はじまり
画面に映るソースコードを見て、微妙に顔をしかめながらコーヒーを啜る、優雅な朝活。
朝比奈 勉は、土曜日にあった学校のイベントの代休、ということで、平日にもかかわらず休日のごとく贅沢な時間を謳歌していた。
気分転換に、二枚あるモニタのうち右側、ソースコードの羅列ではない側のモニタで朝のニュースを確認した。
そのニュースでは、交通事故があり、同い年の17歳の高校生が死亡したことを伝えている。
(朝から嫌なものを見たなあ……)
例えるなら、黒猫が目の前を横切ったような、そんな感覚だろうか。
黒猫が目の前を横切ろうが何をしようが、結局その後不幸なことが起こった試しがないな、と思い直してネットサーフィンを続ける。静かな朝だ。
それもそのはずだろう。
この家にいるのは勉と妹の彩香だけなのだから。
朝食の用意はもちろんのこと、全ての家事は二人の分担作業だった。
かつてこの場所に住んでいた父は本業だけで相当高額な給料をもらっていた。
大手IT企業に勤めながら、そこでは副業が可能ということで副業も始め、その副業で一財産を築き上げたあの男は、一般的に考えれば傑出した人物であるのではないだろうか。おかげでなんとか今まで妹と二人で暮らすことができているくらいだ。
母は父が顔だけで選んだであろうような、父には釣り合わないくらい綺麗な人物だ。
幸い勉も彩香も母親の顔に似たため、一家では父と似ている人間はいない。
もしかすると、遺伝子のレベルで父と似ている人間はいないのかもしれない。
というのも、母は浮気癖があったからだ。
そのせいで何度も父に怒鳴られて、殴られて、最後の方は殺されそうになっていたのを記憶している。
ただ勉は、何に自分の心の中にわだかまっている感情をぶつければいいのかわからなかった。だから、行き場を失ったその感情を自分の趣味にぶつけたのだ。
勉の趣味はプログラミングだった。趣味、というよりも、命綱、と言った方が正確かもしれない。
プログラミングだけでなく、もっと広く言えば、コンピューター全般、おおよそITなどと言われるもののほとんどは興味の対象だった。
プログラミングが命綱たる理由、それは、文字どおり勉が開発したソフトを売ることで金銭を稼いでいるからだ。今ではだいぶ収入も安定している。高校生とはいっても、自身で大学の学費を賄えるくらいには稼げるようになっていた。
プログラミングは、勉がずっと昔に父に教えてもらったものだ。まだ妹が生まれておらず、両親がそれなりの仲だった頃の話である。父の天才的なプログラミング技術は、今まで父以上に出来のいい人間を見たことがないことからも相当なものだったことがわかるし、今の勉にも追いつけないくらいの領域に達している、という確信があった。さらにそれに加えてプログラミング技術にとどまらず広く深いコンピュータに関する知識を持ち合わせていたため、幼い頃の勉には魔法使いか何かにしか見えなかったものだ。父の教えてくれたことは、間接的な意味で彼の血肉となっているし、純粋に感謝しているのもまた事実である。
そんな父親は昨年、自殺した。
理由はわからない。唐突に、なんの前触れもなく、静かに自らの命を絶った。
もともと勉には何を考えているのかよくわからない、奇人という風に映っていたが、死ぬほどまでに追い詰められているとは夢にも思っていなかった。
母親は父親の葬式に来ることはなかった。もっとも、そのずっと以前から離婚届は出していたようなので、さして驚くことでもない。むしろ来る方が無神経でさえあるように、勉には思えた。
と、思考のネットサーフィンに耽りつつあったところで、不意に頭上から確かな重量を持ったものが覆いかぶさってきて。
柔らかい感触が背中を包み、どきっとした。
「おはよ、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう」
春の匂いが背後からふわりと漂った。
妹だ。
