森の家
服ぐらい着ろ、と言うまたもや妹のドスの利いた声とともに妹が服を放ってくる。黒いパンツ、続けて赤い腰巻が飛んできた。
「え?こんだけ?」
「そうだけど。何か文句ある?お兄ちゃん」
「いや文句はないんですけど・・・こう言う格好してる部族もいるわけだし馬鹿にするのも悪いことなんですけど、もうちょいこう……」
一度言葉を切って、キメ顔で言う。
「……かっこいいのが欲しいな!」
妹が黒歴史を眺めるような目線を向けて言う。
「きもちわる……」
「すいません……」
勉はいらないところで精神力を持っていかれる。
「そもそも、男物の服が余ってただけ感謝して欲しいくらいだよ。女キャラなのに男物の服溜め込んでたりしたら変な誤解生むし」
「はい……」
それでも股間の涼しさに伴う違和感は解消されたのだ。勉はその放られた衣服をありがたく頂戴していそいそと着用する。体が軽くなったような気がしたが、気のせいだったのだろう。その感覚もすぐに消え去る。
「とりあえず、ここがどこなのか確認しなきゃね」
「木登りでもしてみるか?」
「表現は微妙だけど高いところに登ってみるのは賛成。それにこの格好なら運動能力ももしかしたら上がってたりして……いや、待って」
「どうした?」
「もしかすると、運動能力に頼らなくても何とかなるかもしれない」
「……と言いますと?」
「もしこれができたら、ここは私のやってたオンラインゲームの世界の可能性が高まるんだけど……っと」
と言って、彼女はなぜか静かに目を閉じる。
瞬間、彼女を青白い光が包んだかと思うや否や、彼女はまるで弾丸のように上空へと射出された。
「は?」
またもや間抜けな声を上げてしまったが、仕方のないことだろう。今まで万有引力の法則を信じ込んできた勉にとって、それが突然覆されるような事象を目の当たりにしてしまえば何のことだかさっぱりわからなくなるのも当然といえた。
上空から妹の気分のよさそうな笑い声が聞こえる。随分と楽しそうな声だ。こんな声を聞くのも久しぶりだった。10分ほど上裸で待たされた頃、上空からホクホク顔の妹がゆっくりと降りてきた。
「いやー、人間が空を飛びたがる理由がわかったよ!お兄ちゃん!私も人間なんだけどさ!いや今はサキュバスか!それにしても楽しい!めっっっっっちゃくちゃ気持ちいいね!」
(妹、こんなに喋るやつだったっけ?)
疑問はさておき、彩香は本当に楽しげな表情に変わっていた。顔は少しばかり赤くなって、息も心なしか上がっている。真冬のグラウンドで運動をした後のようにも見えた。
「それにしても、今のは何だったんだ?」
「『飛行』だよ!発動できるとは思ってなかったけど、頭の中でコマンドを唱えると発動できるとはね……いやなんとなくそうかなって思っただけなんだけど……。うんまあ、もう夢なのか現実なのかよくわかんないや!」
「ああ、よくわかんないけどそれ俺もできないの?」
「んー、んじゃちょっとやってみて。頭の中で『飛行』って唱えるの」
「なんかめちゃくちゃ簡単そうだな」
「そりゃ第九級魔法だし、2レベルに到達すれば誰でも使えるいわば常識みたいな魔法だからね。はい、じゃちょっとやってみてよ、楽しいから」
妹の口ぶりからするに勉をからかっているわけではないことはわかるし、現に妹は空を飛んでいた。これで勉も空を飛べるのであればこれ以降の探索も捗るだろう。
とはいえ妹が常識という魔法である。勉にできないこともないだろう。
そんな願いのもとで、頭の中で魔法を唱えてみた。
(『飛行』)
「……」
「……」
一切の変化は起きなかった。もしかすると唱え方がまずかったのかもしれない、そう考えた勉はもう一度その魔法を口にする。
(『飛行』)
やはり何も起きなかった。妹も不思議そうに首を傾げている。
