⑥
「トウコさん」
降沢が離れにこもって、三週間目の閉店後。
美聖は、いよいよ行動に移すことにした。
「このままでは、降沢さん、本当に死んじゃいそうです。私、ここの材料で軽食作って、降沢さんのいる離れに持って行ってみても良いですか!?」
「別に、放っておけばいいのに……」
「駄目ですよ! 一応、降沢さんは、ここのオーナーなんですし、生存しているかどうかだけでも、確かめないと……」
一体、このやりとりを何度繰り返せば良いのだろう。
せめて、夜食だけでも運びたいと、美聖は立候補をしているのに、トウコがなかなかOKを出してくれない。
作業場のある離れには近づかない方が良いと釘を指すだけで、頑なに顔を横に振り続けた。
(一体、何の問題があるんだろう?)
その辺りの説明がないから、もやもやするのだ。
「美聖ちゃんは、本当に心配症よねえ」
サングラスの下のトウコの目が細くなったのが分かる。
トウコは母親のように、優しい人だけれど、降沢のこととなると頑固な一面があるような気がした。
「そりゃあ、心配ですよ。降沢さん、ただでさえ細いんですから、栄養取らなきゃ、数日も持ちませんって」
一体、降沢は何を食べて過ごしているのだろう。
いつもなら、昼時には必ず店にやって来て、美聖と同じ賄いをトウコから提供されているのだ。
――それなのに。
あれから、美聖は降沢と一度も顔を合わせていない。
人気のない古民家は静かだ。
森の中にあるので、住宅街の喧噪からも隔絶されている。
美聖もトウコも帰宅してしまった後、この広い邸宅の中、たった一人離れで……。
今まで考えたことがなかったが、想像してみただけで、美聖には耐えられない寂しさだった。
降沢は、最上から預かった指輪の髑髏をモデルに絵を描いているはずだ。
その姿を脳裏に思い浮かべてみただけで、禍々しい印象があった。
(だって、降沢さん……。あんなことを言うから)
――会心の一枚を一生のうちに一枚でも描くことが出来たのなら、死んだって構わない。
クリエイターというのは、皆、そういう矜持を持っているのだろうか……。
あの時の降沢がしていた情熱的な表情。
爛々とした瞳を、美聖は忘れることが出来なかった。
「でも、在季のこと……。美聖ちゃんは、ずっと苦手だったじゃない?」
「ちっ、違いますよ」
「ううん。どこか一線引いている感じだったわ。まあ、あいつも、最初は貴方に対して、よそよそしかったけどね」
「別に、苦手っていうわけじゃないんです。私にも、どうして近づきがたいのか、よく分からないんですよ」
「多分……本能的なものでしょうね」
「…………えっ?」
うふふと、笑いながらトウコは、皿洗いを終えて、エプロンで濡れた手を拭った。
「実はね、美聖ちゃん。ついさっき在季からメールで生存報告があったのよ。絵が仕上がりそうだから、軽食を頼むって」
「なんだ。それを早く言って下さいよ。本気で焦ったじゃないですか。一応……ちゃんと生きているんですね?」
「まあね。でも、今回の作品は早い方なのよ。下手したら、半年はこもるから」
「それ……。間違いなく、死にますよ」
「そうよねえ。一応、アトリエには、レトルトの食糧が備蓄されているから、ある程度は持つでしょうけど、無精な男だから、そんなに食べないでしょうし」
「……早く、軽食、持って行ってあげないと!」
「苦手意識を持っている割には、情が深いのねえ」
「だから、苦手ってわけじゃ……」
降沢に対して、多少、やっかみの気持ちもあったかもしれない。
でも、多分、それだけではないのだ。
美聖が彼に近づくことを畏れている理由は……。
「分かったわ。貴方を信頼して、頼んでみようかしら。実は作り置きしていたサンドウィッチが冷蔵庫にあるの。それを離れまで持って行ってくれない?」
「もちろんですよ。了解しました!」
