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ニコラス Ⅱ

・・・ニコラス視点


 ニコラスは今日も倉庫の荷受けと出荷、特別注文品を管理している部署の管理をベルトコンベアの要領でこなしていた。


 長の席に座って早幾数年。

 やっかみやあからさまに仕事のミスにつながる行動にとられたことも何度かあった。

 爆発してしまいそうになる時を数えてしまうとどれだけの天文学的な数字を叩きだすのだろうか。

 ぶん殴ってしまえば、楽になると思ったことはその次に多いかもしれない。


 それでも祖国はどこを探してもない──その気持ちでゴールキーパーのように受け止めてきた。教養学校もそれで無事に修了した。


 祖国ではサッカーをしたことは何度かある。

 ただ、自分には不向きだった。不向きどころか運動全般に向いていなかった。逃げ込んだ場所は音楽だった。


 スポーツをするか、身体を動かすか。

 その二択しかなかったにも関わらず、音楽に魅了されて一日中、インターネットから流れてくる音と生活した。

 ニコラスの祖母がキッチンから音の良しあしを口出してくることも度々あり、辟易しながらも他人の意見から得るものも吸収していった。

 仕事から疲れて帰って来た母親に音を下げろと毎回言われて、夜だと気が付いた日ばかりだった。



 狭くて、自由な空間なんてないも同然の暮らし。

 だからこそ、楽しかったと思った。

 母親は教育を身に着けていたおかげで職を手にして、ニコラスもその恩恵から義務教育から先の学業に進めていた。

 次は大学で英語と歴史の世界にこもろうとしていた。その準備に慌ただしくしていた。



 今年最初の寒い日だった。

 身体の芯から冷えに脅かされて、早く帰宅したくても道中のカフェに足が自然と向かってしまっていた。

 愛想ばかりが良いわりに、味も値段も観光客向けのカフェ。

 だけれど、ニコラスはその店がどこか好きだった。

 その日、片手で母親からのメールを読んでいた。

 祖母のこととニコラスのこと。

 いかにも母親らしい文面だった。鼻で笑いつつも、口角は自然な笑みが浮かんでいた。

 心の中では早く、自分のことに目を向けてくれよと思っていた。

 いつもならそれで終わるメールは続きがあって、ニコラスはおや? と先を読んだ。


「ついにか! おふくろも春の種を手にしたんか!」


 店内だとかは忘れて声を上げていた。さらに立ち上がっていた。

 ただ嬉しかった。

 まるでその気持ちに呼応するかのように地面に振動が走った。

 地響きの音がさらに聞こえて、立っても座っていられなくなった。

 ガラスは揺られ落ち、なぎ倒される店内の自由意志の持たない無機物はあちこちに散乱していた。




 あとになって知ったことは、その日に祖国はなくなった。


 世界地図から名前がなくなり、歴史にはあった国として記されるのみだった。

 長きに渡った歴史だと思う。

 国王、王族、貴族があった国から民主主義に変わった。それだけでも歴史的には強烈なものだった。それから二度の世界大戦を経ても名を残していた。危機は小さくはあった。それでも名は残っていた。


 それが一瞬で、何の兆しも国民には感じさせないままで吹き飛んだ。


 昨日まで手にしていた毎日はどこにもなく、握っていたはずのすべてはぼろ紙同然になった。


 スローモーションで流れていく時間と再生ボタンと停止ボタンを繰り返し押すみたいな奇妙な日々を送って、Ð国に居る母親の元に逃れた。

 そこでニコラスは苦痛を認識した。

 祖母があの日に亡くなったと口にすること。

 ただ、遺体を確認してはいない。捜索をしてくれる機関なんてものは無い。

 アパートがあった場所に行って、ただひたすらに探した。

 書置きがあって避難しているだとか、その印がないのかと。

 無数の人体らしきものがある中での捜索は、心が少しずつひんやりとしてくるものだった。凍った部分の端から見えない程度のカケラがこぼれていくような、言葉にできないものだった。



 一足の室内履きが赤黒く染まっていた。

 それだけでニコラスは充分だった。過ぎるほどだった。



「ニコラス……あなただけに背負わせて……」



 母親はしっかりと抱きしめながら、声を上げずに泣いた。ニコラスも子どものころに戻ったかのように泣いた。ただただ、泣いて泣いてしっかりと手を握り締めてソファを背にして眠った。





 この話は誰にもしないつもりだった。

 ニコラスの人生で家族──スペランツァ一族以外を指している──以外に話したところで何かを実感できるわけでもない。ニコラスの性格はそう判断させていた。

 武勇伝にも同情にも、ましてやミステリアスな印象を抱かせるためにも使いたくはなかった。

 だけれど、ある日出会ったニッポン人で変わった。



「はじめまして。ハル・ムライと言います。どうか仲良くしてください」


 緊張からなのか、たどたどしく会話集の中から引用したような挨拶にニコラスは明るい笑みを浮かべた。


「ただのニコラスです。こちらこそよろしく」


「ただのニコラス? え?」


 ハルは自分の聞き間違いではないかと困惑していた。それを見ているのは面白かった。


「ハル、もう一人ニコラスが居るのよ。姉の結婚相手がそうなのだけれど、彼と区別するためにこうしてニコラスは“ただの”を付けているのよ」


 咎めるような目つきでグレイシーはニコラスを見る。愛情たっぷりの手をハルの腰に添えて、すべてから守ろうとする態度は瞠目してしまうものでもあった。


「ああ、そうなんですね」


 その後にそれが苗字なのかと思ったと小さく付け加えた。そんなハルをグレイシーとともに疑問符見つめた。


 とにかくニコラスにとっては、そのニッポン人がどうグレイシーの心の琴線を触れさせたのかが好奇心から観察対象になった。

 グレイシーといえば、仕事は有能であり一族の繁栄の一つに取引結婚をした女性でもあった。自らを道具にしておきながら、その子どもを慈母の顔で抱きしめる不可解な一族の女──そうニコラスはずっと思ってきた。

 ただ、反動のように契約結婚満了になると海外旅行に行ってしまった。



「一つの計画よ。子どもを持つことは夢でもあったし、彼も同性しか愛せない。だったら取引をしたまでよ。この一族は昔ながらの方法でしか子どもをもつことを許していないのだし……」



 そう言ったグレイシーは叔父──ニコラスにとっての義父になる──への伝言を託して空港から飛び立っていった。


 その日から幾数十か月後に、慈母の顔が増しつつも人間らしい筋肉の使い方も覚えて帰国した。


 ニコラスは知りたくない感情を覚った。


 一種の嫉妬で、差し伸べなかった点は認めるしかない。

 ごめんなさいをすると決めたのは、きちんと好敵で向かい合いたいからだった。永続的に適わないとしても、こいつが彼女の隣で笑っているならばという自分なりの健闘だ。


 だが、今は、現状は、一回休みどころか謹慎と同等ではないのだろうか。

 誰しもが進退きわまる状況。

 頭を回転させてもどうにもならなくなったニコラスは、スマホをひっつかんだ。



遅くなり申し訳ございません。

今月は週一投稿の可能性が濃厚になってきました……お手数おかけします。

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