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この日もいつか、思い出に

少しだけグレイシー視点があります。

 柔らかな日差し。子どものころ、昼寝をしてゆっくりと瞼をくすぐってきた日のような感覚に包まれた。


「おはよう。よお寝れたか?」


 祖母がテレビを観ながら器用に声を掛けてきた。

 見舞いにやって来た時、祖母は寝ていた。

 安らかな寝息と昨日買っておいた500mlのミネラルウォーターが半分も開けられていないままだったことに安堵なのか嘆息なのかわからない息を吐いた。

 そのまま持ってきていた本を開けたことだけは覚えていた。


「う……ん。時差ぼけなんかも」


 その本はきちんと横のテーブルに置かれていた。栞を挟まれた状態の本。その栞は二つあった。


「あんた、その本貸しといてくれへん?」


 今日の祖母の体調はすこぶる良いのだろう。

 十数年前に眼病を患って手術をして活字を追えるようになったけれど、どこか億劫がって読まなくなった。


「ええよ。おもろい?」


 挟まれた栞は、正確には栞と呼べるものではなかった。

 印字の褪せたレシートだった紙片。


「あたしにはよおわからんことも書いてあるけど、気になってなあ」


 テレビにつないだイヤフォンを外して、テレビも切った祖母はどうにか手を伸ばして本をとった。

 手伝うことは厳禁──祖母はそれを嫌がって叱ってくる。



「他の、その作者の本も持って来ようか?」


「いらん。あたしにはこれを読み切る時間も無いやろし」


 きっぱりと言い切った祖母は、栞代わりのレシートを撫でた。ふと掠れる印字の中で読める程度の字が目に入った。


「それ、私が送った小包に……」


「せやよ。食べ物やと思ってたけど、むつかしいって書いてあった手紙に紛れてた。手紙もちゃあんと取ってある」


 祖母は鍵のかかるロッカーを見て笑っていた。



 ヨーロッパ旅行中、列車の乗り換えのために立ち寄った国で見つけたポンチョとそれに似合う冬用の室内履き。その室内履きを履き、ポンチョで家の中を動き回る祖母をすぎに思い浮かべた。手早く購入してラッピングしてもらった。

 発車するベルが響き渡る中、グレイシーに急かされながら小包を駅の郵便局で出した。走り書きした手紙は乱雑極まるもので、移動してから書いて出せば良かったと反省した思い出がある。



「なんか、すぐに出したいって思ってん」


 言い訳とともに照れ笑いが出てくる。祖母は目に見えて嬉しそうにしていた。


「だからすぐに届いたんやろなあ。一緒に異国の空気が入ってて、お父さんと一度だけ言った東南アジアの思い出が流れたわ」



 結局祖父との思い出という名の惚気になる。それはいつものことだった。

 今日は鮮明に語る祖母の瞳を見つめて、本当に祖母は長くないと思ってしまった。いやいや、顔つきや饒舌さを見たらすぐに退院やて──否定したい自分がそう語っても。



「なあ? グレイシーさんの写真はないん?」


 頬肉を柔らかく噛んで、相槌を打っていると祖母は唐突に聞いてきた。驚きでどう返事をすればよいのか迷っていると、


「旅行中に送ってくれた写真やあんたが移住したとこでの写真、あの子が忘れてきてしもうた言うからな。催促するには可哀相やろ? せやから、あんたやったら携帯電話に入れてるはずやし」


「あるよ、待って。今出すから」


「堪忍なぁ。会いたかったんやけど、おばあちゃん、こんなんやしなあ。グレイシーさんは忙しいやろし」


 開ける機会は病院内ではないと、鞄にしまっておいた。それに電源も切っていたせいで、すぐには取り出せなかった。


 早く、早く──急かす自分は入っていた電話もメールも確認しないまま、フォルダを開けてグレイシーが写る画像を漁った。



「はあ! Ð国の景色はこんなんやねんなあ! ほんまに綺麗な人やなあ。この子、グレイシーさんにほんまに似てるなあ」


 取り出せたのは三か月前にあった芸術祭での一コマだった。

 メラニーが撮ったその写真にはグレイシーとエイヴィリー、それに私が写っていた。画像越しからでも分かってしまうくらいに、微妙な空気が漂っていた。



「継子になるんか知らんけど、いじめてもあかんし構いすぎてもあかんのよ。女同士、それぞれの空気があるんやけどさっそうと駆け付けてくる存在とかが嬉しいもんなんよ」


 祖母は昔を思い出していた。曾祖母がどんな人かは知らないし、話そうともしなかったけれど、その言葉にすべてが込められていた。祖母の母は二人居たのだと。


「相席になったような、ちょっとした気まずさがある。たぶん、私はそう思ってるけど、その子は腹を立ててるはず」


 頷きながら咳き込む祖母を見て、こんな話をするつもりはなかったと後悔した。

 ただただ、昔は大きくて温かい居心地の良い背中──子どものように小さくなった背中をひたすらに撫でて言い知れない気持ちになっていく。それでも祖母は咳き込もうが、穏やかに言い切った。


「かまへん。ハルは遠慮しいやからな、相席やねんたら相席でどっかりとしてたらええねんよ」



 にこりと笑っていた。

 それが祖母ときちんと交わした最期の会話になった。

 いつも私に逃げ道をくれていた祖母らしい言葉だった。



× × ×



 グレイシーはスマホを見つめていた。

 帰って来てそのままの装いは、くつろぐには不向きだった。

 重役会議、秘書から押し付けられるメモの数、それよりも少なくとも頭痛につながる一族からの連絡。怒涛の日だった。

 それでもくつろぐことに優先できない状況だった。


 ハルと写っている画像を開けた。それは勝手の指が動き、適当に開けた写真だった。

 ハルと娘のエイヴィと三人で写っている写真。

 メラニーがせっかくだからと嫌がるエイヴィを丸め込んで撮ったもの。エイヴィはよそ行きのすまし顔で写っていた。


「笑顔の大安売りはしないわ」


 そう言ってメラニーを驚かせていた。


「さては最近、気になる人でもできたのかな?」


「メラニーおばさん。あんまりその手の話題は向き不向きを選ばないと後悔するわよ」


 そうも言っていた。

 あんなに懐いていたのに、とメラニーは作った寂しさの顔をしていたけれど、エイヴィには分かっていたようで気にもしなかった。


 ハルはといえば、ぎこちない笑顔を向けておさまっていた。所在なさげの両手。その片方にはシンプルな指輪が光を受けていた。


「まさか自分がプラチナをはめる日がくるなんて思わなかった」


 相手を思って贈り合った指輪とは別に用意したその指輪を掲げて、眩しそうに泣き笑いしていた。


 ハルの国にすればたかが指輪、されど指輪。

 スペランツァ一族にとっては大きな意味合いを持つ、プラチナの指輪。


「この指輪のように、知らないことだらけかもしんない。でも、貪欲になって知っていく。

 ──グレイシー・ジョディ・スペランツァの不変のパートナーであるために」



 それがハルから、二人だけの誓いに言われた言葉だった。

 ハルは結婚や準じた約束に拒否反応のようなものがあった。だから、その言葉を聞いたときにグレイシーは溢れる涙から頷くしかできなかった。


 過ぎ去った日々の思い出が訴えてくる。グレイシーの気持ちを純粋に。


「会いたい……ハルに」


 午前中に一回、夕方にもう一回。昼にはメールにしてハルに連絡を試みた。それでも虚しい結果だったし、折り返しも返信もなかった。

 溜息をひとつこぼし、グレイシーは立ち上がった。着替えるために、一件の連絡をするために。




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