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知る

 Ð国という存在は、情報戦争と今日では言われている第三次世界大戦勃発前に興国された。

 生きながらに死んでいるような国だったある国を金持ちたちが寄り集まって建国したようなものだった。

 第二のA国だとも言われ、また第二の完全中立国としても当時は注目の的だった。道楽だとかご都合主義の国だとか囁かれていたものの、しっかりとした法律や制度、法整備に軍隊までしっかりとなされており、裏で移住しようとする人々は絶えなかったようだ。

 人々は情報に踊らされて、また情報を手にしてそれを利用する。いつしか国家間ではなく、対個人でのものだったとも評されている。

 未知なる国でもあり、そこにはかつての夢の国への希望を抱かせる何かが眠っていると錯覚したからだろう。世界は波紋続きで、皆がどこか虚ろになる状況であればある意味、必然だった。


 だけれど、それをÐ国は無残にも斬り捨てていく。


 ──そんな国は世界中を探しても、次元を超えても無い。


 理想実現のために、大衆を味方につけて庇護者としての役割を担う、そんなことはしないと断言するかのような態度だった。


 では、なぜ、建国したのか? とある雑誌記者が動画サイト──電子記事をメインに活躍している記者だったので、雑誌かどうかは不明だけれど──で大統領に質問したことがある。

 その質問を聞いた当時の大統領は、じっくりと料理人が手順を誤っていないかを確認するかのように目を閉じて吟味した。

 こつこつと重厚な机を叩くかのような、時計の針の音をじっと聞かされた記者。私だったら泣いていたかもしれない。

 その記者は当時の大統領の自伝で、命の残り時間を聞かされていると思ったと回想している。

 いまだに閲覧可能である動画には映っていないが、周囲には黒服並びに制服を着たいかめしい屈強な人間が居並ぶ中でのことだったからだろう。


 そして、その回答はというと、

「広大な土地があり、その土地は祖先が居たと思わしき場所であり、買い取る金も権利も何もかもあったとしたらあなたはどうしますか? そういうことよ」


 まるで家や別荘を買い求めただけのように言ってのけた大統領。それ以外に言える言葉がないと語る表情だった。

 確かに世界で有数の財閥で、建国に尽力した主要メンバーも財閥だったり誰しもが発言に耳を傾けるような人間だったりした。だからこそ、世界の誰もが移住すれば己もそんな人間になれるんではないかと夢を見ていた。



 私がÐ国のことを知ったのは、ヨーロッパ旅行をしている時だった。こうして考えると、かなり世界情勢を知らないままの呑気な日本人だろう。

 心が大切にしていたはずのものを守る準備をするかのように、軽くなっていく。その旅行は正解というか、村井 晴渡(ハル)としての道で必ずしなければならないというようなものだった。


 その中でグレイシーと出会い、引っ込み思案であっても噂の図書館や本屋などで何度も目にすれば挨拶を交わしていた。ただ、会話を繋げてくれたのはグレイシーだったけれど。

 お互いの国を伝えあった時にÐ国という存在を知った。


 父親との仕事、その仕事を退職するにあたっての煩雑な諸々、姉に伝えること、一番つらかった大好きな祖母に言うこと。

 それらを踏んでいくと世界情勢に気にも掛けないままになっていた。

 ただ、一つだけ言い訳がましいけれど、時事ニュースを一通り流し見している最中に、Ð国のことを取り上げられていたような記憶はあった。



 Ð国の話題に対して、知ったかぶりをせずに素直にそれを言うと嬉しそうな顔をして、

「とてもいい国よ。堅苦しさと自由、それに──愛があるわ」


 その時のグレイシーに心臓を優しく握られた。

 積極性だとか誰かと親しく付き合うことが苦手だった私には珍しく、旅行プランを語って、共通する場所などを見つけようと躍起になって繋がりを持とうとした。グレイシーはそれに応えようとしてくれたし、私自身が躊躇していた連絡先の交換を申し出てくれた。

 ほぼ私はのめり込んでいた。こんな気持ちになるのは何年、いや何十年ぶりだろうか。


 だからこそ、グレイシーへの興味、好意、親密な関係を築いていくとともに、Ð国への情報を手にしたいと思うのは不思議でもなんでもなく、当たり前の行動だった。

 ぴったりと必ず傍に居てくれる彼女が、気ままに大学時代の友人宅へ訪問する日があった。

 私は家族に連絡するという名目で、長期滞在するにあたり、ヨーロッパのある国で借りたアパートメントに残った。

 その理由というのも、彼女の国に住んでみるというイメージトレーニングのようなものが加速していた。逸る気持ちで検索するとすぐに表示されて、開ける。



『あなたが移住を希望するということは、ぷっつりと途絶えた道のりを残すようなもの。夢の中で両親、姉妹、兄弟、かつて共有し合った親友が血まみれの手を差し伸べていても、出来ない時があると理解しなければならないということ』



 Ð国のホームページ、大使館など、さまざまな場所で目にする移住希望者へ向けられたメッセージ。

 私がグレイシーの手を取り、一緒の景色を眺めるために日本語に翻訳されたメッセージを読んだとき、何度も読み返した。

 日本に未練はないと思っていた。

 いまだに考える時、日本語が混じり合っているのも長年使っていた言語だとしているし、祖国という言葉にあてはめるには疑問を抱く。

 だけれど、本当に良いのか?

