⑦
「降沢さん、失礼します!」
美聖は、ダイブするような形で室内に飛び込んだ。
一筋の細長い光が、真っ暗闇の部屋の中を仄かに明るく染める。
「どこですか!? 降沢さん!」
廊下の明かりが差しこんではいるものの、部屋の奥には届いていない。
暗いところがそこまで苦手ではない美聖だったが、この室内のひやりとした冷たい空気は嫌いだ。
美聖は電気のスイッチを探して、室内を警戒しながら歩いた。
一間の部屋は、果てがない程広く感じる。
「ひっ!」
思わず、転びそうになったのは、床に打ち捨てられている栄養ドリンクの空き瓶に足を取られたからだ。
しかし、言い様のない寒気と、眩暈を覚えるのは何故なのだろう……。
――黒い煙。
無造作に置かれているキャンバスを取り囲むように、吐き出されている。
目で見える訳ではない。
美聖がそのように感じてしまうのだ。
(…………ああ、そうか)
「そういう……ことなんだ」
その時になって、美聖は、トウコが頑なに美聖をアトリエに入れない理由に気づいてしまった。
降沢がいわくありげな物を描きたがるのだとしたら、それをモデルにして描いた絵も同じだ。
(触れてはいけない……ものなんだ)
――このままだと、持って行かれる。
以前、トウコが口にしていた言葉。
このアトリエに足を踏み入れてみるまで、半信半疑だった本当の恐怖が美聖に襲いかかっている。
(そうよね……)
こんな強烈な物を相手にしていたら、寿命も縮むに決まっている。
(駄目だ)
心は進むつもり満々だが、身体がこれ以上進むことを拒否している。
冷や汗が滴り落ち、頻脈と共に、視界がぐるぐる回る。
酸欠のような状態だ。
(変な薬品を使っているわけでもなさそうだし……やっぱり、これって降沢さんの絵のせいなんだよね?)
美聖自身、霊感なんてないと思っていたが、さすがにこの先は無理だ。
多分、どんな人でも、逃げ出したくなる本能的な恐ろしさなのではないだろうか?
「降沢さん!! お願いですから、返事をして!!」
暗闇の中で、名前を呼んだ。
出来れば、この場から立ち去りたい。
だけど、ここには絶対に降沢がいるのだ。
彼と言葉を交わすまで、この場から逃げたくなかった。
(………………もう二度と、逃げないって決めたじゃない)
過去に後悔していることと、降沢とのことは、まったく別の問題だ。
それでも、美聖は意地になっていた。
降沢の安否にこだわるのも、そのためだ。
ここで降沢を見捨てたら…………。
(また……二の舞になってしまうもの)
……だから。
美聖はすうっと、息を大きく吸って、吐いた。
「降沢さんっ!!!」
渾身の力で、名前を呼ぶ。
――と、ごとっと何かにぶつかった音がした。
「…………いたっ」
場の空気を打ち破るような、間抜けな声だった。
でも、なんだかひどく懐かしい。
「降沢さん! 大丈夫ですか!?」
何処か痛むのだろうか……。
心配して、声がした方に駆け寄ると、頭を押さえて、もぞもぞと上体を起こそうとしている人影があった。
小さい頃、迷子になっていたところに、両親が現れた時のような安堵感に、美聖は腰を抜かしそうになった。
「何しているんですか? 貴方は…………」
ホッとした感で息を吐いたのだが、溜息のようになってしまったかもしれない。
降沢は、僅かな光にも慣れていないのだろう。
両目を眇めている。
「……頭……ぶつけてしまいました。二回も」
「…………はっ?」
「この椅子で」
「ああ」
そう言って、アンティークの椅子の立派な脇息を擦った。
すっかり床で眠ってしまっていた降沢が、慌てて起き上がろうとした時に、椅子に頭をぶつけてしまったということらしい。
学習能力もなく、二回も……。
「大丈夫なんですか?」
「いや……。大丈夫ではないですよ。まさか一ノ清さんがここに来るとは思ってもいなかったので、声がするけど、夢だろうと思っていたら、本当にいるんですから」
どうやら、大丈夫ではないのは、頭の中のようだ。
「降沢さん、気づいていたのなら、もっと早く返事を下さいよ。私がどんな思いでここに来たのかって」
「ごめんなさい。意識が朦朧としていたので……」
「やっぱり、病院行った方が良いんじゃないですか?」
「それは平気ですよ。起こされても起きないことは、よくあることなので」
…………それは、最低だ。
いっそ、叱りつけてやりたいのに、美聖はこの空白の三週間で以前降沢とどのように接していたのか、すっかり忘れてしまっていた。
降沢だけが、以前と同じで、なれなれしかった。
「なんか……久しぶりな感じがしますね。一ノ清さん」
「三週間ぶりです。まったく店に顔を出さないから、心配してたんですよ」
「心配……してくれたんですか。僕のこと、苦手そうだったのに?」
「…………そんなことは」
「そのくせ、最上さんには、見惚れていましたよね?」
「………………ぐっ」
(なぜ、それを言うのかな……)
否定しようとしても、今更だった。
本人にも、バレバレだったのなら、どうしようもない。
しかも、マイペースで鈍感そうな降沢に、気づかれていたのなら、美聖はよほど態度に出るタイプなのだろう。
(私、占い師なんて仕事やっていけるのかしら?)