「……あれ?」
「……?」
「んーと、多分ね、お兄ちゃん」
「はい」
「第九級魔法の『飛行』はレベル2で使用可能になるって言ったでしょ?」
「はい」
「それを使えないお兄ちゃんはレベル2に達していないと言うことになって、さらに最低レベルは1が限界だから、お兄ちゃんのレベルは1ってことになるね」
「……はい」
「それはすなわち最初期状態ってわけで、端的に言えばめちゃくちゃ弱いってことだね」
「……はい……」
「さっきの蹴りで死ななかったのが不思議なくらい、ってことかな?」
てへっ、と妹が小悪魔みたいなポージングをする。
心の中に晩秋の寂しげな風が吹き抜けたような感覚だった。
「全裸での登場といい『飛行』が使えないことといい、絶望的なんじゃないかな、お兄ちゃん・・・」
ボソボソと妹が何やら絶望的なコメントを発しているが、勤めて聞かないようにする。とは言え耳に入ってしまった不穏な独り言に、勉の表情は沈鬱なものへと変わる。その表情を見たのだろう。妹が必死に明るい声を作って励まそうとしてくれた。
「だ、大丈夫だよお兄ちゃん!いざという時は私が守ってあげるからさ!」
「妹……守られる……」
「うっ……あ、で、でもそれにほら!『レヴェナント・オンライン』では超低確率で初期状態から特殊能力が付与されることもあるから、ここでもそうだったりして!」
「超低確率……」
「……まあその大概は幸運が微妙に上がるとか、第十級魔法を打つ時間が短縮されるとか、低レベルの魔物に魅了されにくくなる、とか大したものじゃなかったんだけど」
勉にとってその言葉の羅列はあまり意味をなさなかったが、きっともしそうであっても役に立たないであろうことは妹の口調で察することができてしまった。
「ま、まあお兄ちゃん。もしこの世界に魔物がいるんだとすればそれを倒すことでレベルがちゃんと上がる……はずだから!気を落とさないで!今はクソザコお兄ちゃんだけどのびしろは十分あるから!」
「クソザコお兄ちゃん……」
手に負えなくなった勉の気をそらすように、妹が話題を変えた。
「それよりさっき飛んでた時、ちょっと離れたところに建物があったんだよね」
「……建物?」
「うん、しかも煙突から煙も出てたから多分人がいるんじゃないかなって」
「そりゃ行ってみる価値がありそうだな。この辺りに住んでる人なら地理に詳しいかもしれないし、何より今ここがどこなのかって言う情報を知りたい」
「そだよね。んじゃ決まりっと!」
そう言って妹は勉の体をいとも軽々と持ち上げる。勉の記憶が確かであれば、妹にこんな力はなかったはずである。
(妹が変わってしまった……)
そんな寂寥感とともに、勉と彩香の体が青白い光に包まれて、次の瞬間、猛スピード一気に上空へと躍り出る。
妹の変化への悲しみを一瞬で吹き飛ばすほどに、眼前に横たわる世界は壮大だった。
どこまでも広がる澄んだ青。所々に切れ長の雲、ふわふわと柔らかそうなわた雲が浮かんでいる。
眼下には深緑の大森林が広がり、その向こうには、涼やかな風に揺られる草が織りなす草原が続いている。
日本では見たこともないような風景に圧倒され、勉は息を飲んだ。
右方を見れば、遠くの方に高々とした山が伺える。その手前には遠目から見ても大きな町がいくつかあり、その周りには大小様々な街や村のようなものも見受けることができた。壁に囲まれたひときわ大きな建造物は城、それと城下町だろうか。
「……すごいな」
「でしょ!?これはテンション上がるでしょ!?」
「ああ、この景色を見て、さらに自由に空を飛べたら……うっ……」
「泣かないでお兄ちゃん!強く生きて!まだ可能性を捨てないで!」
「はい……」
「んで、私がさっき見つけた建物っていうのがあれ」