 とっくに若気の至りを通り越した年齢だとしても、一瞬の気持ち、感情に突き動かされて二度と踏めないこともありうる状況がないとも言い切れない。良いのか? と。


 父親に対する感情も、その後妻に対しても白く塗りつぶしたキャンバスみたいに無関心になっていた。旅とは成長効果もあるのだと驚くくらいに。

 だけれど、どうしてもちらつくのは、血まみれの手を苦しそうに差し伸べる母親の顔が勝手に再現された。

 現実なのか、それとも勝手に想像した中で再生されたものなのかすら分からないほどになっていた。



 モニタの光りに照らされた私の顔は真っ青だったのか、反射するには充分な白さだったのか分からないが、帰宅したグレイシーを心配させるには充分だった。


「私は母親を見棄てた……だって、そうするしかなかった。共倒れになっても私はまだ生きなければならないし……何も持っていない女で、不器用な人間は自分一人の面倒しか見れないもんなんだ。だから……」


「大丈夫、ハルはハルしか居ないからこその選択をしたのよ。あたしが何度でも頷いて、抱きしめているわ。大丈夫だって、今日みたいに」


 うわ言を繰り返す私を見ても、ただずっと体温と笑みとほんの少しのアルコールにびっくりするぐらいのキスをくれた。


「焦る必要はないのよ。強制するつもりはないし、ただあたしはÐ国の人間ってだけなんだもの。ハルはニッポンの人なだけ。そこにあたしたちの関係が変わる理由を見つけ出そうとするなんて馬鹿らしいでしょ」


 そう言ってくれて嬉しかった。

 自己評価が下がり続けていた日本での生活、ようやくゼロ地点になりつつあった海外旅行中で見つけたグレイシーとの出会い。使い古された言葉だとしてもどうしても感じてしまった。


「たぶん、私はグレイシーに出会うためにいろんな出会いや選択をしてきたんだと思う」


「ハルが直球で口説いてくれるなんて、明日になったら夢だったなんてことにはならないわよね」


 おどけてみせるグレイシーは、少しだけ安心を見せていた。

 普段、私が使う言葉にしても、あまりに曖昧なものだった。元来が内気で、感情表現が苦手で曖昧なことばかり使う私だったから、不安にさせている自覚はあった。

 それは海外に居る解放感からとして変われるものではなかった。グレイシーと出会った日から、親密さをアピールされるたびに、胸の高鳴りがうるさくなろうが、その声に従うことができないまま。



「ねえ? 明日になったら覚めてしまうくらいなら、しっかりと刻んでおかない?」


「これは現実だし、それになんだか縁起でもないこと言わないでよ」


「日本人はなんでも縁起でもないって言うわよね? どうして?」


「えっと……欧米とかでもジンクスってあるよね……?」


「使いどころが違うわ。でも、似たようなものだってことね」


 不安が小さくなった者同士、空腹を感じてもそれよりもずっと大切なことがあると心底思って重なった。

 私は当時、まだ三十半ばでくたびれていたし、元々淡泊だった。

 安心感を得る一番早い方法が体温を分け与える、お互いが知っている身近な手段だったから。相手が望むならばと肌を重ねる──それだけだった。

 そんな私がグレイシーを見つめると、見つめられると炎の中に可燃物を投げ入れるかのように火が付く。いつも頭の片隅にあった、上手いか下手などの判断なんてものは一切なくなって、ひたすらに歓喜、歓喜、歓喜の言葉に支配されていく。その歓喜の中には涙という部屋もあり、息を忘れる瞬間もあると知った。


「ハル、あたし、ほんとにあなたを愛しているわ」


 澄み切った瞳はどこまでも澄んでいた。

 夜が明け、空が群青から薄青に移ろう瞬間をそこにはっきりと映すくらいに、綺麗に澄んでいた。ふいに悲しさ以外の嗚咽を喉の奥から出していた。ただ、私が感じたことのない掌を持って背中を優しく撫でてくれるグレイシーに頷くだけだった。

 どうにか今、この瞬間の気持ちを伝えたかった。


「愛してる。ただ、それだけ以上の気持ちと感情がここにある」


 破顔して抱きしめてくるその全身の昂りを感じて、拙い言葉は語彙があろうとなかろうと、また多言語を操っていたとしても充分だと思えた。



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