愉しみになっていった。


「素敵な友だちなのね。でもどうして過去形なの? メラニーにひどいことは何度か仕事でされてきたけれど、絶交期間があっても話したいことが無尽蔵に出てきて謝罪させたりしてきたわよ」


 親友の名前とそのドラマの数々を想像させる出来事を掻い摘む彼女は片眉をあげて、どこか誇らしげにしている。

 まさしく彼女は成功者だと頷くものだ。

 光があれば影は必ず存在する。それは寄り添うかのように近くで、またはお互いの認識ができないくらいに遠くでかもしれない。

 私とグレイシーは前者だった。その二人が惹かれ合っているというだけ。


「できたら良かったんだけど。話は単純じゃないこともあるでしょ。たとえば、仕事以外にもメラニーに殺意を覚えるくらいのことをプライベートでやられたらどうする?」


 グレイシーにわかりやすくたとえ話をするのは、結構好きだったりする。光と影であるからこその世界の見え方の違いを手にできる。これは仕事でお互いに役に立っていたりもする。


「消滅させるわ。何も物理的なことじゃなくて、見えないふりというかそういう意味でね」


 にこりとするけれど、スペランツァ一族という後ろ盾も自身の人脈もあれば、何だってできそうだと思うような艶然さがあった。


「そういうことだね。だから、だからね……彼女とは連絡をとることに躊躇してしまう」


 私が見えないふりをしているわけではない。

 私はキミコに傷をつけて、深く深く、ただひたすらに深くしていた。

 わからなかったとか、そんな言い訳が通用するわけがない。



「人はやり直すしかないのよ。自己満足でも、区切りをつけることで道を歩き出すようにするためとか、歩きたいともう一度思えるようにね」


 そう言うグレイシーは潔さがあった。

 私が惚れて、手を伸ばして、もう一度恋に溺れてみてもいいと願った当時のままの。

 お互いが努力して「気が付けば愛になって、変わらずにいようとしていただけね」と微笑み合えるような関係のために法的パートナーになった時のままだ。

 ただ、こんな時に思うのは正攻法でいかない時があり、人間関係があるということを知ってほしいだった。




×  ×  ×




「──少しだけ、息抜きするべきだと感じるの。今日みたいに過去に引きずられている彼女を支えたいとは願うけれど、歯がゆく感じるのよ」



 グレイシーが仕事関連のものをしまっておく部屋の前を通りかかった時、僅かに開いていた。いつも最後まできちんと閉めないな、と嘆息して閉じようとすると聞こえてくる声を耳に拾ってしまった。


「ええ、わかってるわよ。火遊びっていう立場じゃないって」

「もちろん。立場じゃなくても、エイヴィやパッツイに顔向けできないのもこりごりよ」




 自然と忍び足で与えられた部屋に戻っていた。喉も口内すらからからになっていた。


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