妹の指差す方向を見れば、確かに建造物がある。あれに近い建物を、勉は確か童話の中で見たことがあるはずだった。
「なんか、魔女の小屋みたいだな」
「私もそう思ったところ。だけどあんな建物は『レヴェナント・オンライン』でも見たことがない……というか世界観が全くもって違うんだよね。あのゲーム、めちゃくちゃドロドロした世界観だったから。こんなのどかな風景見たことないや」
「ああ、そうなの……ってことはここ、一体どこなんだろうな」
「やっぱり異世界じゃない?」
「現実を飲み込めない……」
「それは私もだけど」
くすり、と妹が笑う。
「ま、私にとってはどうでもいいんだー。この世界のこと何にもわからないけど、こうやって素敵な景色も見られるし、空飛ぶの楽しいし……それにお兄ちゃんも一緒だしね!」
「俺が一緒でよかったのか?」
「もちろん!一人だったら私、こんなにはしゃげてなかったんじゃないかなぁ」
「お前ならはしゃいでそうだけどな」
「そうかな」
「……まあ、しばらくしたらホームシックになりそうではあるな」
「言えてる!さっすが愛しのお兄ちゃんだ、私のこと何でもわかってるんだからーもう。愛してる!」
「あ、うんそのありがとう」
「微妙に照れないでよ気持ちわるい」
「ええ……そんなこと言ったら兄に向かって愛してるとか言ったお前の方が気持ちわるいんじゃ」
「この高さから落ちたいって今言った?」
「いえ全くそんなことないです」
「……んじゃとりあえずあの魔女の家っぽいところ、行ってみるね」
「了解」
そういうや否や、またもや猛スピードで空間を滑るように進む。涼しげな風が目にしみて涙が出てきた。もうちょっと落ち着いた運転はできないもんなのだろうか、と言う多少の恐怖に由来する不平不満はあるが、飛行魔法さえ使えなかった勉には何も言うことができなかった。もしかするとスリルを楽しんでいるのかもしれない。
だが、妹は急に慌てたように勉に叫ぶ。
「あ、ごめんお兄ちゃん、なんかミスった!」
「へ?」
「衝撃に備えて!」
意図するところもわからなかったが、それより衝撃への備えなど、脇に抱えられた状態でどうしろというのだろう。結局なすがまま、せめてもの対策として身をこわばらせてみた。
次の瞬間、勉の心臓に響く重い音と同時に強い衝撃が伝わり、そのまま地面に放り出された。
ズザザッ、と数メートルほど地面を全身で舐めるように転がって、またもや怪我をしたのではないかと思ったが、今回は擦り傷程度で済んだようで安心する。
勉はすぐに起き上がり目の前を見ると、そこには上空から見た時よりずっと大きな建造物があった。
「あ、お兄ちゃん、大丈夫?」
妹が何事もなかったかのように悠然とこちらに歩いてくる。その声も気さくで無責任にさえ思える。
「擦り傷程度で済んだが……一体何をどうミスったらこうなるんだ?さっきみたいに綺麗に着地できなかったのか?」
「いや、何かよくわからないんだよね。急に『飛行』が阻害された、のかな、そんな感覚だったんだけど……」
「その通りですよ」
不意に家の方向から、綺麗で凛とした女性の声がした。
いつのまに立っていたのか、その家の玄関には一人の女性がいた。思わず目を奪われてしまうほどの美貌。深緑の、大きな瞳、腰のあたりまで長く垂れる銀髪は流れるようで、顔全体で見ても整っている。すらりと長い手足、適度でありながら上品に膨らんだ胸部。それはもはや精巧極めた銀細工のようですらあった。全身のどこを見ても欠点らしい欠点は見当たらないほどに美しい。
そう、美しい、という表現がここまで適した存在は今まで生きて来た中でこの女性以外見たことがない。そう勉に思わせるほどに彼女は清廉とした美しさを持っていた。その身に纏う雰囲気もどことなしか涼やかで、草原に吹きつけていた涼しげな風を連想させる。
