目に見える変化
トウキョウの出入国管理局できちんとした審査を受け、解放されたのがお昼を過ぎての時間。これからカンサイまで行くとなると夜も深まった時間だなと嘆息する。
当たり前だけれど、トウキョウは知っている街並みではなかった。そこで時間をつぶすには気後れを感じる。何よりもおばあちゃんの元に少しでも近くに行きたいと逸る気持ちがあった。
ぶつからないように、かき分けるように、案内板を必死に目で追いながら新幹線がある駅まで急ぐ。どこまでも永久に続くかのような道は、どこか現在の私を嗤っているようだった。
ニッポンは汗ばむ気温になったのだと感じていると、ポケットが振動していた。出入国管理局である程度、中を見せることになっていた。その時に機内モードを解除していたことを忘れていた。
もし、否とされたらどうしようか。
もし、書類がうまく通されていなかったとしたら……
不安な気持ちで臨んでいたから、姉に連絡することを忘れていた。
「お姉ちゃん、着いたで。今、トウキョウ。もうすぐしたら新幹線で向かう」
「はあ、良かった。あんたのことやからなんかあったんやないかって心配やったのよ」
「朝に着いてすぐに税関から審査って結構しんどいもんやね」
「それなら帰ってきたら? おばあちゃんのこともあるし、住み慣れた国は良いものよ」
たぶん、わかろうとして姉なりに悩み、いろいろと調べたりもしたとは思う。
性的指向からはじまり同性愛の歴史に、どんな悩みを抱いてそれをバネにしている人々のこと。その陰につきまとう苦にして亡くなった人たち。きっかけになって殺されてしまった人たち。
姉のことだからすべてを詳細にしていったと思う。つかず離れずの微妙な姉妹関係と言っても、親しい人間には心遣いを惜しむことなくするのが姉。
でも、私ではないからこそ、住み慣れた国が良いと言えてしまうのだろう。
どれだけの息苦しさを感じて、カテゴライズされてしまった中でさらにコミュニティの囲いがあり、そこでまたジャンル分けされる息辛さ。
男女間で発生するであろう、男だから女だから……といったものはマイノリティの性的指向にもあった。
私が垣間見た中だけのものかもしれないし、世界にはもっと大きな悩みがあることはわかっている。
それでも──私は日本では見た目や日常のあらゆる好みから分類されてしまった。
その時の心の虚しさから膝を抱えていることに安らぎと諦めを覚えた。
高速で過ぎ去っていくカントウ、トウカイ地方を経て、ようやくナゴヤに一時停車する新幹線は、無味無臭の人々を送り出してさらに受け入れていく。
そこに笑顔があり、疲れが滲んでいたり、安堵の顔や悲しみの名残りを感じさせていたりと様々だった。それでも無味無臭さは感じてしまう。
先ほどまで隣り合っていた乗客はすでに降りたのか、動き出した時には誰も座っていなかった。オオサカで私が降りるとまた、誰かたちがこの二連席に座るのだろう。
私の悩みもそんなものかもしれない。
誰かが同じような広義の悩みを抱えてきて、それを私も抱え、また誰かが悩む。
私が知っている新幹線と違い、ごく短時間でオオサカに着いてもなんだか、どこまでもよそよそしさを感じた。目線を上げずに済むからと顔を俯けて歩く。まるであの時、この日本で私がいつも生活していたかのように。
× × ×
入室には時間制限があった。病院はまだ面会時間内だったけれど、その説明を省いてしまうくらいに姉は動揺したままだった。私が傍にやって来ても病院のスタッフと勘違いしたような間があった。
「おばあちゃん、ずっと我慢してたはずの痛みを伴ってるみたい」
「どれぐらいなん?」
このまま首は下を向いたままで固定されてしまいそうになる。
「気力次第、らしい。延命は法律の範囲でしかしていないからね。あんたが帰って来てくれたら喜ぶで」
姉の言葉にニッポンの医療法改正などが度々あったことを思い出す。だったら、大使館に駆け込むべきだったと少しだけ苦笑した。
「うん。お姉ちゃん、家に帰ってる? 寝てくる?」
結婚して少しだけ丸みを感じさせたかつての姉は、疲れからか痩せて昔のピリピリした雰囲気を纏わせていた。
「寝てはいるよ。ただちょっとお腹が空いたかもしれん」
「ご飯屋さん、駅前にあったかな。院内でもええならそこ行く?」
「あたし、車やから道中で見つけよう。ここ、原則完全介護で泊まれないからね」
なんでもお見通しだと言わんばかりの姉の物言いに再度、苦笑を浮かべる。
そこそこ混みあった店内で、ピアノが奏でる日本の有名曲は神経を静める効果があるようだった。誰もがスマホをひたすらに見るか連れと静かに会話をしている。全国チェーンの和食レストランだと思えないな、と感想を抱きながらモニタに映るメニューを眺める。
「ここのテンドン、おいしいよ。それにこのおニクゴゼン、昔に食べたあの御膳に似てるってハルも言うと思うよ」
「なら、御膳にしよかな」
「とくにこのトンジルがそっくりよ。とんかつはいっしょにごはん食べに行ったカツ屋さんのにそっくり」
現在のニッポンはイントネーションも変更してしまい、姉も公衆ではそうしているのか標準語だった。他人を見ているような気がしたけれど、その瞳には変わらぬものがあった。
そして優しさも。
──変わらないものなどない。でも、変えようもないものもある。
視線を感じて物思いを止めると姉が見ていた。首を傾げながら見つめると気まずげ気まずそうに口を開けた。
「ハル、おかえり。少しやせたんやない?」
そう言えば帰国の挨拶をしてもぼんやりとした顔を向けられたな。
「あ、ただいま。どうかなあ? 結構肉メインな生活やけど」
「ちゃんとは食べてるんやね? 仕事は? 学校はどう?」
矢継ぎ早に聞かれるけれど、そこにグレイシーのことを聞こうという意思はないようだった。
「うん。でも、さきにたべよう?」
配膳口から覗く注文品を指さして言うと溜息混じりに返事がきた。姉は私ともっと距離を保っていたのではないか? こんなに気遣ってくる人だったのだろうか?
そう思ってもニッポンで食べる豚汁は瞬時に難しいことを忘れさせた。
次話は週明けを予定しております。