軽くショックを受けつつ、美聖は照れ隠しのように、降沢の前でしゃがんだ。
「と、ともかく! 私は降沢さんの身体が心配だったんです。栄養ドリンクをこんなに飲んでいたら、簡単に身体を壊してしまいますよ。三十代なんて、もうそれほど若くはないんですから」
「…………君……結構、毒吐きますよね?」
「勝手に孤独死されて、第一発見者になんてなりたくありませんからね。私」
「ならば、死なない程度に食べておきたいです。……お腹がすきました」
「はいはい。ちょっと待ってください。トウコさんから預かったサンドウィッチ持ってきます」
無事で良かったが、やっぱり憎たらしい。
腹を立てながらも、ちゃんと給仕してあげようと、扉の前に置き去りのままのサンドウィッチを取りに美聖は背中を向けて、歩き出そうとした。
……が、なぜか歩けない。
「……あっ?」
足がすくむ。
美聖は、そこで初めて自分の手足が震えていることに気が付いた。
「あれ? 何で?」
「……一ノ清さん?」
「あっ、これは……。大丈夫です。気にしないでください。ちょっと待って頂ければ、すぐに」
「大丈夫じゃないと思います」
「そんなことは…………」
……と、背後から、降沢の手が美聖の手に伸びてきた。
繊細な骨張った手が、美聖の手に触れる。
「降沢さんっ!?」
「震えているじゃないですか……」
「これは……その」
(恥ずかしい……)
子供でもないのに、身体に力が入らないなんて……。
このままでは、涙ぐんでいることもバレてしまいそうだ。
自分で行くと言い張って、この体たらくでは、トウコに合わせる顔がない。
「もう平気ですから……」
「それでも、手が冷たくなっていますし。僕と一緒にいれば、多少は落ち着くでしょう?」
そうなのか……。
いやいや……。
落ち着くどころか、心拍数がおかしなことになっているのだが……。
一体、何が起こっているのか……。
美聖には分からないほど、混乱していた。
降沢は後ろから美聖を抱え込むようにして、手を握っている。
暗いから確認の仕様もないが、降沢の手は美聖の腰を経由しているので、きっと後ろから抱きしめられているような構図となっているのだろう。
「君には申し訳ないことをしました。僕のせいです。怖かったでしょう……。ここは普通の感覚では入れない部屋らしいから……」
「怖いとは思いましたけど……。でも、私には視えませんから」
「視えなくても、君の身体は敏感に感じ取っていますよ」
「そうかもしれませんけど。もう、大丈夫ですって!」
「そうは見えませんから……て、あっ、でも、セクハラだったら、すいません。もしかして、気持ち悪いですか?」
「……そんなことは」
…………ない……と言いかけて、美聖は自分にドン引きした。
なぜ、やんわりと触れているような手を振り解くことができないのだろうか。
(降沢さんが、変に優しいからよ)
思いのほか、この人が優しいのは、罪悪感からだ。
他意はない。
いつもぼうっとしていて、女っ気の一つもない降沢が意識して、こんなことをするはずはない。
意識してやっていたら、大変だ。
そんなことよりも、この程度のことで、どきどきしてしまう自分が痛かった。
「ありがとう……」
美聖の頭上から、言葉が降ってくる。
多分それが、降沢の本音だ。
どこかよそよそしい笑顔や、一線画しているような敬語とも違う。
そのまま、頭を下げたらしい降沢の前髪が美聖の首筋にかかって、くすぐったくなった。
(絶対に、ほだされちゃ駄目なヤツなのよ。こいつは………)