最近多少スキンシップ過多なところを感じるが、これもまたあの頃と比べれば進歩だ、そう無理やり思い込んで違和感を飲み込む。
外見は、兄であると言うことを考慮せずに形容するのであれば、あどけなさの残る美人、と言う感じだろうか。
身長は154センチと中2にしては平均的で、髪は肩に少しばかりかかる黒髪。前髪は左に分けて流している。
胸は決して豊満ではないが、ないわけでもないのでコメントに困る。最近また少し大きくなってきているような気がしないでもない。
きちんと会話をしているにもかかわらず、彼女の手から離れない端末。
「それ、最近お前がはまってるゲームか」
「そだよ。『レヴェナント・オンライン』。これが奥が深くてねー」
勉に寄りかかりながら「うおっ、これはレアアイテムの『時の水晶』では・・・」などと言っている。器用なことだ。
妹はオンラインゲームの中で有名らしい。
サキュバスという扱いの難しい、誰もが使わなかったような種族を育て上げ、最強クラスプレイヤーの称号を欲しいままにしているそうだ。それがどれほどのことなのかは、彼女のやっているゲームの詳細は知らないためわからない。だあが、何事も一番になるのは難しい。そう考えるととてつもなく偉大なことのようにさえ思えてきた。
準備万端の妹を見やれば、ポケットワイファイを身にまとってホクホク顔だ。学校でゲームをやる気が満々なのはいただけないが、これもまたあの頃と比べれば大きな進歩である。
ーーー食事は愚か、睡眠もほとんどと言っていいほど取らず、そしてその心が残虐性にまみれていたあの頃と比べれば。
ゲームは人をダメにする、という人がいるかもしれないが、それを人間らしく生きるための頼みの綱としている場合だってある。安易な否定は罪深いものだ。彼女がゲームのおかげでどれだけ救われたことだろう。今ではきちんと学校も行くし、食卓に顔を出すし、そこで会話もする。オンラインゲームでの人との出会いが、彼女をここまで変えた。情けない兄ではあるが、今はただ彼女のやっている『レヴェナント・オンライン』とやらに感謝することだけだ。
「学校、歩いて行くんだろ。お前の足でこの時間に出たら遅刻だろうが」
「いやいやいや?今日はお兄ちゃんの学校休みだし、バイクの後ろで優雅に登校したいなー?なんて」
「歩け」
「ひどいお兄ちゃんだなあもう!本当は妹を背中に感じながらツーリングを楽しみたいくせにー」
「まあそうしたくなくもない」
「むふ。正直でよろしいぞ」
ぽんぽんとゲーム機で頭を撫でられる。どうせなら手で撫でて欲しかったなあ、などという感想を憶えながら家を出て、ぶるりと一つ身震いをする。
冬だ。澄んだ空気は鼻に痛いし、何より服装は何重にも必要となって来る、効率の悪い季節。
いやだいやだ、と思いながら、エレベーターで下まで行き、マンションの駐輪場にあるバイクのエンジンをかけた。本当は歩いて行ってくれた方が妹の将来の人間性の為になるのだろうが、何せ彼女が一番辛かった時期にあまり彼女にしてやれることのなかった兄である。わがままくらい聞いてやろう。そう決めた。
ヘルメットをかぶり、安全運転に気を配りながら出発する。
冬の外気は一段と全身に染みて、端末を手にしながらもぎゅっと体を寄せた妹が身震いをするのが伝わった。晴れた冬の日の乾燥した空気に少々の不快感を、そしてそれを上回る新鮮な空気の幸福感に包まれながら、信号が青に切り替わったのを見て前進する。
ーーーその時、初めて、勉には左右を確認する大切さがわかった。
大きなクラクションが聞こえる。その方向を慌てて目で追えば、真横から巨大なトラックがスローモーションで迫って来てーーー
焦り、後悔、そして恐怖。
非常事態に真っ白になる頭の中で、それでもなお一つの願いが頭をよぎる。
ーーー妹だけは、どうか助かれ。
そんな神に頼むような、しかし現実には叶えられないような願いを抱いて。
勉は体に激痛が走ったのを感じ、そして視界は黒く霞んでいった。