ハッとした表情をしたのは彩香で、何やら焦っているようにも見える。そんな彼女の様子を見て、小声で話しかけた。
「どうした。あの人は知り合いなのか?」
「んなわけないでしょ!?バカなのお兄ちゃんは!?」
「……すまん。ただ様子が少し変だったから気になってな」
「『森妖精の魔導士』……」
「え?」
エルフ、と言っただろうか。勉はそう言われてよく観察してみれば、耳が人間のそれとは異なっているのに気づいた。
「あれは、バージョン1.5で追加されたモンスターだよ。森の迷宮の中に出て来て、当時はかなり強かったって噂だけど」
「何、強いの?」
「いや、それも昔の話。今の『レヴェナント・オンライン』はバージョン4.5だし、もうすっかり見ることもなかったから懐かしいなあって」
「そうなのか……なるほどなあ……」
結局何を言ってるのかはほとんどわからなかったが、彩香の表情も元に戻って来たので安心する。
「あなたたちは一体どう言った要件でこちらにいらしたのですか?」
エルフの清らかな声がかかる。勉は一瞬考えて、言った。
「そうですね……俺たち……いえ、僕たちは先ほど事故にあったんですが、気づいたらこの近くまで運ばれてたみたいなんです。それでここがどこか確かめている中、ここに家があったので、この近辺に住んでいる方なら何か知ってることがあるのではないか、と考え伺った次第です」
エルフは「ふむ……」、と言って、しばらく品定めするかのような視線をこちらに送ってから告げた。
「……なるほど、それはお困りでしょう。お出しできるものは少ないですが、どうぞ、お入りください」
そのエルフは案外すんなりと勉たちを家へと招いてきた。
「それじゃお言葉に甘えて……」
「……ちょっと!お兄ちゃん!」
彩香がやけに冷たいささやき声で勉を引き止める。
「どうした?」
「どうした?じゃないでしょ。いいのこれ!?危険だ!とか思わないわけ?」
「……ん、言われてみれば危険があるかもしれない……が、結局情報が欲しいわけだ。それによくわからないが、彩香がいうに、あまり強くはないんだろ?何かあった時も対処できそうじゃないのか?」
「レベル1のクソザコお兄ちゃんを守りきれるとは限らないからね」
「うっ……まあその辺は、その、何か対策ないですか……?」
「……しょうがないなあ」
そう言って、妹は腰に下げた袋の中を探る。このやり取り、この光景にどこか既視感をおぼえながら待っていると、彩香は一つの奇妙な銀のブレスレットを取り出した。
「はいこれ。『純銀のブレスレット』。敵の攻撃を食らっても一回は耐えることができるアイテムだよ。これ装備しといて。多分あのエルフなら一撃耐えてくれれば余裕だから……もし異常を感じたら即座に最大火力で家ごと吹き飛ばしてやる」
何やら怖いことを言っている妹をよそに、エルフが声をかける。
「どうしたんですか?どうぞ遠慮なさらず、お入りください」
優しげなエルフの声に敵意など微塵も感じられなかったが、確かに未知の場所で油断するのは禁物だろう。勉は自分の浅慮を反省するとともに、その声に従って家の中に入った。妹もそれに続いて入る。
そこに広がっていたのは、小綺麗な家具、清潔感漂う内装、そして二階へと続く階段。
質素な感じはあるが、どこか心を落ち着かせる空間だった。木造建築特有の優しい木の香りに混ざって、時折香草のような匂いも混じっていたが、それさえもルームフレグランスのようなものさえ感じられる。
「……さて」
後ろ手にドアを閉めながらエルフが言う。その、ともすれば疑わしい行動に妹が警戒心を抱いたのだろう。ピクリ、と肩が動いたが、それを意に介さないような美人エルフは呑気に告げた。
「では、お茶を入れますね。しばらくそのテーブルの席に座ってお待ちください」