何にほだされるのか、分からないままに、美聖は石像のように、硬直した。
その頃には、もう恐怖心も、この部屋の嫌な感じも何もかもがすっ飛んでいた。
現金な女だと自嘲してしまうほどに……。
降沢が微かに口元をほころばせたような気がしたのは、美聖の内心を見抜いたわけではないからだと信じたかった。
「さっ、ここには、色々と因縁めいたものが多い。一ノ清さん、ひとまず、ここを出ましょうか?」
「あっ、そうですね」
そうだ。早くここから出るべきなのだ。
そっと手を離して、入口の方に向いた降沢の背中に目を向ける。
けれど……。
(一つだけ……)
美聖は問わずにはいられなかった。
「…………降沢さん、最上さんの絵は完成したんですよね?」
「ああ」
頷いた降沢がいきなりよろけたので、美聖は急いで支えた。
「何やっているんですか? 降沢さん」
「すいません。何かにつまずいて」
「何かって……何なんですか。この床は……。怖いじゃないですか?」
「掃除しないと、ダメですね」
言いながら、降沢は美聖の手を離さない。
降沢と二人、どちらが支えているのか分からない感じで、よろけながら窓際に向かった。
閉めきっていた暗幕のような分厚いカーテンを、降沢が開けると、にわかに月明かりが差し込んで視界が良くなった。
「これは……?」
最上から借りた髑髏の指輪が、散らかった絵の具や、パレットと一緒に、丸机の上にちょこんと置かれていることを、美聖は確認した。
不思議なことに、その指輪には先日の黒い靄も、金色の光も一切何も感じなかった。
――代わりに。
「あれです」
降沢の指差す方向に、それらがあった。
あの黒い靄、金色の光……すべての色彩を吸収したように、最上が持っていた「髑髏」がキャンバスの中に棲みついている。
「…………降沢さん、これは?」
驚いた。
こんなことが……あり得るのか?
フィクションのような現実を前に愕然としている美聖に、降沢は淡々と話してくれた。
「一ノ清さん。君の推測通りです。僕は、因縁もしがらみも、呪いも、悪魔も、神様も……すべてを、絵の中に落とし込んでしまう絵描きなんです。悪魔降ろしの絵とか、神降ろしの絵だとか、色々言われたりするんですけどね。……ある意味、究極の霊媒体質なんだって、浩介には言われます」
「霊媒……?」
「一度、念を自分に寄りつかせて、キャンバスにぶつけますからね。そうして描いた絵を良い値で欲しいと言う人もいますし、二度と見たくないと逃げ出す人もいます」
キャンバスの下方に描かれた髑髏。その上には、大輪のユリの花が咲き誇っている。
描き方によっては、グロテスクに感じる髑髏が聖なる遺物のように感じるほどに、昇華させているのは、降沢の才能なのだろう。
「あの髑髏は、ある意味彼にとって必要なものだったのでしょうね。確かに、彼が何もかも捨て去って、裸一貫で成功するのに、必要なほど力の強いアイテムだった。だから、金色にも輝いていた。……でも、やがて彼の考え方が変わってきて……。成功だけではない。何かを欲するようになった」
「それが……ユリの花ということですか?」
降沢は、淡い微笑みで肯定した。
その横顔は、魅惑的だったけれど、どこか破壊的な微笑だった。
(やっぱり、ダメだ)
部屋全体に漂う、淫靡で甘美な香りに、再び眩暈が激しくなった。
(だから、私、この人には、近づきたくなかったんだ……)
怖いくせに、目が離せなくて……。
どうしようもなく、惹かれてしまいそうな予感がしたから……。
トウコの言うとおりだった。
――――美聖は本能的に、降沢を避けていたのだ。