美聖は威勢よく返事をすると、トウコが心変わりしないうちにと、サランラップできっちりと覆われたサンドウィッチと、ペットボトルの飲み物を素早くトレイに乗せた。
小走りで店の外に出ようとした美聖の背中に、トウコの声が飛んでくる。
「あっ、再三言っているけど、離れの……在季の作業場の前に置いてくれれば、良いからね」
「はいはい、分かっていますって」
美聖は空返事をしながら、足取り軽く、降沢の作業場へと向かった。
離れは、平屋で洋風の造りとなっている。
降沢の父母が住めるように、祖母が建てたとか……そんな話を聞いてはいたが。
(どれだけ金持ちなんだろうね……。降沢家って)
開店前の掃除中に、戦前の貴族の別荘のような離れを、目にする機会はあったが、いざ自分がその建物に足を踏み入れると思うと、少し緊張してしまう。
美聖は深呼吸をしてから、玄関扉を勢いよくノックした。
「ごめんください……」
予想はしていたが、返事はない。
「……降沢さん、入りますからね」
美聖は小声で断りながら、トウコから預かっていた鍵で、離れの扉の鍵を開けて、玄関を開けた。
室内に入った瞬間に、絵の具特有の独特な香りに鼻腔が刺激された。
(降沢さん……。やっぱり画家だったんだな)
今更の話だが、実感する。
靴を脱いで、玄関の入ってすぐのスイッチを入れると廊下一帯がパッと明るくなった。
離れの部屋は、現在一つしかないと、トウコが言っていた。
ならば、真っ直ぐ廊下を進むしかないと、美聖は抜け足差し足で歩き始めた。
「降沢さん……。いらっしゃますか?」
相変わらず、降沢からの返事はない。
何分歩き続けただろうか……。
汗がじっとりと滲むほど、歩いたところで、廊下の突き当りに大きな白い扉が見えた。
「ここが……アトリエ?」
静かな空間が落ち着かないので、独り言が多くなる。
降沢の作業場の前まで行ったら、扉越しにサンドウィッチを置いて、店に戻る……と。
トウコに言われた通りにするのなら、ここで美聖の仕事は終了だ。
(少し、気になるけど……)
彼がどんな絵を描くのか、美聖は知らない。
検索結果で出てきたのは、学生時代に入選した絵が数点ほどだ。
しかも、その画像もぼやけているので、降沢の作品について、特徴めいたものは、一切分からないままだ。
――この扉を開けたら、降沢の絵があるのだろうか?
「だから、駄目だって……」
ここまで来て、好奇心を燃やしてどうするのだ。
今は、とりあえず、降沢に何か食べてもらうことが重要なのだ。
「お疲れさまです。降沢さん! 一ノ清です!」
美聖はサンドウィッチの乗ったトレイを抱えながら、もう片方の手でノックをした。
…………しん……としている。
沈黙が広がるだけで、いっこうに降沢からの応答はない。
(声が届いていないのかしら?)
美聖は、更に激しくノックをしてから、軽食の乗っているトレイを扉の前に置き、大声で呼びかけた。
「絵……完成したって、トウコさんから聞きました!! 早い仕上がりだそうで、おめでとうございます!! それで、トウコさんからサンドウィッチを預かって来たので、扉の前に置いておきますので……」
召し上がって下さい……と、そのまま続けようとした時だった。
がたんっ!!
部屋の中で、大きな音が轟いた。
「えっ?」
何か大きな物が地面に落ちたような不快な音に、美聖は怖気を立てる。
無視できるレベルでなかった。
「ちょっと、今の音なんですか? 降沢さん! 大丈夫ですか!? 答えて下さい!!」
美聖は両手で扉を叩きながら、室内にいるだろう降沢を必死で呼んだ。
「大丈夫なら、返事をしてください。降沢さんっ!」
何のリアクションもないのは、一体……。
(本当に、降沢さんは生きているの……?)
「まさか……?」
密室状態で三週間。
降沢は誰とも会っていない。
良い絵が描けたら、死んでも良いと口にしていた降沢の鬼気迫る顔が、再び美聖の脳内によみがえった。
…………もう、迷ってなんていられなかった。